名前 | 馮礼(ふうれい) |
生没年 | 生年不明ー204年?? |
時代 | 後漢末期、三国志 |
主君 | 袁尚→曹操 |
年表 | 204年 鄴の戦い |
馮礼は正史三国志の袁紹伝に名前が登場する人物であり、審配の配下の大将として登場します。
204年に曹操が袁尚の本拠地である鄴に侵攻すると、審配配下の馮礼は突門を開き、曹操軍を中に引き入れました。
しかし、審配の守備は巧みであり、馮礼が招き寄せた曹操の兵は全滅する事になります。
正史三国志における馮礼の記述は、鄴の戦いでの一カ所しかありません。
それでも、馮礼が存在し鄴の戦いで審配を裏切り、曹操の兵を招き寄せた事は事実であり、歴史に名が残ったのでしょう。
曹操に寝返る
袁紹の死後に袁氏は袁譚と袁尚の二勢力に分裂し争う事になります。
後の事を考えれば、この時に馮礼は審配の配下として鄴にいたのでしょう。
袁譚は袁尚に追い詰められ危機となるや、郭図の進言もあり辛毗を派遣し、曹操を招き寄せました。
袁尚は鄴を審配と蘇由に任せていましたが、曹操の侵攻を知ると蘇由は寝返ろうとしますが、露見し戦いに敗れ曹操の元に逃亡しています。
蘇由の行動を見るに、この時の鄴の城内には不安が広がっており、審配に対する求心力も低下していたのでしょう。
こうした中で、馮礼は次の行動を取る事となります。
※正史三国志 袁紹伝より
馮礼は突門を開き太祖(曹操)の兵士三百人ほどを内部へ引き入れた。
馮礼は審配を裏切り、曹操の兵士を鄴の城内に入れた事になります。
突門というのは、ちくま学芸文庫の訳(1巻484頁)では「守備隊が奇襲のため城壁にうがった小さなくぐり門」だとあります。
これを考えると、馮礼は突門の守備隊長だったのかも知れません。
三國志演義では東門を守る馮礼が酒に酔って、夜の見回りを怠り、審配に40回のむち打ちを受けた話があります。
三國志演義では馮礼は審配を恨み、鄴城を抜け出し曹操に降伏し、曹操の兵士300人を連れて突門から坑道を掘る様に進言しました。
しかし、正史三国志を見ると馮礼が酒に酔ってむち打ち刑が行われた事や、個人的な恨みで曹操に寝返った記述はなく裏切った理由も不明です。
作戦は失敗に終わる
馮礼は曹操の三百の兵を鄴城の内部に引き入れました。
しかし、審配は城壁の上から大石を落下させ、柵門を閉じる事に成功します。
これにより、馮礼により鄴の内部に引き込まれた兵士は孤立してしまったのでしょう。
馮礼により導かれた兵は全滅したとあり、馮礼の寝返りは鄴城が陥落する決定打にはならなかったわけです。
三國志演義では馮礼が指揮する兵士は全滅し、馮礼は最後を迎えた事になっています。
ただし、正史三国志には馮礼が突門を開いた記述はあっても、馮礼が亡くなった記述は存在しません。
それでも、個人的には馮礼が三国志演義と同様に、ここで最後を迎えたのではないか?と考えています。
尚、審配は後に、東門を守っていた甥の審栄に裏切られて捕虜となっています。
馮礼が裏切っても審配は踏ん張りましたが、審栄が裏切り、曹操を内部に引き込んだ時には対処する事が出来ず、鄴は陥落しました。
審配は馮礼と審栄と二度も鄴城の門を、内部から開かれてしまった事になるでしょう。