鮑出は正史三国志の魏書閻温伝の注釈・魏略『勇侠伝」に登場する農民です。
歴史書などは軍人や政治家などを中心に書かれますが、鮑出の行いは褒め称えられるべきものであり、歴史書にも名前が残ったのでしょう。
閻温が馬超に屈せず忠義を尽くした人物であり、裴松之は閻温に匹敵する気概を評価し、閻温伝の注釈に入れた様にも感じています。
閻温は農民ではありますが、卓越した武勇で母親を救い、孝の精神を持った立派な人物だと言えるでしょう。
今回は農民でありながら歴史に名を残した鮑出を解説します。
尚、魏略の勇侠伝には下記と共に収録されています。
蓬取りに出かける
鮑出の字は文才であり、雍州京兆郡新豊の人で若い頃は侠客だったとあります。
若い頃から鮑出は腕っぷしが強く任侠の世界に身を寄せた人なのかも知れません。
鮑出は五人兄弟であり、兄に鮑初、鮑雅がおり、弟に鮑成らがいました。
鮑出は老母と6人で暮らしていたわけです。
魏略によると興平年間(194年、195年)に三輔が乱れたとあります。
当時は董卓が長安に遷都を強行し、董卓が王允や呂布に殺害されると、李傕や郭汜が実権を握りますが、長安で市街戦が繰り広げられるなど政治は大いに乱れていたわけです。
鮑出は兄の鮑初、鮑雅、弟の鮑成らで食料を得る為に、老母を残して蓬(よもぎ)取りに出かけました。
蓬が無事に取れると、鮑初、鮑雅、鮑成らは先に帰り、老母の為に食事を作る事にし、鮑出は末弟と共に残り、さらに蓬取りに励みます。
母親が連れ去られる
鮑出は末弟と共に、遅れて家に到着しますが、家の方では数十人の賊が老母の手に縄を通して連れ去り、馬で逃亡していたわけです。
鮑出は賊から母親を奪い返すべく行動を起こそうとしますが、兄弟たちは恐れおののき「賊は数が多いどうすればいいだろう」と述べるだけでした。
ここで鮑出は激怒し、次の様に述べています。
※魏略 勇侠伝より
「母親が賊に手を貫かれ、連れ去られて煮て食われようとしているのだ。
ここで生き延びたとて、何になるのだろう」
鮑出はただ一人で、賊を追撃し母親を奪い返す事にしました。
鮑出は孝の精神を持っていただけではなく、後の事を考えれば武勇に圧倒的な自信を持っていたからこそ、追撃を決行したのでしょう。
圧倒的な武勇
鮑出は一人で追撃を行うと、賊は素早く鮑出の動きを察知し並んで待ち構える事にしました。
賊は人数の多さで鮑出を圧倒し、威圧しようと考えたのかも知れません。
しかし、鮑出は恐れる事無く賊に攻撃を仕掛け、4,5人の賊を斬る事に成功しました。
賊は逃亡しますが、再び集結し大人数で鮑出を囲んだわけです。
ここでも鮑出の武勇が冴えわたり、10数人を斬り捨てる事になります。
鮑出は母親を救出する為に戦い前に進み、賊は斬りかかりますが、鮑出に勝つ事は出来ませんでした。
老婆を救出
鮑出は母親の前まで辿り着きますが、ここで近所の老婆も一緒に捕らえられている所を目撃する事となります。
鮑出はここでも賊を大いに破ると、賊は「貴方の目的はなんだ」と問いました。
ここで鮑出は賊を責め立て、母親を指で指し示しました。
これにより賊は鮑出の老母を解放しています。
しかし、老母が解放されても鮑出は賊への攻撃をやめませんでした。
賊は鮑出に「貴方の老婆を解放したのに、攻撃をやめてくれないのは何故だ」と問います。
すると、鮑出は一緒に捕らわれていた近所の老婆を指さし「これは私の兄嫁だ」と述べました。
これにより賊は母親と一緒に捕らわれた老婆も解放したわけです。
鮑出が「私の兄嫁だ」と言った言葉は、勿論、嘘であり機転が利く人物だという事も分かります。
母親を籠に入れ郷里に帰る
鮑出は母親を連れて家に帰ろうとしますが、関中への道は閉ざされており南陽を仮住まいとしました。
建安5年(西暦200年)になると、関中への道が通った事で、鮑出は北方に帰還する事を決めます。
しかし、鮑出は母親が歩くのが困難であり、車を使えば険しい山を越えるのが難しいと判断すると、老婆を籠に背負い郷里を目指す事にしました。
鮑出は自分一人で母親を籠に入れ、郷里まで帰ったと伝わっています。
鮑出は農民ではありますが、人並み優れた武勇や体力を持っていた事になるでしょう。
仕官を断わる
鮑出は郷里に戻ると、役人たちは鮑出は立派な心を持っていると判断し、招聘しました。
鮑出は近所の老婆も助けており、郷里でも評判の人になっていたのでしょう。
士大夫達は鮑出を州や郡に推薦しようとしましたが、鮑出は次の様に答えました。
※魏略 勇侠伝より
私は農民であり冠や帯に耐える事が出来ません。
鮑出は役人になる事を辞退したわけです。
鮑出がここで仕えていれば、許褚や典韋の様な活躍を見せた可能性もあるのかも知れません。
その後の鮑出
鮑出はその後も農民を続けていた様ではありますが、鮑出の母親は青龍年間に亡くなったとあります。
魏の元号で青龍が使われたのは233年から237年の事であり、曹叡の時代に鮑出の母親は亡くなった事になるでしょう。
事件から30年以上も母親は生きた事になります。
鮑出の母親は百余歳で亡くなったとあり、鮑出は礼に則り喪に服したとあります。
鮑出も当時としては長命であり90歳くらいになっても生きていた様ではありますが、見た目は5,60歳くらいにしか見えなかったとあります。
鮑出は現在で言えば美魔男系の男性だったのかも知れません。
鮑出の評価
魏略を著した魚豢は、鮑出に対し次の様に述べています。
※魏略 勇侠伝より
鮑出は礼教に染まっておらず、母親を助けたいとする気持ちが自然と湧き出たものである。
鮑出は一生を平民として過ごしたが、誠実で激情な性格は君子と異なるものではない。
魚豢は鮑出の心意気は君子と変わりがないと評価したわけです。
鮑出は仕官はしませんでしたが、立派な心意気を持っており、人々に称えられる存在であったように感じています。
尚、鮑出は一人で賊を何十人も倒しており、意外と三国志の人物の中では、最強クラスの武勇を持っていた可能性もある様に思います。