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朱儁(しゅしゅん)は有能で徳高き将軍

2023年1月12日

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宮下悠史

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名前朱儁(しゅしゅん) 字:公偉
生没年生年不明-195年
時代後漢末期、三国志
一族子:朱符、朱皓
年表178年 交州刺史となる
184年 黄巾の乱
185年 右車騎将軍となる
193年 大尉となる
画像©コーエーテクモゲームス

朱儁の字は公偉であり、揚州会稽郡上虞県の出身だとされています。

朱儁は正史三国志や、後漢書に登場する人物でもあります。

朱儁は黄巾の乱では皇甫嵩盧植と共に、官軍の主力として活躍しました。

さらに、朱儁は思いやりがある性格で、陰徳もあり人間的にも優れた人物です。

朱儁は後漢末期の名臣とも呼べる人物であり、後漢王朝の為に生涯を費やしています。

今回は後漢王朝の末期に、活躍した武将である朱儁を解説します。

尚、宮城谷昌光氏の三国志名臣列伝後漢編では、名臣の一人として朱儁も挙げています。

因みに、袁術が任命した予章太守の諸葛玄と対立し、劉繇の支援を受けた朱皓は朱儁の子です。

財を軽んじて義を好む

朱儁の父親は早くに亡くなり、母親が絹で織物を作り生計を立てていた話があります。

朱儁を見ていると生活に困窮した様子もなく、朱儁の母親はそれなりに商売が上手だったのでしょう。

朱儁は孝行息子でもあり、名が知られる事となり、県の門下書佐となります。

朱儁の役人デビューは、文書管理の補佐をする仕事でした。

朱儁は義を好み財を軽んじたとあり、郷里の人々は朱儁を敬う事となります。

朱儁の生き様を見るに、困っている人の為なら財を出し、義を好む人生を送る事となります。

周規を救う

会稽郡の周規が中央への招聘を受けた事がありました。

周規は郡から100万銭を借り出仕する為の支度金とします。

当時は上納金を収めたりするのが普通であり、中央に出仕するには、それなりの金額が必要だったわけです。

しかし、周規は中央では上手く行かなかったのか、借金の返済が出来なくなってしまいます。

周規が困っている事を知った朱儁は、実家の商品である絹を持ち出し、勝手に売ってしまい周規の借金を返済してあげたわけです。

周規は救われましたが、朱儁の母親は勝手に商品を持ち出されて売り払われたのであり、朱儁を責めました。

すると、朱儁は次の様に答えています。

朱儁「小さな損は、後に大きな利益となって返って来るものです。

最初に貧しければ、後に裕福になるのが自然の摂理となります」

朱儁の噂は広がり、本当に利益となって返ってくる事となります。

朱儁を只者ではないと感じた度尚は、郡の役人に朱儁を推薦しました。

朱儁は度尚に推挙された事で、郡の役人を歴任する事になります。

尹端を救う

尹端が会稽太守となると、朱儁を主簿に任命しました。

朱儁を評価し主簿にしてくれた尹端ですが、173年に賊の許昭を討伐し、失敗に終わります。

尹端は揚州刺史・臧旻の上奏により罪に問われ、市で処刑される事が決まりました。

尹端の命が風前の灯となってしまった事を知った朱儁は、官吏の服を脱ぎ急いで洛陽に向かいます。

洛陽に到着した朱儁は役人に賄賂を渡し、尹端の罪を減らす様に働きかけます。

朱儁により尹端の罪は減刑され、処刑ではなく労役となりました。

朱儁の行動により、尹端は救われたわけです。

しかし、朱儁は自分が尹端を救った事を口にしませんでした。

こうした事もあり、尹端は亡くなるまで、朱儁に救われた事を知らなかったとする話があります。

朱儁は陰徳の人でもあったのでしょう。

尚、許昭の乱の規模は大きく、若き日の孫堅も戦いに参加した話があります。

孫堅は許昭の乱では手柄を立てる事に成功しました。

蘭陵県の県令

徐珪が会稽太守になると、朱儁は孝廉に推挙され、徐州東海郡蘭陵県の長官となります。

朱儁は蘭陵県の県令になると、統治能力を発揮しました。

朱儁を高く評価した東海太守が上表した話しもあります。

朱儁と言えば、黄巾の乱での活躍が有名で将軍として評価されがちですが、実際には政治力も高かったのでしょう。

尚、後に朱儁が交州刺史になった時に、5千の私兵を得た話があり、贈り物などによりある程度の蓄財は行っていたと考えられています。

朱儁の場合は性格からいって、不正をしてまで賄賂の要求はしなかったと考えられますが、ある程度の贈り物などは受け取っていたのでしょう。

当時は、霊帝が率先して売官をしていた事から、贈り物の額が高騰し、朱儁も財を成す事が出来たのではないか?とする説もあります。

烏滸蛮族の乱

後漢書の朱儁伝によると、178年に交州で烏滸蛮族が反乱を起こしました。

交州の郡太守らは鎮圧に乗り出しますが、烏滸蛮族の反乱の規模は大きく、どうする事も出来なかったわけです。

梁龍や孔芝なども反乱に加わり規模は拡大しました。

後漢の朝廷では、朱儁を交州刺史に抜擢し、乱を鎮圧する様に命じています。

朱儁は地元の会稽郡に戻ると、5000人の私兵を得た話があります。

朱儁は集めた兵を二つに分けて、交州に進撃しました。

しかし、交州に入る直前で進軍をストップさせています。

この間に、朱儁は敵情を調べ上げ、自分の威勢を大きく見せ、敵の心を揺さぶる戦法に出ます。

朱儁は賊の心が乱れた所で進撃を始め、梁龍を討ち取るなど多いに戦果を挙げました。

朱儁は1カ月で数万人を降伏させるなど、乱を一気に鎮圧してしまったわけです。

尚、朱儁の交州征伐を後漢書の霊帝紀では181年の事になっており、朱儁伝の記録と差異が出ている状態です。

朝廷は朱儁の功績を認め都亭侯とし、千五百戸の領有を許し、黄金五十斤を賜わり、朱儁を諫議大夫としました。

これにより朱儁は皇帝である霊帝に意見を言える立場にもなっています。

黄巾の乱

皇甫嵩と共闘

184年に張角による黄巾の乱が勃発しました。

ここで多くの者が朱儁を推挙した事で、右中郎将となります。

朱儁のこれまでの実績を考えれば、黄巾賊討伐に対しても大きな期待を寄せられたのでしょう。

朱儁は符節を持ち左中郎将の皇甫嵩と共に、潁川郡、汝南郡、陳郡の黄巾賊を平定する任務に当たりました。

朱儁は所詮で黄巾賊の波才に敗れますが、その後は盛り返し皇甫嵩と共に黄巾賊の多くを打ち破る事になります。

尚、朱儁と皇甫嵩は共に戦いますが、皇甫嵩が功績を朱儁に譲った話があります。

朱儁は西郷侯となり、鎮賊中郎将となります。

宛の戦い

黄巾賊である張曼成が、南陽太守の褚貢を殺害しました。

後任の南陽太守となった秦頡が、張曼成を斬りますが、黄巾賊は趙弘を立てて官軍と敵対する事となります。

朝廷では皇甫嵩を北上させ東郡に向かわせ、朱儁は南下し趙弘がいる南陽を攻撃する様に命じました。

朱儁は荊州刺史の徐璆や秦頡、趙超、孫堅らと1万8千の兵で、宛城を囲みますが2カ月が経過しても、城を落す事が出来なかったわけです。

尚、この時の朱儁の兵は1万8千しかおらず、黄巾賊の兵は10万を超えていた話しもあり、朱儁が城を包囲しても落せないのは「当然」とする意見もあります。

後漢王朝の朝廷では、黄巾賊を打ち破れない朱儁に対し「更迭論」が出る事になります。

しかし、司空の張温が白起楽毅を例に出し「長い年月を掛けて敵を打ち破った」と述べ、朱儁の更迭に反対しました。

これにより朱儁更迭の話は消沈する事となります。

朱儁は朝廷での話を聞くと、宛城を強襲し趙弘を斬りました。

しかし、黄巾軍は韓忠を立てて大将とし、抵抗して来たわけです。

朱儁は黄巾賊の結束の固さから、将を斬るだけでは次の将が立てられるだけで意味がないと悟った事でしょう。

韓忠は降伏を願い出ると、徐璆、秦頡らは降伏を許す様に進言すますが、朱儁は末期の項羽との状況の違いを述べ降伏を却下しました。

韓忠が必死に防戦した事で朱儁は城を直ぐに抜く事が出来ませんでしたが、策を以て韓忠を打ち破る事に成功したわけです。

韓忠は戦いに敗れ降伏しますが、秦頡が韓忠を斬り伏せた事で、黄巾賊は孫夏を頭目とし、再び宛城に籠りました。

朱儁は孫夏を一気に急襲し、さらに西鄂に逃亡した孫夏を精山の戦いで破ります。

これにより黄巾賊は散り散りとなり南陽黄巾賊は崩壊し、朱儁は南陽を平定する事となります。

皇甫嵩などの官軍が張梁や張宝なども片付け、これにより黄巾の乱は終結しました。

朱儁、皇甫嵩、盧植などは、黄巾の乱三英傑と言ってもよいだけの功績を挙げています。

大出世を果たす

185年になると朱儁は右車騎将軍に任命されます。

さらに、洛陽に凱旋すると光禄大夫の官を受け、五千戸の食邑を下賜され、銭塘侯の爵位が与えられ特進となりました。

地方の小役人出身の朱儁が、大出世を果たしたわけです。

しかし、間もなくして朱儁の母親が亡くなった事で、朱儁は官を去り喪に服す事になります。

喪が明けると朱儁は再び仕官し、将作大匠に任命されています。

さらに、朱儁は少府や太僕を歴任しました。

朱儁は三公には届きませんが、それに次ぐ九卿の位を得る事となります。

張燕を破る

張燕は身体能力が優れており「飛燕」とも呼ばれ、黄巾の乱の時は張牛角らと共に各地を暴れ回りました。

張燕は大勢力を築いており、朝廷でも討伐出来ずに問題となっていたわけです。

その後に張燕は帰服を朝廷に申し入れますが、再び反旗を翻し河内郡を攻撃し、洛陽に迫る勢いを見せます。

ここで朝廷は朱儁を河内太守とし、張燕と対峙させました。

朱儁は張燕を破り撤退に追い込んでいます。

朱儁は都に凱旋すると再び光禄大夫に任命され、江南太守となります。

董卓の副官を断わる

189年に霊帝が亡くなると少帝が即位しますが、何進宦官により暗殺され、混乱の末に董卓が実権を握る事態となります。

董卓は朱儁の功績を知っており、表面上は親しく接した話があります。

しかし、内心では朱儁を嫌っていました。

袁紹袁術曹操らが反董卓連合を結成すると、董卓は「長安遷都」を考える様になります。

董卓は朝議で長安遷都を述べますが、その度に朱儁が反対しました。

董卓は朱儁を嫌悪しますが、朱儁は名声があった事から仲間に引き入れたいと思う様になります。

董卓は朱儁を太僕に任命し、自らの副官にしようと考え、使者を派遣しました。

朱儁は太僕を断わり、次の様に述べています。

朱儁「国家が西に遷都すれば、必ず人々の声望を失う事になります。

天下に孤立する事にもなるでしょう。

さすれば、山東の者達を利するだけです」

朱儁は董卓の使者に、長安遷都の中止を訴えました。

董卓の使者は太僕の位を断わった事と、聞いてもいない遷都の話を何故、持ち出すのか?と問いました。

朱儁「相国(董卓)の副官を務めるなど、私に出来る任務ではありません。

さらに、遷都は急に行うものではないでしょう。

出来ない事を断わり、急でない事を発言するのは、そうした方が良いと思ったからです」

ここで董卓の使者は「なぜ発表もされていない遷都の話を知っているのだ」と問うと、朱儁は次の様に答えました。

朱儁「相国(董卓)が私に詳細を話し、説明してくれたので、私は知っているのです」

董卓の使者は朱儁を説得する事が出来ず、董卓の方でも朱儁を説得するのを諦めています。

しかし、董卓は長安遷都を強行し、皇帝も少帝から献帝に変えてしまいました。

尚、少帝や何皇后は董卓配下の李儒に毒殺されており、朱儁は心を痛めた事でしょう。

荊州に逃れる

董卓は長安に入りますが、洛陽を朱儁に守らせました。

董卓が長安に去った事で、朱儁は反董卓連合と結託する事を考えます。

しかし、反董卓連合は一向にやって来ず、洛陽にいても董卓に攻撃されれば終わりだと考え、荊州に向かいました。

この時の荊州には南陽に袁術がいた事は確実であり、劉表も荊州刺史に任命され任地に赴いています。

こうした情勢を判断すると朱儁は、袁術か劉表の元に行ったと考えられます。

洛陽から南に進めば過去に黄巾賊と戦った南陽があり、朱儁は袁術を頼った様に感じています。

楊懿を破る

董卓は朱儁がいなくなると、楊懿に洛陽を守らせました

朱儁は董卓が楊懿に洛陽を守らせた事を知ると、再び兵を率いて洛陽に向かいます。

朱儁は董卓の主力部隊で無ければ、勝つ自信があったのでしょう。

楊懿の方でも朱儁には敵わないと考えたのか、洛陽から退散しました。

朱儁は再び洛陽に駐屯しますが、当時の洛陽は董卓が焦土と化していた事もあり、物資の不足は深刻だったわけです。

李傕、郭汜に敗れる

朱儁は洛陽に長くはいられないと考えたのか、中牟県に移動し駐屯しました。

朱儁は董卓打倒を諦めてはおらず、各地に書状を出し出兵の依頼をします。

朱儁の率いている兵は少なく、諸侯の援軍が無ければ董卓と戦う事は出来なかったわけです。

朱儁の働きかけに対し、徐州刺史の陶謙が三千の兵を派遣し、他の郡でも少数の兵を出します。

ここで陶謙は朱儁に、車騎将軍代行を依頼する事となります。

董卓は朱儁の動きに対処する為に、李傕郭汜を派遣し備えとしました。

朱儁と李傕と郭汜の軍は戦闘になりますが、朱儁が敗れる結果となります。

朱儁が李傕、郭汜らに敗れた理由は、陶謙も三千の兵しか派遣しておらず、兵の少なさが原因だったのではないか?と考えられています。

朱儁の軍は各地で派遣された少数の兵の寄せ集めの軍でもあり、連携が取れず団結力が無かった事も敗因と言えるでしょう。

朱儁は戦いには敗れましたが、軍が崩壊したわけではなく、後退し様子を見る事となります。

後に朱儁は再び中牟に駐屯しました。

朝廷からの誘い

朱儁は董卓の軍に敗れましたが、董卓は王允呂布により暗殺されました。

後に王允は李傕郭汜により処刑され、呂布は関東に逃亡しています。

徐州刺史の陶謙は朱儁の能力や名声を評価し、太師に推薦し檄文を出し、各地から兵を集め李傕らを倒し献帝を迎え入れようと呼びかけました。

陶謙は朱儁を盟主とし、李傕政権を打倒しようと考えたわけです。

しかし、李傕側でも賈詡の進言により、朱儁を朝廷に迎え入れようと使者を派遣しました。

朱儁は陶謙の進言に従い打倒李傕に動くのか、李傕に従い朝廷に入るのかで選択を迫られる事となります。

普通に考えれば、敵対していた李傕らの元に行くのは危険であり、陶謙の意見に従う様に多くの者が進言しました。

ここで、朱儁は次の様に述べています。

朱儁「主君が臣下を召すなら、馬車の迎えを待たないのが礼儀だ。

これは天子の詔である。

私が思うに李傕や郭汜などは使い走りの小僧に過ぎず、樊稠は平凡な人物だ。

李傕らには遠大な計画は無く、奴らの勢力は互いに拮抗しており、変事は必ず起きる。

これに乗ずることが出来れば、大事を為す事も出来るはずだ」

朱儁は李傕、郭汜、樊稠が何かあれば、互いに攻撃しあい、その隙に権力を奪う事が出来ると考えたわけです。

朱儁は外から攻撃するよりも、朝廷に入り内側から相手の隙を待つやり方が最善だと考えた事になります。

朱儁は李傕の要請に従い長安に行き、朝廷に入り九卿の一つである太僕となります。

朱儁の最後

193年になると朱儁は大尉に任命されました。

朱儁は後漢王朝の三公となったわけです。

しかし、194年になると日食を理由に大尉を解任され、驃騎将軍代行となり節を持ち関東からの攻撃を防ぐように命じられました。

朱儁が出発しないうちに、李傕が樊稠を殺害する事件が起きます。

さらには、郭汜の妻の言葉もあり、李傕と郭汜は対立しお互いを攻撃しあったわけです。

李傕と郭汜の争いにより、長安は荒廃する事となります。

献帝は混乱を収めようと考え、郭汜の元に朱儁や楊彪を派遣し、李傕と和睦させようと考えました。

この時に李傕が献帝を自分の陣営に置こうと考えた事で、郭汜は対抗策として朱儁ら政府高官を人質として自分の陣営に拘留しています。

朱儁は剛直な性格をしており、人質となってしまった事を恥じ、憤るとその日のうちに病気となり亡くなったとあります。

朱儁は発病したかと思ったら、その日のうちに最後を迎えた事になるでしょう。

その日のうちに亡くなってしまった事から、脳卒中などの病気で亡くなった事も考えられるはずです。

朱儁の当初の計画では李傕や郭汜が争った時に、大事を為す予定でしたが、そうなった時に亡くなってしまった事になるでしょう。

朱儁は195年に亡くなりましたが、同年に同じく黄巾の乱で活躍した皇甫嵩も亡くなりました。

劉備公孫瓚の師でもある盧植は既に192年に亡くなっており、195年も以って黄巾の乱三傑は全員が亡くなった事になるでしょう。

朱儁の評価

朱儁は、次の様に評されています。

皇甫嵩と朱儁は共に上将の才略を以っており、天下が乱れると出陣の命を受けた。

皇甫嵩と朱儁の功名は成り、軍は勝利を収め、その威信は天下を覆った。

朱儁は陳や潁川で勝利を収め、また越を平定した。

しかし、最後は王命を受け難に遭い、躓き倒れてしまった。

朱儁は皇甫嵩と共に、成功を称賛されはしましたが、晩年の苦難を惜しまれたわけです。

朱儁が李傕の元にいた時には、既に高齢であった事も考えられ、体は衰えた所での苦難だった様にも感じました。

朱儁や皇甫嵩が数年でも生きていれば、時代は違った方向に進んだのかも知れません。

尚、横山光輝さんや吉川英治さんの三国志は名作だとは感じましたが、朱儁が小物として扱われており、その点は残念に感じました。

史実の朱儁は後漢王朝の名臣であり、最後まで戦い続けた人物だと言えるでしょう。

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