臧旻は徐州広陵郡射陽県の出身であり、袁紹と敵対した臧洪の父親でもあります。
臧旻は正史三国志や後漢書に名前があり、揚州刺史となり妖賊の許昌、許昭討伐を行ったり、匈奴中郎将に任命された話があります。
臧旻は匈奴や西域に詳しく、汝南袁氏で大尉を務めていた袁逢は「臧旻の西域の知識は漢書の班固に勝る」とまで言われた程です。
中華王朝は長年に渡り北方の遊牧民に苦しんでいた事実があり、臧旻の知識はかなり有益なものだった事でしょう。
尚、臧旻の配下には孫堅がいた事があり、臧旻は陸康を茂才に推挙した人物でもあります。
今回は三国志の世界にも登場し、有能な官吏だと評価された臧旻を解説します。
ただし、臧旻は夏育らと鮮卑討伐を行いますが、失敗し庶民に落された話もあり辛苦を舐めた事もあります。
出世を重ねる
謝承の後漢書によれば、臧旻は高い事務処理能力を持っており、行政手腕の能力はとても高く後漢王朝の中でも、立派な官吏の一人だったと言います。
臧旻は徐州従事となり、司徒に招聘され盧奴県の県令に任命されました。
盧奴県の県令としても実績を挙げた事で、冀州刺史からは優れた業績を残したと評価され、揚州刺史や丹陽太守に栄転する事になります。
これを見る限りでは、臧旻は優れた能力を生かし、順調に出世したとも言えるでしょう。
孫堅の功績を認める
熹平元年(172年)に会稽の妖賊許昌が息子の許昭と共に反乱を起こしました。
この時に揚州刺史だったのが臧旻です。
臧旻は陳寅らと共に、反乱討伐に乗り出します。
孫破虜討逆伝によると、許昌親子の反乱は何十万もの人々が参加した話があります。
この時に軍の司馬として大活躍したのが孫堅であり、臧旻は孫堅の活躍を認め上表しました。
ここから孫堅は出世していくわけですが、きっかけは臧旻の上表から始まったと言えるでしょう。
ただし、許昭討伐において、会稽太守の尹端は失態を犯し、臧旻は処分する様に上表した話があります。
尹端は処刑される事が決まりますが、部下の朱儁が洛陽に向かい役人に賄賂を渡し買収した事で、尹端は罪を軽減され処刑を免れました。
臧旻は部下の失敗に対しては厳しい部分もあったのでしょう。
臧旻は苴康を破るなどの功績をあげ、174年には許昌や許昭らの乱を平定しました。
尚、臧旻が揚州刺史の時代に、呉郡の名族である陸康を茂才に推挙した話があります。
臧旻は丹陽太守になった話もありますが、、後に使匈奴中郎将となり北方に移動する事となります。
因みに、臧旻が使匈奴中郎将に任命されたのは、羌族が侵攻して来たためだと伝わっています。
鮮卑討伐に失敗
177年に夏育、田嬰、臧旻、南匈奴の軍で鮮卑族の討伐を行っています。
臧旻らの軍は雁門塞から出撃し、軍を3つに分けて進軍しました。
しかし、鮮卑の檀石槐の反撃にあい大敗北を喫しています。
臧旻らは何とか逃げおおせる事が出来ましたが、無事に帰還する事が出来た兵士は10人に1人しかいなかったと伝わっています。
臧旻は大敗北の責任を取らされ、庶民に落されました。
有能な官吏だと評価され続けて来た臧旻の、最初の挫折だったのかも知れません。
班固に勝る西域の知識
臧旻は呆気なく鮮卑の檀石槐に敗れた様に思うかも知れません。
しかし、臧旻と袁逢の逸話があり、袁逢は西域諸国の土地、人物、風俗、種族の数などを臧旻に質問した事があります。
この時に臧旻は西域は元は三十六ヵ国あったが分裂があり、五十五ヵ国になったと伝え、さらなる分裂で百カ国以上になったと伝えました。
さらに、臧旻は西域の地理、気候、人口、湿潤や山々の事など口で詳細に説明し、手で地形を書くなど細かく袁逢に説明しています。
袁逢は臧旻を高く評価し、次の様に述べています。
※後漢書「謝承」より
班固が西域伝を作っているが、これ(臧旻の話)に付け加える事が出来ようか
袁逢は臧旻が詳細に、西域を知っている事に驚嘆しての言葉だったのでしょう。
臧旻は長水校尉に転任し、太原太守で終わったとあります。
これを見るに、臧旻は鮮卑討伐で破れ庶民にはなりましたが、後に西域の事が詳細に分かっていたなどもあり復職出来たのでしょう。
国にとって役に立つ人物だと臧旻が認められての復帰でもあったように思います。
ただし、臧旻の最後がどの様なものなのかは分かっていません。
因みに、臧旻の子に臧洪がいますが、董卓が実権を握った時に、反董卓連合の結成を呼び掛けるなど烈士と呼べる人物でもあります。
臧洪も職務能力を高く評価されていた話があり、この辺りは臧旻の遺徳と言えるのかも知れません。