三国志

孫堅(そんけん)の史実・江東の虎と恐れられた勇将だが、最後は強さ故の悲劇だった

2021年8月30日

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宮下悠史

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孫堅(そんけん)の字は文台であり、江東の虎と呼ばれて恐れられた武将です。

江東の虎という名前からも分かる様に、孫堅は非常に武勇に優れた武将となります。

正史三国志を見る限りでは、孫堅は肉体の強さであれば、ナンバーワンだったのではないか?と思える部分もあります。

ただし、肉体が強く武勇に優れていた故に、最後は戦いで戦死しています。

今回は史実の孫堅がどの様な人物だったのか解説します。

多くの方が知っている様に、孫堅の子に孫策孫権がおり、後に呉と呼ばれる勢力を築く事になります。

孫策や孫権が優秀だった事も考えれば、孫堅は子育ても上手く行ったと考えるべきなのかも知れません。

尚、三国志には孫堅、孫堅、孫乾などの読みが「そんけん」であり、孫堅の事を区別し『孫パパ』と呼ばれる事もあります。

孫堅の誕生

孫堅の誕生秘話などを紹介します。

正史三国志の孫堅の記述

正史三国志には孫堅伝があり、次の記述があります。

「孫堅の字は文台であり、呉郡富春の人である。

おそらくは孫武の子孫であると思われる。若くして県の役人となった。」

孫武春秋戦国時代に呉王闔閭に伍子胥と共に仕えて、呉を強国にした兵法家です。

現代にも読み続けられている、孫子の兵法書の著者としても有名だと言えます。

ただし、孫家は家柄は、それほど高くはありませんでした。

孫堅の家柄が低かったせいか、孫堅の父親や母親の名前すらも明らかになっていません。

そうした中で、孫堅は若くして活躍する事になったのでしょう。

孫堅を見ていると、実力だけで成り上がったように感じています。

孫堅誕生伝説

正史三国志の注釈には、孫堅が誕生した時の伝説が紹介されています。

孫堅の家は代々呉で役人をしており、街の東には先祖代々の墓地があった。

墓地の塚の上に光が見える事が何度もあり、五色の雲気が立ち昇っていた。

呉の長老たちは、「これは普通の気ではない。孫家は興隆する事になるであろう。」と噂しあっていた。

孫堅の母親が孫堅を懐妊すると、自分の腹を飛び出して呉の閶門に巻き付く夢を見ます。

孫堅の母親は目を覚ましたが、恐れて隣の家のおばさんに話します。

隣の家のおばさんは「それは吉い兆しかも知れない。」と述べ、孫堅が生まれる事になりました。

孫堅は誕生しますが、容貌は非凡であり性格は闊達で、他人には真似できない様な行いをしたとあります。

この話は三国志の注釈にあるのですが、孫権が後に帝位に昇っている事から、父親である孫堅を神聖視させる為に、作った話の様にも感じました。

真実は分からない部分でもあります。

17歳で海賊討伐

孫堅は17歳になると、父親と共に船で銭唐に出かけました。

その途中で海賊の胡玉達が商人の財物を奪い、岸の上で分け前の分配を行っていたわけです。

多くの者達が胡玉ら海賊を恐れ、船を進めようとしませんでしたが、孫堅は父親に次の様に述べています。

孫堅「あの海賊たちは倒す事が出来ます。私に討伐をさせてください。」

孫堅の父親は「お前に適う相手ではない。」と止めますが、孫堅は刀を持ち岸に上がります。

孫堅は東西に合図を送り兵を指揮する様な仕草を見せます。

これを見た胡玉ら海賊たちは官兵が自分らを捕えに来たのだと勘違いし、財貨を棄て逃げ散りました。

孫子の兵法に「戦わずして勝つのは至上」とする考えがあり、孫堅は実践した事になるでしょう。

尚、孫堅は逃げる海賊たちを追撃し、首を一つ斬って戻ってきた話があります。

孫堅の父親は驚き、この事件により孫堅の評判は大いに高まる事になります。

役所では孫堅を召し出し、仮の尉に任命しました。

海賊討伐の記録からは、孫堅が若くして武勇に優れると同時に、命知らずの面がある事も示している様に感じます。

妖賊許昌の乱

会稽郡を中心に妖賊である許昌(人名)が宗教集団を率いて反乱を起こしました。

許昌は自らを陽明皇帝とし、自分の父親を越王の位に就けています。

許昌は自分の子である、許韶と共に民衆を扇動し、数万規模の反乱となったわけです。

この時に孫堅は郡の司馬であり、勇敢な者達を集め千人を超える軍勢を手に入れる事になります。

孫堅は許昌討伐を任され、州や郡の兵士らと力を合わせて許昌の乱を平定しています。

許昌の乱は172年の事とされており、孫堅は20歳にも満たぬ年齢で、戦場を駆け巡っていた事が分かっています。

丞を歴任

揚州刺史である臧旻は、孫堅の功績を認め上表しました。

孫堅は塩瀆県丞、盱眙県丞、下邳県丞を歴任する事になります。

江表伝によれば「孫堅は3つの県を歴任したが、どこでも評判がよく民衆は彼に懐いた。」とあります。

孫堅は武勇に優れていただけではなく、民衆を親しませる手腕も高かったのでしょう。

孫堅の元には、一旗揚げようとする若者など多数の人々がおり、常に数百人いた話があります。

孫堅は評価が高く、多くの者が孫堅と誼を結びたいと考えたのでしょう。

尚、孫堅が3つの県の県丞を歴任したのは、孫堅の武勇が鳴り響いており、孫堅がいれば賊も蜂起しないと考えたからだとする説もあります。

黄巾の乱

184年に太平道の張角黄巾の乱を引き起こしています。

孫堅も黄巾の乱に参加する事になります。

朱儁の配下となる

黄巾の乱は36万もの黄巾賊が蜂起した話もあり、事態を重く見た朝廷は討伐軍を編成します。

車騎将軍の皇甫嵩、中郎将の朱儁盧植などが指揮を執り黄巾賊と戦う事になります。

討伐軍の一角を担う朱儁は、朝廷に上表し、孫堅を左司馬に任命し、自分の部下にしたいと願い出ています。

朱儁は会稽の出身であり、呉に近い事から孫堅の武勇を知っており、高い評価をしていたのでしょう。

下邳にいた孫堅は朱儁の要請を受けると、自分を慕ってくれた者達を連れて朱儁の軍への参加を決めます。

この時に、孫堅の元に集まった人々は自ら進んで孫堅に従軍したいと望んだとされています。

さらに、孫堅は旅人の商人の中から勇者を募り、淮水、泗水で千人の精鋭を得ました。

正史三国志の孫堅伝によれば、朱儁と力を合わせた孫堅の軍は非常に強く「向かうところ敵がなかった。」とあります。

ただし、実際には朱儁の軍は黄巾賊の波才の軍に苦戦しており、「向かうところ敵なし」とは行かななった部分もある様に感じます。

尚、吉川英治氏や横山光輝氏の三国志では、朱儁は器の小さな人物として描かれていますが、史実の朱儁はかなりまともで有能な人物です。

孫堅が負傷

正史三国志の注釈の呉書に、次の記述があります。

「孫堅は勝ちに乗じて追撃を行い、深入りしてしまい西華の地で苦境に陥った。」

この時に孫堅は負傷して落馬し、草むらの中に倒れ込んでしまいます。

兵士達は孫堅がどこに行ったのかも分からずに、孫堅は行方不明となり動けない状態だったわけです。

しかし、孫堅が乗っていた馬だけが陣営に戻り、馬が足で地をかいて鳴きます。

馬の後を付いて行くと、草むらの中で傷だらけになっている孫堅を見つける事が出来ました。

孫堅は無事に保護されたわけですが、かなりの傷だったのでしょう。

しかし、孫堅はみるみる回復し、10日ほどで傷が癒えて再び戦場に出たわけです。

孫堅が勇猛で見境なく突進する事から、重傷を負ってしまったと言えます。

それと同時に、直ぐに戦場に出られる辺りは、回復力の速さや肉体の強靭さを物語っているのでしょう。

この時の負傷を教訓としなかった為に、孫堅は後に命を落とす事になります。

宛の城を落とす

孫堅は戦場に復帰すると、黄巾賊を追い詰め宛城を包囲します。

この時に汝南から潁川にいた、黄巾賊が宛に籠城しました。

黄巾賊は張曼成趙弘韓忠らが頭目となり官軍と戦う事となります。

孫堅は宛の攻撃では一方を担当し、自ら戦闘となり城壁をよじ登り、城内へ突入しました。

兵士らも孫堅の後を追い、宛城に突入したわけです。

孫堅の活躍もあり、宛城は落城しました。

朱儁は孫堅の功績を認め、すぐに上表すると、孫堅は別部司馬に任命されています。

尚、別部司馬は別動隊を委ねられた指揮官でもあり、孫堅は朱儁の配下でありながら、独立して動ける指揮権を得た事になります。

黄巾の乱は盧植左豊により解任されるなどもありましたが、皇甫嵩や朱儁の活躍で鎮圧に成功しています。

曹操劉備も黄巾の乱に参加した記録もあり、孫堅も含めた英雄たちの登場が黄巾の乱とも言えるでしょう。

辺章・韓遂の乱

辺章と韓遂が反乱を起こしますが、孫堅が張温に董卓を処刑する様に進言した話があります。

尚、韓遂は西暦211年に馬超と共闘し、曹操と潼関の戦いを起こした事でも有名です。

涼州で大規模な反乱

西暦186年に涼州で大規模な反乱が起きます。

涼州の地は異民族も多く暮らす地であり、反乱も起きやすい地域だったわけです。

因みに、反乱を起こしたのは韓遂と辺章だったと伝わっています。

孫堅伝によれば、中郎将の董卓が反乱鎮圧を命令されますが、何の成果も挙げる事が出来なかったとあります。

朝廷では司空の張温を派遣し、辺章・韓遂の乱を鎮圧させようとします。

張温は孫堅、公孫瓚陶謙に従軍要請しました。

孫堅は辺章・韓遂の討伐軍に参加したわけです。

ただし、公孫瓚は幽州で反乱が起きた事もあり、張温に従軍する事が出来ませんでした。

董卓を処刑する様に進言

張温は天子の詔を以って、董卓を召し寄せますが、董卓は張温を舐めており遅れて来たわけです。

張温は董卓を責めますが、董卓の態度は不遜だった話があります。

この時に、孫堅は張温に耳打ちし、次の様に述べています。

孫堅「董卓は罪を恐れず態度はでかく、威張っております。

遅れて来た事を軍規違反の罪に問い、軍法を発動させて董卓を処刑するべきです。」

しかし、張温は董卓が、西涼で名声が高かった事もあり難色を示します。

ここで孫堅は董卓の名声など頼りにする必要はないと述べます。

さらに、孫堅は張温に、董卓の下記の3つの罪を述べて処刑する様に促します。

董卓は張温や朝廷を見下している。

辺章・韓遂が挙兵してから、月日が経っているのに、董卓はやる気もなく軍の士気を進んで下げている。

董卓は反乱鎮圧に功績もなく、理由を付けて先延ばしており、態度だけがでかい。

孫堅は古の名将たちは、威信を高める為に、軍規を守らぬ者は処罰したと、張温に董卓を斬る様に再び進言しました。

さらに、孫堅は春秋時代の司馬穰苴や魏絳を例に挙げて、董卓を処刑する様に促しています。

しかし、張温は董卓を罰する事が出来ずに、孫堅に下がる様に命じています。

孫堅は場を離れると、張温を罵ったとする話もあります。

孫堅だけが出世した!?

孫堅伝によると、官軍の大軍がやって来る事を知ると、辺章・韓遂は降伏したとあります。

辺章・韓遂が降伏した事で、軍は凱旋しますが、敵軍と戦っていない事を理由に恩賞沙汰を行わなかった話があります。

ただし、孫堅が董卓を斬ろうとし、3つの罪を挙げた事を聞き、感嘆せぬ者はなかったと伝わっています。

この後に、孫堅が議郎に任命された事で、孫堅だけが褒賞を受けたとする話もあります。

当り前ですが、孫堅の話を聞いた董卓は、孫堅や張温を憎んだわけです。

因みに、張温や董卓は韓遂らと戦った話しもあります。

張温の軍が敗れる

別説として、張温の討伐軍は韓遂の居城に攻撃を仕掛けた話があります。

董卓は韓遂らを支援していた異民族を攻撃しました。

本軍を指揮したのは、周慎であり、孫堅は周慎の配下として戦う事になります。

この時に孫堅は周慎に「兵糧攻めを行うのがよい。」と進言しました。

孫堅は敵の兵糧が少ないと考えて、兵糧攻めを進言したのでしょう。

しかし、周慎は孫堅の意見を却下し、力攻めを行っています。

周慎は力攻めを行いますが、逆に敵軍に糧道を断たれてしまい危機に陥ります。

これにより、張温の本隊は敵軍に破れ、董卓も撤退する羽目になったと伝わっています。

上記の話は「山陽公載記」に掲載されていますが、こちらの方が史実に近い様に感じています。

その後に、皇甫嵩が派遣され董卓と共に涼州の反乱を平定しました。

記述の違いにより、辺章・韓遂の乱もはっきりとしない部分があります。

尚、反乱は鎮圧されましたが、朝廷の涼州への影響力は弱まり、後漢王朝は涼州を放棄する事態になった話もあります。

長沙太守になる

孫堅は長沙太守に任命され、長沙に赴く事になります。

勝手に処刑してはならない

魏書によると、孫堅が長沙太守に任命されると、郡内は畏れ服したとあります。

この頃になると、孫堅の武名は天下に轟いていたのでしょう。

孫堅は有能な役人を任じて、次の様に命令しています。

孫堅「良民たちは手厚く遇する様にせよ。

公文書は正しい手続きで行い、捕えた盗賊は太守の元に送る様にして欲しい。

決して、独自の判断で処刑してしまう事が無い様に。」

一見すると孫堅は賊に対しても恩情を見せた様に思うかも知れません。

しかし、実際にはこの時の孫堅は兵が不足しており、賊であっても自軍に組み込みたかった様です。

孫堅は弱兵であっても、自らが采配を振るえば強兵になると考えていた説もあります。

区星の乱

長沙で区星(おうせい)が反乱を起こし、勝手に将軍を名乗ったわけです。

区星の乱は膨れ上がり、1万を超える軍勢を擁する事になりました。

孫堅は区星の乱を計略を使い壊滅させ、一カ月もしないうちに平定したとあります。

孫堅が計略を使った所を見ると、孫堅は武勇だけの人ではなく、計略を使うだけの知略も持ち合わせていたのでしょう。

ただし、この頃には程普黄蓋の様な将軍も孫堅の元にいた可能性もあり、程普や黄蓋辺りが策を練ったのかも知れません。

零陵、桂陽の反乱も鎮圧

零陵郡と桂陽郡には周朝と郭石がおり、区星に呼応して反乱を起こしています。

孫堅は区星を討伐するだけではなく、零陵や桂陽にいる周朝や郭石まで討伐しました。

孫堅の活躍により長沙、零陵、桂陽の三郡は平穏を取り戻したわけです。

しかし、孫堅は長沙太守であり、零陵と桂陽は管轄外であり、越権行為になるとも考えられます。

後漢王朝の朝廷は、緊急事態だったと判断し、孫堅の行為を罪とはしませんでした。

後漢王朝は孫堅の行為を功績として認め、烏程侯に任じています。

末期の後漢王朝は宦官が支配し腐敗していたとも言われていますが、孫堅の功績を認める辺りは良心が残っていた様に思います。

越境行為を諫められる

廬江太守の陸康の一族の者が、孫堅に救援を求めた事がありました。

孫堅は急いで軍を整えて、救援に行く準備をしたわけです。

ここで主簿が越境行為を控える様に、孫堅に諫めた話があります。

しかし、孫堅は次の様に答えています。

孫堅「自分には何の文徳もなく、戦いで功績により認められてきたのである。

郡界を超えて討伐を行い、よその土地を救い、安全を確保してあげるのは当然の事だと思う。

例え境界を越えて軍を動かした事で罪となったとしても、恥じるべき事ではないと考えておる。」

孫堅は郡境を超えて兵を動かしますが、孫堅が救援に来た事を知ると、賊らは逃亡したとあります。

孫堅の男気を感じる話でもあります。

余談ですが、陸康は後に夷陵の戦いで、劉備を破った陸遜の一族でもあります。

反董卓連合に参加

董卓が実権を握ると、袁紹を中心とした反董卓連合が出来上がります。

反董卓連合には孫堅も参加した記録があります。

史実では反董卓連合で、最も活躍したのが孫堅だと言えます。

董卓が実権を握る

西暦189年に霊帝が崩御しました。

霊帝の後継者として、少帝が即位したわけです。

外戚の大将軍である何進が実権を握りますが、何進は十常侍ら宦官勢力により暗殺されてしまいます。

兼ねてより宦官の撲滅を考えていた袁紹らは宮中に乗り込み、十常侍ら宦官を皆殺しにしました。

こうした混乱の中で、董卓が少帝や弟の劉協(献帝)を保護し実権を握ったわけです。

しかし、董卓が実権を握る事に袁紹や曹操が反発し、反董卓連合が結成されています。

孫堅も反董卓連合に加わる決断をします。

因みに、この時に孫堅は過去の事を振り返り「あの時に董卓を処刑しておれば・・。」と嘆いた話があります。

韓遂らを討伐した時に、孫堅の進言に従って張温が董卓を斬っていれば、こんな事にはならなかったと嘆いたのでしょう。

家族を舒県に預かる

周瑜伝によると、孫堅が義兵を挙げて董卓討伐に向かうと家族を舒県に預けた話があります。

舒県には名士の周家があり周瑜がいたわけです。

孫堅の長子である孫策と周瑜は年齢が同じだった事もあり、親交を深める事になります。

孫策と周瑜の結束は固く、断金の交わりとも呼ばれています。

孫堅も舒県に家族を預けた時に、孫策と周瑜が運命的な出会いをするとは思ってもいなかったでしょう。

後に孫策は小覇王、周瑜は美周郎と呼ばれ、呉の礎を築く事になります。

王叡を殺害

孫堅は北上を始めましたが、荊州刺史として王叡(おうえい)が襄陽にいたわけです。

王叡は荊州刺史であり、孫堅の上司に当たる人物ですが、日頃から孫堅を軽んじていました。

王叡は名士であり、家柄が低い孫堅を侮ったのかも知れません。

孫堅は自分を軽く見る王叡を嫌っていたわけです。

王叡は人を侮る性癖があったのか、武陵太守の曹寅までも嫌っていた話があります。

王叡は曹寅を殺害した上で、反董卓連合に参加しようと考えていました。

曹寅は危険を感じ畏れて檄文を偽造し、孫堅に王叡を討つ様に依頼しています。

孫堅は元々王叡を嫌っていた事で、曹寅の話に乗り王叡を討つために動き出します。

王叡は孫堅が大軍でやってきた事を恐れ「一体何をするつもりなのだ?」と使者を派遣しました。

孫堅配下の兵士は「王叡の援助が少なくて困窮している」と述べたわけです。

王叡は孫堅を見つけると、孫堅に「何をしているのだ。」と問います。

孫堅と王叡の間で次のやり取りがあったと伝わっています。

孫堅「檄文に従ってあなたを誅殺しに来たのです。」

王叡「私に何の罪があるのだ。」

孫堅「座したままで、何もしなかったからだ。」

王叡は絶体絶命の状況となり、服毒自殺しました。

孫堅が王叡を「何もしない」と述べたのは、董卓を討伐しなければいけないのに、曹寅を討とうとしている事を指しているのでしょう。

張咨を斬る

孫堅は北上を続け南陽郡まで行きます。

孫堅は南陽郡の太守である張咨を訪ねました。

張咨は孫堅を歓待はしてくれましたが、兵糧を出す事には難色を示します。

孫堅は宴席を使い張咨を捕えて軍門の前で処刑しました。

張咨を殺害した事で、南陽郡の官吏たちは恐れを抱き、孫堅の要求を全て受け入れた話があります。

それでも、この時代は食糧不足が深刻であり、各地の人々は食料を得る為に必死だったはずです。

尚、孫堅が張咨を斬った経緯に関しては正史三国志と呉歴で差があり、この事に関しては張咨の記事で紹介しました。

袁術と会見

袁紹が出奔し反董卓連合を結成した時に、董卓は汝南袁氏の袁隗、袁基らを処刑しました。

都の洛陽にいた袁術は都を脱出して、南陽郡に向かったわけです。

孫堅は袁術と魯陽で会見した話があります。

袁術は汝南袁氏の棟梁とも言える立場であり、後将軍でしたが兵を殆ど保持していませんでした。

それに対し孫堅は兵を持ってはいましたが、家格が低く名声において求心力が低かったわけです。

袁術と孫堅は利害が一致した事で、手を組む事になります。

袁術は後将軍の立場を利用し、孫堅を破虜将軍・豫州刺史に任命しています。

袁術は孫堅が張咨を殺害した事で、空位となっていた南陽太守となり地盤を確保する事になりました。

諸侯は董卓を討伐する為に洛陽に進撃します。

河北からは袁紹、中原からは曹操や張邈、南陽からは孫堅が洛陽を目指しています。

名将としての貫禄

孫堅の軍は兵糧が不足しており、孫堅は部下の公仇称を長沙に向かわせ、兵糧を運んで来させる様に命じています。

この時に孫堅は公仇称の為に、城外で送別会を開く事にします。

洛陽にいた董卓は孫堅が酒宴を開いている事を知ると、好機と判断し数万の騎兵を孫堅に差し向けたわけです。

孫堅は董卓の軍が向かっている事を知っても、焦りも無く酒を飲み続け公仇称の送別会を続けます。

董卓の兵が多くなってくると、孫堅は宴席を切り上げて、隊列も乱さず城へ帰還しました。

孫堅の軍に乱れが無かった事から、董卓軍は奇襲にならないと判断し引き返す事になります。

後に孫堅は次の様に語っています。

「私が宴席を直ぐに止めなかったのは、その様な事をすれば、直ぐに兵が浮足立つと考えたからだ。

あの時に、直ぐに動いていたら、兵達は我先にと慌てて城に戻って、軍が乱れた所を敵に急襲されたであろう。」

孫堅の言葉からは、兵達の思考をよく理解し、的確な行動を取ったというべきなのでしょう。

将としての貫禄も孫堅にはあったように感じています。

徐栄に破れる

孫堅は洛陽に向けて進軍を続けますが、董卓は孫堅に徐栄をぶつけてきます。

三国演義での徐栄は夏侯惇に一突きで殺されてしまう、情けない役柄ですが、史実の徐栄は名将です。

徐栄は既に曹操軍を破っており、孫堅軍と戦う事になります。

この時の徐栄と孫堅の兵力は不明ですが、孫堅は徐栄に敗れてしまいます。

孫堅が正面から戦い敗れたのは、徐栄だけでしょう。

撤退中の孫堅は自分がいつも被っている、赤い帽子を祖茂に預けて撤退に成功させています。

祖茂は徐栄の軍に追い詰められますが、祖茂は孫堅の帽子を柱に掛ける作戦に出ます。

徐栄の軍は柱を囲みますが、孫堅の勇猛さを恐れて中々近づかなかった話があります。

敵が慎重になった事で、祖茂も無事に撤退に成功し、逃げ延びる事が出来たわけです。

曹操は徐栄に破れると軍が壊滅したのか、撤退しましたが、孫堅は陽人の城に籠り抗戦します。

曹操に比べて孫堅は被害が少なかったのでしょう。

陽人の戦い

徐栄が一度は孫堅の軍を破りますが、孫堅が陽人に籠城した事で、董卓は再び討伐軍を出します。

董卓は胡軫と呂布に命じて孫堅を攻撃させています。

胡軫は人望が皆無な人物であり、呂布や諸将が足を引っ張った事で、孫堅は大勝します。

因みに、正史三国志には、孫堅軍が華雄を討ち取った記録まであります。

陽人の戦いは孫堅の勝利となり、董卓軍は撤退しました。

孫堅は徐栄に敗れた軍であり、まともに戦えば胡軫が勝っていたのではないか?とする説もあります。

お気づきの方もいるかも知れませんが、正史三国志には三国志演義の様な「汜水関の戦い」や「虎牢関の戦い」も存在しません。

三國志演義で大活躍する劉備、関羽張飛の三人組が、反董卓連合に参加した記録も史実には存在しません。

史実の反董卓連合で最も活躍したのは、間違いなく孫堅だと言えるでしょう。

袁術と兵糧

反董卓連合と言っても、実質的に戦って戦果を挙げているのは、孫堅だけだったわけです。

袁術は讒言された事もあり「孫堅が董卓を討ち取ったら、孫堅を制御出来なくなる。」と考えます。

袁術の心に迷いが生じた事で、袁術は孫堅への兵糧の供給を停止しました。

袁術は孫堅が反旗を翻す事を恐れたのでしょう。

孫堅は袁術からの兵糧輸送が無くなると、事態を重く見て自ら袁術の元に訪れる事になります。

孫堅は袁術に対して、次の様に述べています。

孫堅「自分は袁術様の家族が董卓に処刑された敵討ちの為や天下の為に戦っているのに、袁術様は私を疑うのですか。」

さらに、孫堅は楽毅呉起を例に出し、袁術に訴えかけます。

孫堅の言葉が袁術の心に届いたのか、袁術は孫堅への兵糧輸送を再開したわけです。

ただし、この時に孫堅も直ぐに袁術を信じたわけではなく、ちゃんと兵糧輸送された所を見届けて、自分の軍に戻っています。

一説によると、孫堅が袁術を一喝し、ビビった袁術は慌てて兵糧を補給する様になった話もあります。

他にも、袁術が孫堅の忠義心を試したとする説も存在しています。

董卓の誘いを拒否

董卓は孫堅を懐柔すれば、反董卓連合が収まると考えたのか、李傕を派遣しています。

董卓は李傕を通じて、「自分に味方すれば一族の子弟を高官にする。」と孫堅に持ち掛けました。

孫堅は次の様に答えた話があります。

孫堅「董卓は天下に背き無道を行い、国を傾けた罪人である。

私はお前(董卓)を滅ぼし、天下に示さねば、自分は死んでも死にきれない。

お前と誼を通じる必要はない。」

董卓の申し出を孫堅はきっぱりと断ったわけです。

孫堅は董卓と徹底抗戦する気でいた事が分かります。

辺章・韓遂の乱の時の董卓の態度を見て、孫堅は董卓に対し嫌悪感もあったのでしょう。

さらに、董卓は少帝を廃位とし李儒に殺害させ、献帝を即位させています。

こうした行為も孫堅が董卓を嫌う原因だったのかも知れません。

董卓の長安遷都

董卓はこれ以上、孫堅と戦うのは利益がないと考えたのか、洛陽を焼き払い長安に遷都しています。

董卓は反董卓連合の中で、危険人物として袁紹、袁術、劉表、孫堅を挙げていますが、この中でも孫堅を最も警戒していた話があります。

董卓も警戒していた孫堅が都に迫ったので、長安に遷都したとも考えられます。

因みに、董卓は孫堅の事を「連合軍の中で唯一まともな人物」と述べた事もあり、董卓の孫堅に対する評価の高さが分かるはずです。

後漢書によると、董卓は呂布を洛陽に残して孫堅と戦わせた話があります。

ここでも孫堅の采配が冴えわたったのか、呂布を撃破しました。

伝国の玉璽

孫堅は董卓により焼かれてしまった洛陽に入城する事になります。

董卓は歴代皇帝の陵墓を荒し、長安に遷都しましたが、孫堅は皇帝の墓を修復しています。

孫堅と言えば、野心家に思うかも知れませんが、当時の人々は孫堅が漢の忠臣として見ていたとも考えられています。

正史三国志の注釈などに、孫堅が井戸の中から伝国の玉璽を見つけた話があります。

山陽公載記には、孫堅が見つけた伝国の玉璽を、袁術が孫堅の妻を人質に取り奪ったとする話も存在します。

様々な説がありますが、孫堅が廃墟となった洛陽で伝国の玉璽を本当に見つけたのかは分からない状態です。

正史三国志に注釈を入れた裴松之は、次の様に述べています。

孫堅は義兵を起こした忠烈の士だから、本当に伝国の玉璽を見つけたら、世間に公表するはずだ。

裴松之の説を信じるのであれば、後に袁術が皇帝を僭称し仲王朝を開いた事から、辻褄を合わせた世間の作り話となるのでしょう。

孫堅の涙

董卓が長安に遷都すると、反董卓連合は瓦解に向かいます。

反董卓連合は味方同士で争いを始めます。

この状況を見て、孫堅は涙を流し次の様に述べています。

「皆が挙兵したのは漢王朝の社稷を守る為だったはずだ。

逆賊が破滅しそうになるとこのザマだ。

自分は誰と手を組めばいいのだろう。」

孫堅の後漢王朝に対する忠義の言葉でもあります。

反董卓連合の諸将の多くは、本気で後漢王朝を立て直す気が無かったのに対し、孫堅だけは闘志を燃やして戦いに挑んでいた様にも思います。

孫堅にとってみれば、反董卓連合の諸将の不甲斐なさに涙が出てしまったのでしょう。

孫堅が袁術に従ったのは、お互いの利益が一致したとする説が支持されています。

しかし、袁術は袁紹が劉虞を皇帝にするのに反対した経緯があり、孫堅は袁術が忠義の士だと感じ従ったのかも知れません。

袁紹と袁術の対立

汝南袁氏の袁術と袁紹が対立し、天下は群雄割拠に向かいます。

周喁との戦い

孫堅は袁術の取り計らいにより、豫州刺史になっていました。

しかし、袁紹は孫堅が豫州を離れている事を理由に、周喁(しゅうぐ)を豫州刺史に任命しています。

もちろん、周喁は袁紹の息が掛かった人物です。

孫堅は正式な手続きを踏んで豫州刺史になったわけであり、袁術と共に激怒します。

孫堅は豫州刺史の座を周喁と争い勝利しました。

この戦いで公孫瓚の従弟である公孫越も周喁と戦っていたわけです。

周喁の軍が公孫越を討ち取ってしまった事で、袁紹と公孫瓚の中も悪化しました。

天下は袁術派と袁紹派に分裂し、群雄割拠状態となります。

袁術派には孫堅、陶謙、公孫瓚がおり、袁紹派には曹操、劉表らがいたわけです。

袁術は孫堅に命じて、荊州にいる劉表を討伐させる事にしました。

袁術派と袁紹派を全体的に見れば、袁術派が圧倒的に優勢だったと考えられています。

劉表を攻撃

過去に孫堅は荊州刺史の王叡を殺害しています。

王叡の後任として荊州刺史となったのが劉表でした。

劉表は蒯越蔡瑁らと協力し、蒯越の計略を用いて短期間で荊州に基盤を得る事に成功しています。

孫堅は劉表討伐に向かいますが、劉表は黄祖に命じて迎撃させています。

孫堅は樊城の付近で黄祖を破り、劉表が籠る襄陽を包囲したわけです。

孫堅の強さが圧倒的であり、荊州が陥落するのも時間の問題と考えられていました。

しかし、多くの方が知っている様に、ここで不幸に見舞われます。

孫堅の最後

孫堅の最後には幾つかのパターンがあります。

因みに、呉録によれば孫堅は37歳で亡くなったとされています。

三國志演義では蒯良の計略で孫堅は亡くなっていますが、これは史実ではないでしょう。

正史三国志の孫堅の最後

孫堅の最後ですが、正史三国志には次の記載があります。

「孫堅は峴山を単騎で通行中に、黄祖の軍卒が放った矢が命中し亡くなった。」

正史三国志の記述からは、孫堅が自ら偵察を行ったのか、油断して一人でいる時に、矢が命中し亡くなった事になっています。

名将と呼ばれ戦場で暴れ回った孫堅にしては、呆気ない最後だとも言えるでしょう。

尚、正史三国志の記述は簡略であり、典略の方が詳しいと言えます。

典略の孫堅の最後

典略によれば劉表を討伐する為に、孫堅は全ての兵をつぎ込んだわけです。

劉表は城門を閉じて籠城し、夜中に黄祖を城から出し城外で兵士を集めようとします。

黄祖は兵士を集め終わると城外に戻ろうとしますが、孫堅が待ち構えていたわけです。

黄祖は孫堅に敗れて、峴山に潜み隠れる事にしました。

孫堅は徹底的に黄祖を追撃しようとしますが、黄祖が用意した伏兵に射殺されて命を落とします。

これが典略における孫堅の最後です。

正史三国志と話は似ていると言えます。

英雄記の孫堅の最後

劉表の部将である呂公が山間を蔦って孫堅に近づきます。

孫堅は武装する事も無く、騎馬で呂公を探していたわけです。

呂公の兵士は石を落とし、孫堅に命中させます。

孫堅は落石により頭が破裂し亡くなったとあります。

孫堅の死には、様々な異説があり、正直な所どれが正しいのか分からない状態です。

ただし、全て孫堅の軽率な行動から起きた最後だと言えるでしょう。

桓階が遺体を引き取る

孫堅が長沙太守だった頃に、桓階を孝廉に推挙した事がありました。

桓階は孫堅に恩を感じており、劉表に孫堅の遺体を引き取りたいと申し出たわけです。

劉表は桓階の行為を義とし、孫堅に遺体の引き渡しに応じています。

孫堅の棺は曲阿に送られています。

袁術派の惨敗

孫堅が劉表により敗れた頃、北方では袁紹が公孫瓚を破っています。

さらに、曹操が袁術と陶謙を撃破しています。

袁術派と袁紹派の戦いは、圧倒的に袁術派が優勢だと考えられていましたが、ふたを開けてみれば、袁術派の惨敗でした。

袁術は南陽郡に戻れなくなり寿春まで逃亡しています。

尚、孫堅が襄陽の戦いで討死していなければ、劉表は孫堅に滅ぼされており、歴史はかなり変わったとも考えられています。

孫堅が討死しなければ、孫堅が荊州の支配者になっていた可能性も十分にあるでしょう。

孫堅の評価

孫堅はこれまでの記述を見ると分かる様に、勇猛果敢な人物だった事は明らかです。

しかし、勇敢さが仇となり最後を迎えてしまいました。

それを考えると、孫策の時代に「将たる者が最前線に立つべきではない。」と諫めた張紘の様な臣下は必要だった様に思います。

孫堅が亡くなると、孫堅軍は兄の子である孫賁に引き継がれますが、袁術に吸収されたと伝わっています。

それを考えると、孫堅は土地を子孫に残す事は出来なかったと言えます。

しかし、本編には登場しませんでしたが、程普黄蓋韓当、朱治などの家臣達を、孫策や孫権に残す事に成功しています。

孫策の時代に武将の周泰蒋欽、淩操なども集まりますが、孫堅の子だと言うのも大きかったのかも知れません。

無名だった孫家を一気に飛躍させたのは、孫堅であり「呉の始まりは孫堅にあり!」とも言えるでしょう。

孫堅の子孫

孫堅の子には孫策、孫堅、孫翊、孫匡がいました。

さらに、劉備に嫁いだ孫尚香(孫夫人)もいたわけです。

孫策、孫堅、孫翊、孫匡、孫尚香の母親は全て呉夫人となります。

孫堅の長子である孫策は袁術から兵を借りて、江東で勢力を築く事になります。

西暦200年に官渡の戦いが行われた頃に、孫策は許貢の食客により暗殺されています。

孫堅の次男である孫権の代に、曹操を赤壁の戦いで破り、三国鼎立の礎を築きます。

西暦229年には孫権が呉の皇帝となり、三国時代が始まったわけです。

孫堅の子孫は三国時代の一翼を担うなど、大発展した事になるでしょう。

孫権は皇帝となるや父親の孫堅に諡をし、武烈皇帝とした話があります。

孫権は母親の呉夫人を武烈皇帝としました。

孫権の死後は、孫亮、孫休、孫晧と続き、孫晧の代で晋の司馬炎により呉は滅亡しています。

呉の滅亡は西暦280年であり、蜀が劉禅が降伏した263年に滅んでおり、魏も265年に司馬炎への禅譲により滅んでいます。

三國志の中では、孫堅の子孫である呉が最も長持ちしています。

孫堅は若くして亡くなってしまいましたが、孫家の大発展は孫堅から始まったとも言えそうです。

参考文献・ちくま学芸文庫 正史三国志など

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宮下悠史

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