許褚は正史三国志に名前が登場する人物であり、曹操に仕えました。
許褚は体格に優れており虎痴とも呼ばれた話があります。
曹操の親衛隊と言えば許褚と典韋を思い浮かべる人が多いかと思いますが、典韋が比較的早い時期に亡くなったのに対し、許褚は曹叡の時代まで生き最後を迎えました。
尚、許褚は三国志演義では典韋を始め馬超、龐徳、韓当&周泰のコンビなど様々な相手と一騎打ちをしています。
しかし、残念ながら史実の許褚が一騎打ちを行ったという記述はありません。
それでも許褚は剛力無双の士であり曹操を守り抜いたと言えるでしょう。
許褚は正史三国志の二李臧文呂許典二龐閻伝に立伝されており、下記の人物と共に収録されています。
優れた体格
正史三国志の許褚伝によると、許褚は譙国譙県の出身だとあります。
曹操が沛国譙県の出身だとする記録があり、曹操と許褚は出身地が同じではないか?とも考えられています。
正史三国志によると許褚の身長が八尺余あり腰回りは大きく十囲(囲は五寸)あったと言います。
腰回り十囲の記述を考えると、許褚は縦にも横にも大きな体格だったのかも知れません。
許褚は恵まれた体格を持っていた事だけは間違いないでしょう。
許褚は容貌に優れただけではなく毅然とした態度で物事に挑み、武勇や力量は人並外れていたと言います。
この恵まれた体格を生かし許褚は三国志の世界で活躍して行く事になります。
尚、三国無双シリーズの許褚の姿が可愛く描かれており、一部では「許褚はかわいい」と言われています。
砦の防衛
石を投げて敵を撃退
正史三国志によると、漢末に許褚は若者と一族の数千家を集め、力を合わせて城壁を固め侵入を防いだとあります。
ある時に、汝南の賊が1万もの大軍で許褚がいる砦を攻撃してきました。
許褚の軍勢は少なく、とても対抗できる程の人数ではなかったわけですが、許褚は力を尽くして戦い抜く事になります。
許褚がいる砦の兵士も戦っているうちに消耗し、疲れ果て矢も尽きてしまいました。
ここで許褚は砦内の男女に命じて湯呑み程の石を集めて砦の四隅に設置させました。
許褚は石を投げて反撃を行い許褚の石が直撃した者は打ち砕かれ、賊は城を攻撃しようとしなかった話があります。
三国志を見ると多くの武勇談がありますが、石を投げて敵を撃退したなどの話は聞いた事が無く、許褚の武勇の凄さが分かるはずです。
片手で牛を引きずる
砦内の食料が欠乏し賊と和睦し、食料と牛を交換する事で和睦しようという話しになります。
賊との和睦は成立し砦側は牛を渡し、城内は食糧を受け取りますが、賊に渡した牛が逃げ帰って来たわけです。
許褚はそれを見ると、陣営の前に進み出て片手で牛の尾を捕まえ引きずって賊の方へ百歩程歩きました。
賊は許褚の圧倒的な腕力を目にすると、牛を受け取る勇気もなく逃走しています。
許褚の圧倒的な筋力の前に敵は成すすべを知らず逃げ去ったとも言えるでしょう。
淮、汝、陳、梁の辺りで、この話を聞いた者は許褚を恐れ憚ったとあります。
ただし、人間が1本の腕で牛を本当に引きずる事が出来るのかは不明であり、噂で話が大きくなったのではないかと感じました。
それでも、本当に許褚が片手で牛を引きずったのであれば、圧倒的な武勇の持ち主だという事は間違いないでしょう。
曹操に仕える
正史三国志
正史三国志だと太祖(曹操)が淮、汝を平定した時に、許褚は軍勢を引き連れて曹操に帰順したとあります。
曹操は許褚の姿を見ると、その勇ましさに感心し「こやつは儂の樊噲だ」と述べ、即日に都尉に任命したとあります。
曹操は許褚を見た瞬間に気に入り、お試し期間なしで都尉にしたのでしょう。
尚、曹操の口から出た樊噲は劉邦に仕え鴻門之会でも活躍した武人です。
さらに、曹操は許褚に宿直警護の役目を担わし、自分を守らせました。
許褚が連れて来た者たちは、全て虎士と呼ばれる親衛隊に任命したとあります。
許褚の曹操のボディーガード人生はここからスタートしたわけです。
曹操の親衛隊長になったと考えればよいでしょう。
正史三国志によると許褚が張繍征伐で五桁の首を挙げたとする記述があります。
しかし、張繍との戦いを考えると、許褚が五桁(万)の首を挙げたという事はないはずです。
むしろ、曹操の張繍討伐は典韋を失うなど失敗も多かったと言えます。
三国志演義
三国志演義では曹操が何儀や黄邵などの黄巾賊の残党を征討する為の戦いをしていました。
この戦いでは曹洪が黄巾賊の何曼を討ち取り、李典が黄邵を捕虜にするなど優勢に戦いを進めていました。
こうした中で典韋が何儀への追撃を行うと、ある男が「既に賊徒数百騎を生け捕り砦の中にいる」と答え典韋の前に進み出ます。
この男こそが許褚だったわけです。
典韋と許褚は口論となり一騎打ちをしますが、日暮れまで戦い続けて馬も疲れ果てますが、勝負は着きませんでした。
曹操は許褚の話を聞くと驚くと同時に配下に加えたくなってきたわけです。
曹操は典韋に翌日の一騎打ちでわざと負ける様にし、落とし穴を使って許褚を捕えようとしました。
典韋が曹操の策に従うと許褚は捕らえられたわけです。
許褚は縛られ、かぎ棒で身体の自由を奪われていましたが、曹操は慌てて許褚の縄を解き配下に誘いました。
許褚は名を名乗り過去に砦で石を投げて敵を撃退した話を語り、曹操の臣下となります。
史実では許褚と典韋は一騎打ちはしてはいませんが、三国志演義だとドラマチックな演出で許褚は曹操の配下になったと言えるでしょう。
あと、許褚と典韋は共に曹操のボディーガードとも呼べる存在でもあり、羅貫中は話を面白くする為に、許褚と典韋の一騎打ちを創作したと感じました。
徐他を斬る
この時に、徐他なる人物が曹操の暗殺を狙っていたわけです。
徐他は曹操を刺殺したいとは思っていましたが、いつも傍に許褚がいる事で行動を移す事が出来ませんでした。
徐他は許褚が休暇の時を狙い曹操を暗殺しようと企てる事になります。
許褚は休暇になると宿舎に向かいますが、宿舎の前で胸騒ぎを起こしました。
この時に徐他は懐に刃を仕込み曹操の命を狙っていたわけです。
許褚は徐他よりも先に曹操の元に駆け付けました。
徐他は何も知らず帳を開けて曹操を刺殺しようとしますが、許褚の姿を見ると固まってしまいました。
許褚は徐他の顔色が変わった事を察すると、一気に徐他を殺害しています。
この一件があってから、曹操はますます許褚を可愛がる様になり、出入りに同行させ傍から離さなくなったと言います。
曹操にしてみれば、許褚が傍にいれば身の安全を確保できると思ったのでしょう。
許褚は曹操の鄴攻めでも奮戦し関内侯の爵位を賜わったとあります。
馬超との戦い
211年に曹操と馬超、韓遂らの涼州連合との間で潼関の戦いが勃発しました。
徐晃や朱霊が蒲阪津から渡り、曹操も続けて北から渡河しようとしますが、先に兵士らに黄河を渡らせ、許褚や虎士数百人が南岸に残る状態となったわけです。
この時の曹操には油断があったと言うべきでしょう。
この隙を見逃さなかった馬超は歩兵・騎兵と1万の兵で曹操の軍を急襲し、大量の矢を降らせました。
許褚は曹操に馬超の襲撃があり、兵士も渡河したからには、自分達も急いで対岸に渡る様に促しました。
許褚は急いで曹操を船に乗せますが、馬超の軍の勢いは強く軍兵が争って船に乗ろうとした事で、船は重みで沈没しそうになってしまいます。
ここで許褚は船によじ登ってくる者を斬り捨て、左手で馬の鞍を掲げ矢から曹操を守りました。
味方の兵士を斬ってしまうなど酷いと思うかも知れませんが、曹操を守る為には仕方がない部分もあったのでしょう。
献帝を守るために董承や李楽も船にしがみついてきた味方の兵を斬っていますし、邲の戦いで敗れた晋軍も船を維持する為に味方を斬り捨てています。
船頭に矢が命中し亡くなってしまうと、許褚は右手で船を漕ぎ操作し、渡河する事に成功しました。
丁斐もこの時に家畜を放ち涼州勢の足を鈍らせており、潼関の戦いでは許褚と丁斐がいなければ、曹操は捕虜となるか戦死していたとも考えられるはずです。
ただし、涼州勢にとってみれば最大の好機を許褚と丁斐に潰されてしまったとも言えます。
虎侯
潼関の戦いですが、曹操と馬超、韓遂が馬に乗り会見を行う事になりました。
馬超や韓遂の凶暴さは世に知れ渡っていたのか、曹操にお供を願い出る者はいませんでしたが、許褚は臆する事もなく曹操に従い会見に参加しています。
この時に馬超は己の武勇を頼りに曹操を捕えてしまおうとも考えますが、許褚の武勇を聞いており警戒していました。
馬超は曹操が会見に姿を見せると、側にいる者が許褚かと疑い次の様に述べています。
※正史三国志 許褚伝より
馬超「公に虎侯という者がいると聞いているが、何処にいるのでしょうか」
曹操は馬超の質問を受けると、許褚を指さしました。
馬超が許褚に視線を向けると許褚は目を怒らせて馬超を睨みつけています。
馬超は許褚を警戒したのか、無理に行動を起こす様な事をせず会見は終わりました。
正史三国志だと許褚と馬超は一騎打ちを行うなど白熱の戦いをしていますが、史実を見ると許褚の気迫に馬超が押された様にも感じています。
武衛中郎将
潼関の戦いでは賈詡の離間の計で馬超と韓遂の仲を割いた上で決戦を行い曹操が大勝しました。
この時に許褚は自ら戦場に身を置き首級を挙げました。
曹操は許褚の功績を評価し武衛中郎将に昇進させています。
尚、正史三国志によると「武衛」という称号は、ここから始まったと言います。
それを考えれば初代武衛?は許褚という事になるはずです。
虎痴
正史三国志に許褚が虎痴と呼ばれた由来が記載されています。
許褚は虎にも匹敵する様な力を持っていましたが、ぼーっとしている部分もあった様です。
ぼーっとしている事を「痴」と呼び、虎痴と呼ばれる様になったと伝わっています。
許褚は虎痴と号しており、それで馬超は「虎侯」と呼び質問したわけです。
馬超としても「痴」という文字は失礼にあたる事から、虎痴ではなく「虎侯」と呼んだのでしょう。
正史三国志によると天下の人々は現在に至るまで、許褚を讃え皆が虎痴が姓名だと思っていると記載されています。
陳寿は西晋の人であり、三国志の世界が終わっても許褚の活躍は語り草となっており、虎痴の名で親しまれたという事でしょう。
最初にも言いましたが、コーエーテクモゲームスさんの三国無双シリーズで、許褚が可愛い感じで描かれるのは、スタッフが虎痴を意識してゲームを作ったからだと感じています。
許褚の人柄
正史三国志によると許褚の人柄は慎み深く法律を遵守し素朴で重々しく口数は少なかったとあります。
許褚は生真面目な性格をした豪傑と言った所だったのでしょう。
曹仁が荊州から来朝した時に謁見しましたが、曹操がまだ来る前であり許褚に出会いました。
曹仁は許褚に興味を持ち、共に座って語り合おうとしますが、許褚は次の様に述べています。
※正史三国志 許褚伝より
許褚「王(曹操)は直ぐにでもお出ましになりましょう」
許褚は曹仁からの誘いを断ったわけです。
これにより曹仁は気分を害しますが、ある人が許褚に次の様に述べています。
ある人「征南将軍(曹仁)はご一族で重臣でもあります。
下手に出て貴方を誘ったのに、何の理由があって断ったのでしょうか」
許褚は次の様に答えました。
許褚「あの方は一族の重臣である事に間違いありませんが、外の大名でもあります。
私は朝廷内の臣下の一因であり、大勢で談合すれば、それで十分なのです。
部屋に入って個人的なお付き合いをする必要はありません」
許褚は自分の立場を優先し、曹仁と個人的な付き合いをしなかったわけです。
曹操は許褚の話を聞くと、さらに許褚を愛し気に入ってしまい中堅将軍に昇進させました。
曹操が亡くなると、許褚は血を吐いて号泣したとあります。
尚、関羽の北上を樊城の戦いで食い止めたのは、曹仁であり、許褚の主君である曹操が天寿を全う出来たのは、曹仁のお陰という部分もあるはずです。
万歳亭侯
曹丕は献帝からの禅譲により皇帝となります。
曹丕も許褚を重用し万歳亭侯に任命し、武衛将軍に昇進させました。
許褚は中軍の宿営に当たる近衛兵を指揮し側近として親しまれたとあります。
許褚は曹丕の時代になっても近辺を守る親衛隊長をしていたという事なのでしょう。
曹丕も曹操と同様に許褚を愛した様に感じています。
許褚の部下達
過去に許褚は部下達と共に曹操に仕えました。
先にも述べた様に、許褚の部下達は虎士と呼ばれる曹操の親衛隊になったわけです。
曹操は許褚の部下全員が壮士だと考え、将校に任命しました。
許褚の部下出身者で将軍となり列侯となった者が数十人、都尉、校尉となった者は100人を超えたとあります。
さらに、許褚の部下達は剣術家として名を馳せ、多くの者が出世したと言えるでしょう。
許褚の出世は部下の出世でもあったのかも知れません。
許褚の最後
許褚は曹叡に時代になっても、まだ生きていた話しがあります。
曹叡は許褚を牟郷侯に封じ領有は七百戸、子の一人を関内侯としました。
許褚が亡くなると、壮侯と諡される事になります。
正史三国志によると、太和年間に曹叡は許褚の忠孝を思い出し、詔勅を発行し褒め称えたとあります。
尚、太和年間は227年から233年までであり、許褚は少なくとも西暦233年までには亡くなっていた事になります。
許褚の最後がどの様なものだったのかは記録がなく不明です。
許褚の子孫
許褚が亡くなると許儀が後継者となります。
許儀は鍾会と鄧艾の蜀漢征伐の時に、鍾会が落馬した責任と取らされて亡くなりました。
許儀は廻りの助命嘆願を受け入れられず鍾会に処刑されています。
ただし、許褚の系図が断絶したわけではなく許儀の子の許綜が後継者になっています。
尚、許褚には兄の許定がおり、振威将軍にまで出世し、行幸の道を巡視する近衛兵を指揮する役目を担いました。
許定がいつ亡くなったのかは不明です。
許褚の評価
陳寿は許褚と典韋を曹操の左右にいる樊噲の様な人物だと述べました。
実際に許褚は己の武力を以って曹操に仕えており、樊噲に近い人物だとも感じています。
曹操の危機になると許褚が登場する事を考えると劉備における趙雲、孫権における周泰にも近いと感じました。
三国志演義では許褚は史実以上の活躍を見る事が出来ます。
例を挙げれば蕭関の戦いでは孫観・呉敦・尹礼・昌豨を破り、南鄭の戦いでは楊昂、楊任を破りました。
さらに、張魯に身を寄せていた龐徳が張郃、夏侯淵、徐晃と一騎打ちをして互角の戦いをすれば、最後に許褚が戦いわざと負けて捕虜とするなど、いぶし銀の活躍も見せています。
南鄭の戦いでは張魯の弟である張衛を討ち取ったのも許褚となっています。
許褚が三国志演義で史実以上に活躍した理由は、許褚は腕力に優れており、あちこちで一騎打ちが起きる三国志演義においては、許褚は使いやすい存在だったのでしょう。
さらに言えば、民間から愛された許褚である事から、魏の五将軍である于禁や楽進以上の働きを見せる事になった様に思います。
史実の許褚を見ても主君である曹操に一途に付き従った人物だと言えるでしょう。
民間からも許褚が高い評価を得て虎痴と呼ばれたのが分かるはずです。