その他 三国志 後漢

審配は袁氏の忠臣

2023年3月13日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前審配(しんぱい) 字:正南
生没年生年不明ー204年
時代後漢末期、三国志
勢力韓馥袁紹→袁尚
年表191年 治中別駕となる
204年 鄴の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

審配は正史三国志や後漢書に登場する人物であり、袁紹に仕えた事で有名です。

審配は荀彧には「独断的で計画性がない」と評していますが、孔融からは逢紀と共に「審配は忠義の臣」だと評価されています。

審配は主君である袁氏に対しては、並大抵ではない忠誠心を抱いており、204年の鄴の戦いで破れ捕らわれた時は、生き延びる事も出来たのに死を選びました。

三國志演義の著者である羅貫中も、審配の最後には心を打つものがあったのか、名場面として描いています。

審配が三国志演義での最後で「生きては袁氏に仕え、死しては袁氏の鬼となる」は至高の言葉だとも言えるでしょう。

審配の最後は陳宮の最後に比するほどの名場面だとも感じました。

ただし、曹操が鄴を攻略した時に、審配らの財産を調べたら5桁に上ったとする話もあり、蓄財はちゃんとやっていた様です。

今回は袁紹や袁尚に仕えた孤高の臣下とも言える審配を解説します。

袁紹に仕える

正史三国志の注釈・先賢行状などの記述によると、審配の字は正南であり、冀州魏郡陰安県の出身だとあります。

審配は若い頃から、烈士の心を持ち犯しがたい節操があったと記載されています。

審配の烈士としての生き様は生涯に渡って、貫かれる事になり、審配自身も忠義の臣として主君に仕えようと考えていたのでしょう。

董卓政権が誕生した時に、董卓は名士優遇策を取っており、韓馥を冀州牧としました。

審配は冀州魏郡の出身であり、そのまま韓馥に仕える事になったのでしょう。

しかし、韓馥は覇気に欠ける人物でもあり、審配や田豊の様な剛直な人物を扱う事は出来なかったわけです。

渤海太守の袁紹逢紀の策に従い荀諶張導などを派遣し、韓馥から冀州牧の位を譲渡させました。

これにより審配の上司が韓馥から袁紹に変わる事になります。

袁紹は優柔不断さを指摘される事もありますが、実際の袁紹は董卓を相手でも一歩も引かずに対立するなど、果断な決断をする人物でもあり、審配も己が仕えるべき主君を見つかったと感じたのでしょう。

審配は袁氏に生涯に渡って忠誠を尽くす事になります。

審配は袁紹の謀臣となり、治中別駕になって幕府を統括する事になりました。

袁紹も審配を気に入り高く評価したのでしょう。

尚、袁紹が冀州を韓馥から奪った時に、袁紹陣営には審配だけではなく沮授、田豊、張郃なども袁紹に配下に加わりました。

袁尚派

冀州を奪った袁紹界橋の戦いでは、麹義の活躍もあり公孫瓚を打ち破りました。

最終的に袁紹は公孫瓚を易京の戦いの戦いで滅ぼす事になります。

公孫瓚討伐において、審配がどの様な活躍を見せたのかは不明です。

ただし、審配は官渡の戦いの時に、袁紹の本拠地である鄴を守備しており、袁紹が公孫瓚を追い詰めている時には、審配は鄴の守備を任された可能性も高い様に感じます。

尚、曹操は遠征をおこなう時に夏侯惇に後方を任せる事が多く、袁紹陣営のとって夏侯惇的な役割を果たしたのが審配だったのかも知れません。

後に袁紹は長男の袁譚に青州を任せ、次男の袁譚には幽州、甥の高幹には并州を任せました。

袁紹の思惑としては、三男の袁尚に家督を継がせる為に、長男の袁譚や次男の袁煕を外に出してしまったとも考えられます。

審配は袁紹や劉氏が三男の袁尚を後継者にしたいと考えている事を察知し、袁尚派に与したのかも知れません。

正確な理由は不明ですが、審配は袁氏の後継者として三男の袁尚を推す事となります。

官渡の戦い

短期決戦を主張

袁紹が公孫瓚を滅ぼすと、曹操も既に呂布袁術を滅ぼしており緊張が高まりました。

こうした中で、沮授や田豊は袁紹に持久戦を主張する事になります。

これに対し、審配は郭図と共に次の様に述べ、短期決戦を主張しました。

「兵法の書物に書かれている戦術を見ると、敵兵の10倍なら包囲し、三倍なら攻撃を仕掛け、拮抗していれば戦いを交えるとあります。

現在の殿(袁紹)は神の如き武勇を持ち、河朔の強力な軍隊を支配し、曹操を征伐するのであり、手を裏返す程に簡単な事なのです。

今のうちに滅ぼしてしまわなければ、後になって始末するのは困難となるでしょう」

審配が郭図と共に述べた「敵兵の10倍なら包囲し、三倍なら攻撃を仕掛け~」のくだりは、孫子の兵法書の謀攻篇に書かれている言葉です。

審配は孫武の言葉に従い袁紹を説得し、有利なうちに曹操を攻め滅ぼしてしまった方がよいと考えたのでしょう。

審配らの言葉に対し、沮授は「公孫瓚と曹操では格が違う」と述べ、さらには「曹操は献帝を擁している」と語り、あくまでも長期戦を主張しました。

しかし、郭図らは周の武王が殷の紂王を征伐した事や、越王勾践や呉王夫差の例を出し、袁紹を説得しています。

袁紹は審配や郭図の言葉が正しいと考え、曹操との短期決戦を主張しました。

荀彧の予言

曹操陣営でも袁紹陣営とどの様に戦うのかで協議されていました。

この時に孔融は顔良文醜の勇猛さや田豊や許攸の智謀を警戒する言葉を発し、審配に対しては次の様に述べています。

※正史三国志 荀彧伝より

審配と逢紀は忠義の臣である。

孔融は孔子の子孫だとも言われ、時として剛直さを見せますが、審配の忠義心に対しては、高く評価していたのでしょう。

ただし、孔融に関していれば、奇人とも言える禰衡を推挙したり、詐術を行った太史慈を高く評価するなど、人物鑑定がおかしい?とする見方もあります。

しかし、荀彧は「審配は独断的で計画性が皆無」だとし、恐れるに足りないと述べています。

実際に審配を見ていると「体育会系の気質」が多々あり、忠義心と根性で物事を片付けるタイプだった様にも感じました。

さらに、荀彧は「逢紀がむこうみずで独断で動く」と評し、次の様に意見をまとめました。

※正史三国志 荀彧伝より

荀彧「袁紹は留守を審配と逢紀に任せるのだ。

もし許攸の家族が法を破ったとしても、大目に見る事は出来ないであろう。

許攸の家族の過ちを見過ごす事が出来なければ、許攸は間違いなく裏切る」

荀彧は審配や逢紀の性格を問題視し、許攸の家族を捕えると予言した事になるでしょう。

荀彧はこの時に顔良と文醜を一戦で討ち取れるとも予言しており、荀攸の策や関羽張遼の活躍もあり、顔良、文醜は討ち取られました。

官渡の戦いは膠着状態となりますが、袁紹が圧倒的に優勢だったわけです。

このタイミングで審配が法を破った許攸の家族を捕えてしまい、それを知った許攸が曹操に寝返り烏巣にある兵糧庫の情報をリークしました。

曹操は楽進と共に烏巣に進撃し、烏巣の戦いでは袁紹軍の淳于瓊が斬られ、官渡の戦いは曹操の勝利に終わります。

袁紹は兵糧を焼かれた事で軍を維持する事が出来ず、北方に退散しますが、審配が許攸の家族を捕えた事が敗北に繋がったとも言えるでしょう。

審配は剛直な性格であるがゆえに、不正を赦す事が出来なかったのでしょう。

尚、三国志演義で関羽が顔良と文醜を討ち取った事を知ると、審配や郭図劉備を処刑する様に進言した話があります。

しかし、正史三国志を見る限り、審配が劉備を処刑する様に進言した記述はなく、三国志演義の創作だと考えられます。

逢紀に助けられる

官渡の戦いで、審配は参戦はしてはいませんでしたが、親族は袁紹の軍に加わっていたわけです。

官渡の戦いで敗れた時に、審配の家族が捕らえられると、ここぞとばかりに孟岱と蔣奇が讒言しました。

さらに、郭図や辛評も讒言に加わった事で、審配は鄴の守備を任される任務を、孟岱と交代させられる事となります。

審配は剛直な性格であり、敵が多かったのでしょう。

ここで審配と仲が悪かったはずの逢紀が審配を庇った事で、審配は鄴の守備を再び任される事になりました。

これにより逢紀と審配は友好を深める事となります。

尚、逢紀が審配を庇ったのは、別の原因があるとする説があります。

審配らを讒言した郭図らは袁譚を後継者に推す派閥であり、逢紀は袁尚を推す派閥に属していました。

こうした事情から逢紀は個人的な感情では審配は嫌いだが、袁尚派としては審配と手が結べる状態だったのではないか?とも考えられています。

ただし、後に逢紀が殺害された時に、審配が袁譚に送った手紙の中で、逢紀の死を喜ぶ文言があり、仲直りした後に再び敵対したのではないか?ともされています。

後継者争い

202年に袁紹が没しました。

この時に袁紹は正式に後継者を発表していなかった事もあり、袁氏は長子の袁譚と三男の袁譚の間で後継者争いが勃発します。

後漢書などによれば、袁紹は長子の袁譚を後継者に選ぶつもりだったが、審配と逢紀が遺言を捏造し、袁尚を後継者に擁立したともあります。

ただし、これらの記述の真意は分からない部分もあり、審配や逢紀が本当に袁紹の遺言を偽造したのかは不明です。

しかし、袁譚と袁尚の間で後継者争いが勃発した事実はあり、袁譚派には郭図や辛評がおり、袁尚派には審配や逢紀、陳琳がいて争いを繰り広げる事となります。

尚、次男の袁煕は妻の甄姫が鄴におり、袁尚に預けている形にもなっている事から、袁尚を支持したのではないか?とも考えられています。

曹操は袁氏の分裂を見ると北上しますが、こうなると袁譚と袁尚は共闘し、曹操を迎え撃ちました。

しかし、郭嘉の策で曹操が兵を南に向けると、再び袁譚と袁尚は争いを始める事となります。

袁氏の分裂に関しては、審配もまずいと思っていた事でしょう。

尚、逢紀が袁譚に処刑された時に、審配は逢紀の死を喜ぶ様な事を述べていますが、審配は逢紀には恩があり親交を結んでいました。

審配の考えとしては袁尚と袁譚の後継者争いを止めたいと考えており、袁譚に気を遣った文章を送った結果として、逢紀の死を喜ぶ様な文言になってしまったのかも知れません。

因みに、審配の手紙を読んだ袁譚は涙を流した話が残っています。

荊州の劉表が袁譚と袁尚の後継者争いを仲裁しますが、結局は袁氏の後継者を巡って争い続ける事となります。

劉表の仲裁があっても、袁氏兄弟の骨肉の争いは続いたわけです。

鄴の戦い

袁氏崩壊の予兆

曹操が兵を退くと、袁譚と袁尚は再び戦いを始めています。

袁譚は不利になると郭図の策もあり、辛毗を使者として曹操を呼び寄せてしまいました。

袁尚は鄴を審配と蘇由に任せ、袁譚を討つために平原に出陣しますが、曹操が鄴に向かって攻めてきたわけです。

曹操が乗り出してきた時には、袁尚配下の呂曠と呂翔は曹操に降伏しました。

ここで、審配と共に鄴の守備を任された蘇由までもが、曹操に寝返る事になります。

審配は蘇由と市街戦を展開し、蘇由は敗れて曹操の元に逃亡しました。

しかし、鄴の戦いは蘇由の反乱だけでは終わらず、審配配下の馮礼も曹操に寝返ります。

審配は馮礼の反乱で突入してきた曹操の兵も、大石を落し城内で孤立させ全滅させました。

審配は奮戦しますが、袁氏の崩壊は始まっており、裏切る者が多く出たという事なのでしょう。

この時点で、袁氏崩壊の予兆が出ていたはずです。

こうした中で審配は奮戦する事になります。

曹操の策

曹操は鄴の城を包囲すると、周囲四十里に渡って堀を作りました。

この時に曹操は、わざと浅く堀を掘らせています。

曹操が浅い堀を掘っている所をみた審配は、嘲笑い曹操の工作を妨害しようとしなかったわけです。

しかし、曹操は審配の油断を誘うと、一晩で堀の作成作業を進めさせ、深い堀を掘らせ漳水を決壊させ、水を注がせました。

曹操は鄴を水攻めし、鄴の城内では餓死者が続出したとあります。

この時には既に毛城も陥落し、鄴への補給も途絶えていたと伝わっています。

審配は油断により、窮地に追い込まれたというべきでしょう。

審配が籠る鄴は窮地に陥りますが、審配の心が折れる事はありませんでした。

袁尚の救援

袁尚の方でも少数の鄴城が曹操に攻め込まれた事を知ると、袁譚との戦いを打ち切り鄴に救援の赴きました。

この時に、袁尚の使者として鄴城に訪れたのが、李孚です。

李孚は機転を利かせ曹操の包囲を突破し、鄴城の中までやってきて、審配と連絡を取り袁尚の元に帰還しました。

李孚の活躍もあり、審配と袁尚は共に連絡を取り、連結し曹操を破ろうと考えたのでしょう。

しかし、袁尚配下の馬延張顗が、曹操に降伏してしまうなど、袁尚の軍は総崩れとなり大敗を喫しました。

袁尚は陳琳や陰夔に降伏の使者として、曹操の元に派遣しますが、拒否され中山に逃亡する事になります。

これにより審配は鄴城に孤立してしまい、この時点で勝敗は既に見えたとも言えるでしょう。

鄴城の陥落

曹操は後詰に来た袁尚を破ると、物資や食料を悉く奪い、袁尚の鉞や印綬、衣服、器物などを鄴の城内に示しました。

正史三国志の記述によれば、これにより鄴の城内は壊滅状態に陥ったとあります。

審配自身は袁尚が敗れても戦い続ける覚悟だった様ですが、審配の兄の子である審栄が曹操に寝返りました。

この時に審配は審栄が寝返ったとは思わず、この様子を鄴城の東南の隅の望桜で見ていたとあります。

曹操の兵が城に雪崩れ込む所を見た審配は、郭図と辛毗が冀州を破滅に追い込んだと考え激怒しました。

辛毗の兄の辛評の家族が鄴に捕らわれており、審配は監獄にいる辛評の家族の殺害を指示しています。

曹操の兵が城内に入った時点で、審配は死を覚悟した事でしょう。

しかし、審配は降伏する事はなく、兵を率いて市街戦を展開しました。

審配は奮戦しますが、軍は既に壊滅状態であり、曹操に適うはずもなく敗れ去りました。

ここにおいて、審配は捕虜となります。

衰えぬ覇気

審配は捕らえられ、曹操の前に引き出される事となります。

この時に、辛毗に会い辛評の家族が審配により殺害された事を知っており、審配の頭を鞭で打ち罵りました。

これに対し、審配は次の様に言い返しました。

※先賢行状より

審配「犬め。お前たちのせいで冀州は敗れ去ったのだ。

きさまの命を奪う事が出来なくて残念だ。

お前に今の私を殺したり生かしたりできるものか」

審配の言葉からは怒りが混ざっており、捕らえられても審配の覇気が衰えていなかった事が分かります。

正史三国志にも、次の様に記録されています。

※正史三国志袁紹伝(ちくま学芸文庫485頁)

審配の声音と気迫は壮烈であり、この有様を見た者で感嘆の吐息を漏らさぬ者はなかった。

審配の様子は多くの者の心を打った事が分かります。

審配の最後

正史三国志

正史三国志の審配の最後ですが「斬刑に処した」の一言で終わってしまいます。

しかし、正史三国志の注釈・先賢行状には審配の最後が詳しく書かれています。

曹操が審配に引見すると、審配を裏切ったのは審栄だと告げました。

審配は審栄が裏切ったと知ると、審栄に対し罵りの言葉を口にします。

曹操は審配の忠義心などを高く評価しており、配下に加えたいと考えていました。

配下に加えるにあたって、辛毗と審配の仲を取り持つ必要があると思ったのかも知れません。

ここで曹操は戦った時に「大量の矢を射かけたのは何故か」と問うと、審配は「あれでも少ない方だ」と答えました。

曹操は審配の忠義心を認めており「袁氏親子に忠実だったため」とし、自分は気にしてはいないと匂わせる発言をしています。

曹操としては、あくまでも審配を配下に加えたいと考えていたわけです。

しかし、審配の覇気は衰えず曹操は説得の手段を失い、辛毗が涙を流し、曹操に審配の処刑を求めました。

これにより曹操も審配を処刑しない訳にはいかなくなり、審配の処刑が決定しています。

尚、死を覚悟した審配に対し張子謙が嘲笑うかの様な発言をしますが、審配は張子謙を叱りつけました。

審配が処刑される時になると、袁尚がいる北を向き刀を持っている者を怒鳴りつけ「我が君は北にいる」と述べています。

これが審配の最後であり、西暦204年にこの世を去りました。

審配は烈士であり、多くの人々の心に残る事になります。

三國志演義

三国志演義だと審配は鄴が陥落すると徐晃により捕らわれた事になっています。

しかし、正史三国志を見ると審配は捕虜となった事だけが書かれており、徐晃に捕らえられたとは書かれていません。

三国志演義も正史と同様に辛毗が涙を流し、審配の処刑を要求し、曹操が審配を配下に加えようと考えいた流れは同じです。

ここで審配が「生きては袁氏の臣下となり、生きては袁氏の鬼となる」と述べ、曹操に処刑を促しました。

曹操は審配の処刑を決めますが、審配は斬られる時になると太刀取りを怒鳴りつけ、次の様に述べています。

※三国志演義より

我が主君は北にいる。

南向きで死ぬことは出来ぬ。

審配は言い終わるや北を向き、跪き首を差し出し、最後を迎えました。

三国志演義では後世の人が審配を讃えた歌として、次の記述が足されています。

※完訳三国志 岩波文庫(3巻73頁~74頁)

河北に名士 多けれども、誰が審正南に如かんや。

命は昏なる主によりて喪えども、心は古人と参わる。

忠直にして言は隠すところなく、廉能にして志は貪らず。

亡に臨んでもなお北面し、降りしものをして尽く羞慚しむ。

三国志演義でも審配の最後は名場面だったと言えるでしょう。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細