李禎は涼州北地郡の人であり、献帝に仕えた後漢王朝の侍中です。
李禎の名は正史三国志にはありませんが、注釈の献帝起居注に名前が見えます。
董卓亡き後に、李傕が実権を握りますが、郭汜とも対立し、献帝に対しても側近が刀を持っており、不満に感じていました。
李禎は李傕と同郷であり、献帝の為に上手く李傕を宥めた話があります。
李禎は李傕に上手く説明した事で、李禎は献帝に対するわだかまりを解いたわけです。
今回は献帝起居注に登場する李禎を解説します。
尚、魏の李典の子の名前も李禎ですが、ここで紹介するのは後漢の献帝に仕え、李傕と同郷の李禎です。
李傕の不満
李傕は王允や呂布を倒し実権を握りますが、鬼神や妖術の類を信じた話があります。
さらに、李傕は董卓を祀る為の祭祀場まで作りました。
こうした中で李傕と郭汜は対立する事になります。
李傕は献帝に拝謁する場合も、刀や鞭を持ち武装した状態で会いに行きました。
李傕にしてみれば、護身用に武器を持ったままで、拝謁したのかも知れません。
李傕が武装している事で、李禎ら献帝の側近たちも武装した状態で、李傕に備えていたわけです。
李傕が郭汜に対する無道ぶりを献帝に述べると、献帝は李傕が満足する言葉を述べた事で、満足しました。
しかし、李傕は献帝の側近である李禎らが、武装しているのが不満だった話があります。
李禎らにしてみれば、李傕が刀を持ち武装しているから、何かあった時の為の準備として武装していたのでしょう。
国家の慣例
李傕は献帝の周りの者達が、武装している事に不満であり「こいつらは刀を持っているが、儂に手を出すつもりなのか」と近親者に語りました。
これを聞いた李禎は李傕の元に行くと、次の様に述べています。
※献帝起居注より
李禎「刀を持っている理由は、軍中でそうする建前があり、これは国家の慣例なのです」
李禎の言葉を聞いた李傕は、気持ちがほぐれたとあります。
李禎の機転を利かせた言葉により、李傕が献帝や側近たちに対する不満が消えたのでしょう。
この記述を見るに、李傕はかなり単純な性格だったのかも知れません。
尚、李禎は李傕を上手く宥めたわけですが、「李禎は李傕と同郷の人」だとする記述があり、李傕の出身地である涼州北地郡が李禎の出身地でもあるのでしょう。
ただし、李禎と李傕は同じ李姓ではありますが、繋がりに関しては、同郷だとすること以外は分かってはいません。
李禎は李傕は上手く説得しましたが、李傕と郭汜の敵対は続き献帝が派遣した皇甫酈の説得も失敗し、長安は混乱していく事となります。
因みに、李禎の記録は、ここで途切れており、この後にどうなったのかは不明です。