名前 | 献帝(けんてい) 本名:劉協 字:伯和 別名:陳留王、山陽公 |
生没年 | 181年-234年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
一族 | 父親:霊帝 母親:王栄 異母兄:少帝(劉弁) 皇后:伏皇后、曹節 |
年表 | 189年 皇帝に即位 |
190年 長安に遷都 | |
196年 許に遷都 | |
220年 禅譲により後漢王朝の滅亡 | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
献帝(劉協)は後漢王朝の第14代皇帝であり、献帝の時代に後漢王朝は終焉を迎えています。
献帝が曹丕に禅譲を行い後漢王朝は滅亡し、魏王朝が誕生しました。
献帝を見ていると苦難の連続であり、息苦しい生活をしていた様に思います。
特に長安から脱出した時は、皇帝でありながら食料がないなどの状態となり、人生で一番苦しかった時期でもあっはずです。
献帝を見ると董卓、李傕、曹操の傀儡でしかなく、自分で実権を握った事は一度もありません。
献帝の権威を利用し、勢力を拡大しようとする人々の操り人形になっていた部分も多いです。
献帝という権威を欲しがる人物により、献帝は自らのいる場所に嵐を呼び寄せてしまったとも言えるでしょう。
それでも、献帝は時折、皇帝としての威厳を見せたり、配下の者達を心配するなど王者としての遺風があった様に感じています。
今回は後漢王朝の最後の皇帝である献帝を解説します。
劉協(献帝)の誕生
劉協(献帝)は霊帝の次男であり、字は伯和だと伝わっています。
兄に何皇后の子で異母兄の劉弁がいました。
霊帝の時代は地球の寒冷化などにより不作が続き、異民族が漢民族の居住地に入り込むなど、非常に不安定な情勢でした。
霊帝の時代は宦官の張譲や趙忠が幅を利かせ、賄賂も横行した時代です。
こうした中で181年に劉協が誕生する事となります。
黄巾の乱が184年なので、黄巾の乱の少し前に劉協は生まれた事になるでしょう。
既に混乱の時代に、劉協は生まれているわけであり、巡り合わせが悪いとも言えます。
董太后に育立てられる
劉協の母親は王栄であり、聡明な女性だったとも伝わっていますが、何皇后に妬まれ毒殺されています。
劉協は若くして、最も近しい人間である王栄を失った事となります。
劉協は王栄が亡くなると、暴室(罪を犯した女官が入る場所)に送られました。
その後に、劉協は霊帝の母親である董太后に預けられ、教育される事となります。
劉協は聡明であり、霊帝は長子の劉弁を後継者にするのか、次男の劉協を皇帝にするのか決める事が出来ませんでした。
こうした中で董太后も劉協を、皇帝に即位させたいと考える様になり、劉協派が誕生したのでしょう。
何皇后と董太后は険悪な仲となり、何皇后の兄の大将軍・何進と董太后の一族で驃騎将軍の董重の争いにも発展します。
因みに、王栄を殺害した何皇后ですが、事が露見しますが霊帝は罰する事が出来なかったと伝わっています。
霊帝の気持は何皇后にあったのでしょう。
少帝の即位
189年に霊帝が亡くなると、何進が素早く動き、劉弁派の董重を討ち取りました。
この後に董太后が突然死?するなどもあり、何進の頑張りにより劉弁が少帝として即位しています。
劉協は渤海王となり、後に移封され陳留王となります。
尚、霊帝の遺言書はあったようですが、複数あり実際の所はどれが本当なのか分からず、確実なのは劉弁が少帝として即位したという事実だけです。
少帝が即位した事で、何進は絶大なる権力を握り、宦官の排除に動きました。
しかし、何皇后は宦官のお陰で、皇后になれた様な存在であり、宦官の排除は望んでいなかったわけです。
董卓が実権を握る
何進は袁紹の進言もあり、各地の軍閥を都に集め、軍隊の力で何皇后を脅し、宦官排除を納得させようとしました。
こうした動きに対し、宦官たちは何進を暗殺してしまいます。
何進が亡くなった事で怒った袁紹や袁術らは、宮中に雪崩れ込みました。
この時の袁術や袁紹の虐殺は凄まじく、2000人の宦官が命を落したと伝わっています。
こうした中で、宦官の段珪と張譲は、少帝と陳留王を連れて逃亡しますが、呉匡や盧植などの追撃を受け最後は入水し亡くなる事となります。
少帝と陳留王は付近を彷徨う事となり、董卓の軍が発見し保護する事となります。
献帝紀によると、董卓と少帝は話をしましたが、董卓には少帝の言葉が、何を言っているのか理解が出来なかったとあります。
それを見た陳留王が董卓に事情を説明しますが、陳留王の言葉は子供ながらに一部始終を分かりやすく説明しました。
この時に、董卓は陳留王を喜び、帝の廃位と陳留王を皇帝に即位させようと考えたとされています。
陳留王が皇帝となる
董卓は都に戻りますが、丁原の軍を吸収するなどし勢力を拡大しました。
さらに、朝廷での実験を握る事となります。
董卓は少帝を廃位し、陳留王を皇帝に即位させました。
董卓は臣下でありながら、皇帝を変えるという許されざる行為をした事になります。
しかし、皇室の権力は弱く董卓に面と向かって逆らう者はいなかったわけです。
董卓は少帝よりも陳留王の方が聡明だとし、皇帝に即位させました。
しかし、皇帝は暗愚の方が操りやすい事は目に見えており、董卓が陳留王を即位させた真の理由は不明です。
少帝の母親である何皇后は王栄を毒殺した過去があり、董卓にとってみれば何皇后を生かしておくのは危険だとも判断した可能性もあるでしょう。
そうした理由もあり、董卓は陳留王を皇帝に即位させたかったのかも知れません。
他にも考えられる事は、董卓は陳留王の後見人とも言える董太后と同姓です。
後に、公孫瓚と劉虞が戦った時に、劉虞配下の公孫紀は同姓の公孫瓚が討たれるのを不快に思い、軍事機密を公孫瓚に流した話があります。
同じように董卓も同姓の董太后や、董重を討った何進や何皇后の一族に対し、良い感情は持っていなかったのかも知れません。
それでも、董卓により後漢王朝最後の皇帝となる献帝が誕生したと言えるでしょう。
尚、袁紹は献帝の即位を認めない立場を取っており、出奔し曹操と共に反董卓連合を結成する事となります。
少帝の死
献帝の即位により、少帝は廃位され弘農王となります。
しかし、董卓は劉弁を生かしておくのは危険だと判断したのか、李儒に命令じ毒酒を使い劉弁と何皇后を殺害しています。
董卓としては劉弁が反董卓連合の旗頭になっては、都合が悪いと考えたのかも知れません。
献帝は劉弁の死を聞くと、涙を流し悲しんだ話があります。
献帝にとって劉弁は異母兄ではありましたが、仲はそれほど悪くなかったのかも知れません。
献帝と劉弁で後継者争いはしましたが、大人が勝手に利益を求めて争っていた部分もあるのでしょう。
この後に董卓は反董卓連合の孫堅や曹操と戦いますが、洛陽を焦土とし長安に遷都しました。
尚、献帝は長安での生活が嫌になったのか東に帰ろうと考え、側近の劉和に劉虞に迎えに来させようと考えます。
劉和は関東の地に行きますが、袁術に引き留められ公孫瓚や袁紹に意向も加わり、結局は上手くは行きませんでした。
献帝も董卓の元では息苦しかったのでしょう。
李傕の台頭
董卓は長安に遷都しましたが、192年に王允と呂布の策謀により命を落しています。
これで名士王允による政治が、実現されるかに思われました。
しかし、賈詡の進言により董卓配下の李傕と郭汜が、長安を攻撃し王允は命を落し、呂布は関東に地に逃亡しています。
李傕らは献帝を手中に収めました。
李傕は献帝を手に入れた事で政治を行いますが、その政治は董卓以上に酷かったとも伝わっています。
馬騰らは劉焉や劉範と結託し、李傕の排除に乗り出した事もありましたが、策謀が漏れた事で上手くは行きませんでした。
尚、資治通鑑によると李傕は192年に車騎将軍となり府を開き、194年には郭汜と樊稠も府を開設した事で、長安には三公と合わせて六つの府があったと伝わっています。
ここから献帝の人生で最大の苦難が待ち構えている事となります。
荒廃する長安
195年になると李傕と郭汜は仲違いし、争う様になります。
献帝は李傕と郭汜を和解させようと考え、使者を派遣しますが、両者共に納得はしませんでした。
こうした中で郭汜は自分の陣営に献帝を置こうと考え動きますが、李傕が動きを察知し李暹に命じ、献帝を抑えるべく動きだします。
大尉の楊彪は李暹に「帝を外に出してはならない」と述べますが、李暹は聞かず献帝は李傕の陣営に移されました。
この時に、兵士らが宮殿に入り狼藉を行っています。
李傕と郭汜は長安を舞台に市街戦を繰り返し、一時は献帝の寝所にまで弓矢が飛んで来る事態となります。
長安は荒れ果てた都と様相を変えて行きます。
長安では食料が不足し、献帝の側の者までもが飢えに苦しみました。
献帝はいたたまれなくなったのか、食料を要求し配下の者に与えようと考えます。
しかし、李傕は「朝と夕方に食料を与えているのに、何をするつもりだ」と返し、腐り臭いがする牛骨を与えました。
この行動に献帝は激怒しますが、側にいた楊琦に諫められた事で、耐え忍んだ話があります。
献帝は李傕の危険性を理解し、李傕が郭汜の無道さを述べた時には、李傕の意に従った言動を行い喜ばれています。
さらに、李禎が李傕を宥めた事で、李傕は献帝に対するわだかまりは消えた話があります。
この後に、皇甫酈が李傕と郭汜を仲直りさせようとしますが、結局は上手くはいきませんでした。
献帝が東に移る
張済は李傕と郭汜を和解させ、献帝を東の弘農に巡幸させようと考えました。
使者が何度も往復し李傕と郭汜で娘を人質とし、交換する事で和解の道筋が見えて来たわけです。
しかし、李傕の妻が娘を人質に出す事を嫌がった事で、和議は纏まらないかに見えました。
この時に、李傕の陣営にいた羌族の者達が、戦利品の宮女を欲し、省門の前までやってきます。
李傕は献帝が去った後に、宮女を羌族らに与える約束をしていたのでしょう。
献帝は憂いてしまいますが、賈詡が機転を利かせ羌族らを持て成し、恩賞を与える約束をした事で羌族らは去りました。
これにより李傕の勢力は弱体化します。
李傕と郭汜は遂に和解しました。
献帝の一喝
献帝は東に向かって移動し、橋を渡ろうとした時に、郭汜の兵が遮りました。
周りにいた李傕の兵らは、郭汜の兵と戦闘になりかけますが、侍中の劉艾が「ここに天子がおられる」と大声で叫び、楊琦が車の帳を開けます。
献帝は兵士達の前に出ると、次の様に兵士らを叱責しました。
献帝「お前たちは、なぜ至尊に迫ろうとするのだ」
献帝が凄味を利かせた事もあり、兵士達は大人しくなったわけです。
郭汜の兵らは退き道を開けた事で、献帝の一行は橋を渡る事が出来ました。
献帝が橋を渡ると、皆が万歳を唱えた話があります。
しかし、この時の移動は大変なものであり、食料が不足し張済は配下の者達の官位に応じて食料を与えた話があります。
郭汜の変心
献帝は張済を驃騎将軍、郭汜を車騎将軍、楊定を後将軍、楊奉を興義将軍に任命していました。
楊奉は元は白波賊の頭目でしたが、勤王の精神があった事で政府高官に就いたわけです。
余談ですが、この時に楊奉の配下に徐晃がおり、後に曹操の配下となり将軍として大活躍する事となります。
献帝は当初は弘農に行く予定でしたが、郭汜の気が変わり高陵に行かせようとします。
献帝は郭汜を自ら説得しますが、納得しませんでした。
こうした事もあり献帝は食事を取らなくなると、郭汜は慌てたのか「隣県に行くべきです」と述べています。
献帝の一行は新豊に移動しますが、郭汜は再び変心し、郿に都を置かせようと考えました。
郭汜の思惑を知った侍中の种輯は、機転を利かせ楊定、董承、楊奉らに報告しています。
楊定、董承、楊奉らが新豊に集結した事で、郭汜は軍を棄てて南山に逃亡しました。
この後に、郭汜配下の夏育、高碩が献帝を西に連れ去ろうとしますが、楊定と楊奉の活躍により、危機を脱しています。
段煨は楊定の対立
献帝は段煨の駐屯地に行きますが、段煨と配下の楊定の仲が極めて悪かったわけです。
段煨は楊定を警戒し、献帝の御輿が到着しても下馬しなかった話があります。
楊定の息が掛かった种輯や左霊は「段煨が良からぬ事を考えている」と讒言しました。
しかし、段煨を楊彪、趙温、劉艾、梁紹らがフォローした事で、献帝は簡単には信じなかったわけです。
楊奉、董承、楊定らは段煨を攻撃しようと考え、献帝に詔を要求しますが、献帝は却下しました。
段煨は献帝の一向に食糧支援をしており、献帝としても戦いたくは無かったのでしょう。
楊奉らは段煨を攻撃しましたが、屈服させる事は出来ず、献帝は詔を出して和解させています。
大敗北
李傕と郭汜は献帝を東に向かわせてしまった事を後悔しており、楊奉や楊定が段煨を攻撃すると、救援と称して動き出す事となります。
さらに、李傕と郭汜は献帝を西に連れ去ろうと考えました。
こうした動きに対し、楊定は対処出来ないと判断し、荊州に逃亡しています。
この頃に張済と楊奉、董承の仲が悪化しており、張済は李傕と郭汜に味方しています。
献帝は弘農に行きますが、李傕、郭汜、張済と楊奉、董承らが決戦を行いました。
帝を守る楊奉、董承らは大敗北を喫し、沮儁が亡くなるなど多くの者を失う事となります。
この戦いの消耗は大きく、ほぼ全ての物資が失われ「献帝が戦死した」などの噂が流れた程です。
逃避行
敗れた楊奉、董承らは、心を偽り李傕らを和睦をする事となります。
しかし、裏では元白波賊の李楽、韓暹、胡才らや匈奴と連絡を取り、呼び寄せました。
楊奉らは李楽らと協力し、今度は李傕らを破り、献帝の一行はさらに東を目指しています。
しかし、李傕らに再び襲撃されてしまい戦いに敗れ、多くの者を失ってしまいました。
献帝も命の危険に脅かされ李楽が、馬に乗って逃げる様に進言しますが、献帝は次の様に述べました。
献帝「百官を捨てて逃げる事はない。彼らに罪があるとは思えない」
献帝は危機に陥りながらも王者としての気質を見せたわけです。
献帝は犠牲を出しながらも船まで辿り着き、逃げ通す事が出来ました。
献帝の乗る船に多くの者が「乗せて欲しい」としがみつきますが、この時に董承が船にしがみついて来た者たちを矛で殺害した話があります。
こうした逃避行の最中に、董承が絹を奪おうとした事件が起きています。
途中で張楊や王邑の助けが入り援助を受けますが、食料が尽きてしまい献帝の一行は山野に生えている山菜を食べて飢えを凌ぎました。
献帝は洛陽を目指しました。
洛陽に到着
献帝の一行は洛陽に到着しますが、洛陽は董卓が焦土としており食料に窮する事となります。
献帝は過去に権勢を握った宦官である趙忠の屋敷を仮住まいとし、臣下の者たちは野宿した話もあります。
献帝は脱出劇で功績が大きかった張楊を大司馬、韓暹を大将軍、楊奉は車騎将軍としました。
ただし、張楊は自分の陣営が食料が不足しているにも関わらず、献帝に食料を供給した事で、諸将の反発を買った話があります。
この時の献帝は困窮しており、諸侯の助けも望んだ事でしょう。
諸侯の動き
献帝が洛陽にいる事を知ると袁紹陣営の沮授や田豊は献帝を迎え入れる様に進言しますが、郭図と淳于瓊が反対しました。
袁紹陣営は献帝を迎え入れる事をしませんでしたが、袁紹は後で後悔した話があります。
孫策も張紘に文章を作成させたり張昭の言葉で袁術を説得し、献帝を助ける様に進言した話がありますが、袁術は自らが帝位に就く事を考えており納得しませんでした。
袁術が孫策の言葉を聞かなかった事で、孫策は袁紹との関係を断った話も残っています。
許昌に移る
洛陽にいる献帝は食料にも事欠く有様でしたが、こうした中でも韓暹、楊奉、董承らが権力闘争を繰り広げました。
この状況を見ていた張楊配下の董昭は「漢王朝の命運は長くはない」と悟ります。
董昭は袁紹の元を逃亡した過去があり、袁紹の元には戻れず、曹操が次の時代をリードすると考え狙いを定めました。
ここで董昭は、曹操になりすませた偽の手紙を作成し、楊奉に届けています。
董昭は偽の手紙の中で、曹操は楊奉を褒め称え食料を届けると述べています。
偽の手紙の中で「強靭な兵士を持っている楊奉と食料を持っている曹操で苦難を乗り越えよう」と誘ったわけです。
楊奉は偽の手紙の多いに喜び献帝に上奏し、曹操は鎮東将軍、費亭侯に封じられ、手紙(偽物)を持って来た董昭は符節令に昇進しました。
董昭は曹操ともコンタクトを取り、曹操は洛陽を訪れる事となります。
董昭は洛陽にいると、献帝の側近たちから反発があるからと、帝を曹操が支配する許に移すべきだと説きました。
董昭は献帝の陣営を見限っており、曹操に献帝の側近に邪魔されず、帝の権威を一番利用する事が出来るお膝元の、許に移せと進言した事になるでしょう。
曹操と董昭は策を使い楊奉と献帝を切り離し、曹操は献帝を手中に収める事に成功します。
楊奉は献帝を失い名声が失墜し、軍の逃亡者が続出した事で、袁術の元に落ち延びて行きました。
尚、献帝は曹操に会うと「朕の事を大切に考えているならば支えて欲しい。もし其方が忠臣でないなら情けを掛けて退位させて欲しい」と述べています。
これが献帝の本心だったのでしょう。
献帝は後漢王朝を立て直そうと考えていた部分もあったと思いますが、苦難の連続で疲れ果ててしまった部分もあるはずです。
この時の曹操は、本拠地から離れた洛陽にいた事から、冷や汗を掻いた話もあります。
しかし、許都に移動すれば曹操の勢力圏であり、曹操は献帝の権威を利用する事を考えました。
曹操は献帝の意に沿った様な人物ではなかったわけです。
曹操暗殺計画
献帝は許都に移動しますが、曹操は献帝を支えるつもりはなく、利用するつもりだと悟ります。
董承による曹操暗殺計画もありましたが、事前に発覚してしまい董承及び一族は殺害されました。
曹操暗殺計画に加わった王子服、种輯らも命を落す事となります。
董承による曹操暗殺計画には劉備も加わっていましたが、劉備は計画が発動される前に、袁術を討伐する名目で都を離れていた事から命拾いしています。
尚、董承の娘は献帝の夫人である董夫人でしたが、この時に献帝の子を身籠っていました。
それでも曹操は容赦なく董夫人を殺害しています。
これを見るに曹操の権力が如何に凄く、献帝が御飾りでしかなかった事が分かるはずです。
伏寿の最期
献帝の皇后である伏寿は、父親の伏完に呼び掛けるなどし、曹操暗殺計画を勧めようとしました。
しかし、行動せぬうちに伏寿が曹操を排除しようと画策している事が漏れてしまいます。
曹操は怒り華歆に命じ、伏寿を無理やりと逮捕しました。
華歆に連れ去られた時の伏寿は、髪を振り乱し裸足だったとされています。
伏寿は献帝が目に入ると「陛下。再びお会いする事が出来るでしょうか」と述べます。
献帝は「私もいつまで生きている事が出来るのか分からぬ」と述べました。
献帝は側にいた郗慮に「天下にこの様な事があるのだろうか」と嘆いています。
伏寿は暴室に連行され亡くなりました。
伏寿は献帝の長安からの脱出する際にもお供しており、苦楽を共にした仲だったとも考えられ、献帝も胸にくるものがあったはずです。
曹操は自分の娘である曹節、曹憲を献帝に嫁がせており、曹節が新たに献帝の皇后となりました。
曹操はさらなる権力を手に入れる事となります。
既に曹操は魏公となり臣下としては最大の恩賞である九錫も与えられており、献帝がどうにか出来るような存在ではなかったわけです。
後に曹操は魏王となりました。
禅譲と後漢王朝の滅亡
220年に曹操が亡くなり、曹丕が後継者となり魏王の位に就く事となります。
この時は既に曹操により中華の半分は魏の勢力圏でした。
こうした中で、献帝は民は魏の天下を望んでいるとの詔を出し、譲位したいと願い出る事となります。
しかし、実際には曹丕は絶対的な権力を持っており、献帝に圧力を掛けて譲位を促したのでしょう。
さらに言えば、曹丕は曹操以上の求心力を集める為に、インパクトがある事をする必要に迫られ、皇帝への即位を考えたともされています。
献帝の皇后で曹丕の妹である曹節は猛反対しますが、結局は譲位が決まりました。
ここの経緯は正史三国志の文帝紀に詳しく、詳細を知りたい方はちくま学芸文庫の正史三国志の1巻を読む事をお勧めします。
献帝が曹丕に禅譲を行った事で、王莽の時代で中断はありましたが、400年続いた漢王朝が滅亡しました。
後漢王朝滅亡後の献帝
献帝は曹丕により山陽公となり、自らの事を朕と呼ぶ事を許すなどの特権も与えられています。
さらに、献帝の四人の子が列侯になるなど、魏では重用しました。
この時には魏の曹丕、蜀の劉備、呉の孫権で天下はほぼ三分割されています。
三国志の様相を完全に呈していたと言えるでしょう。
献帝の禅譲により後漢王朝は滅亡してしまいますが、蜀の劉備は漢中王となっており、漢王朝の復興を掲げていたわけです。
復興を掲げていた漢王朝事態が滅びてしまい国是がなくなってしまいました。
しかし、蜀の劉備の元には「献帝が殺害された」という誤情報が流れ、劉備は臣下達の要請もあり蜀漢の皇帝に即位しています。
さらに、蜀では献帝に孝愍皇帝の諡を贈りました。
それでも、献帝は曹丕の時代を生き抜き、曹叡の時代になっても生きており、234年に献帝は亡くなっています。
献帝は54歳だったと伝わっています。
234年は五丈原の戦いで諸葛亮と司馬懿が対峙しており、この年に献帝は亡くなったわけです。
234年は五丈原で諸葛亮も没しています。
三国志の豆知識ですが、献帝と諸葛亮は同じ年に生まれ、同じ年にこの世を去りました。
献帝の子は亡くなっており、孫の劉康が山陽公の位を継ぐ事になります。
蜀漢は劉禅の時代である263年に鄧艾により滅ぼされ、後漢王朝の再興を願う勢力が消えました。
魏も2年後の265年に曹奐が司馬炎に禅譲した事により、滅亡しています。
献帝が曹丕に禅譲を行った魏も滅びました。
献帝の孫の劉康が亡くなったのは285年であり、司馬炎による西晋の天下統一後です。
劉康が西晋による天下統一を、どの様な目で見ていたのかは不明です。
献帝の評価
献帝ですが、皇帝にはなりましたが、生涯を通じて実権を握った事は一度もなかったはずです。
それでも、献帝を見ていると時折、王者としての気高さを見出す事が出来、臣下の為の優しさを感じる部分もあります。
献帝は皇帝として政治を司る事は出来なかったかも知れませんが、決して無能な君主ではなかったと感じています。
さらに言えば、伏皇后や曹節は献帝の為を思って働いた部分も多々見受けられますし、女性を惹きつける様な魅力も持っていた様に感じています。