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郭図は出ると負け軍師なのか

2023年2月18日

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宮下悠史

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名前郭図(かくと) 字:公則
生没年生年不明ー205年
時代三国志、後漢末期
勢力袁紹→袁譚
年表200年 官渡の戦い
205年 南皮の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

郭図は豫州潁川郡の出身であり、正史三国志や後漢書に名前が登場する人物です。

郭図は策が裏目に出る事が多く「出ると負け軍師」の異名も取っています。

袁紹配下の中では沮授田豊が優良な軍師とされており、それとは対照的に郭図や逢紀などは破滅型の軍師とされる事が多いです。

郭図は献帝を迎え入れるなどを袁紹に進言した話もありますが、策はかなり裏目に出ており失態が多かったと言えます。

官渡の戦いでは郭図の曹操本陣への攻撃策が失敗に終わり、さらには責任を張郃に擦り付けるなどの記録もあります。

さらには、袁譚と袁尚が争った時に、曹操を呼び寄せた事で、袁家は滅亡に向かう事となります。

それを考えれば郭図が「出ると負け軍師」と呼ばれてしまうのも分かるような気がします。

今回は袁紹の幕僚の一人である郭図を解説します。

因みに、KOEIの初代三國志では郭図の武力が90もあり、顔良よりも高いという設定になっています。

それに対し、猛将のはずの龐徳の能力値が知力87で武力44しかなく、製作者側で郭図と龐徳の能力が入れ変わってしまったのではないか?とも考えられています。

出ると負け軍師の出所

郭図の「出ると負け軍師」の出所は、KOEIから出された「爆笑三國志」の書籍となるでしょう。

爆笑三國志の書籍内のランキングで「墓穴を掘った男」というのがあり、郭図が1位となっていました。

墓穴を掘った男でランキング1位というのは、不名誉な事でしょう。

さらには、挿絵の中にも「出ると負け軍師」の言葉が、入っているのが分かるはずです。

因みに、三国志で墓穴を掘った人物として、郭図以外にも鍾会、張飛、彭羕、劉琰らがランクインされている状態です。

袁紹に仕える

郭図は潁川郡の太守である陰脩に推挙されたとあります。

陰脩に推挙された人物として荀彧、荀攸、鍾繇、張礼、杜祐らがいます。

荀彧、荀攸、鍾繇などは曹操の覇道を支えた名臣であり、彼らと共に郭図も推挙されたわけです。

この時は潁川郡の名士の黄金期でもあり、朝廷は輝いたとあります。

郭図が仕える事になる袁紹は、董卓と問題を起こし冀州に出奔しました。

郭図は袁紹に仕えますが、どの時点で仕えたのかは不明です。

尚、潁川出身の名士の中では郭図や辛評を始め多くの者が袁紹に仕え、荀彧や郭嘉など曹操に仕える人物は少数だった話があります。

因みに、郭嘉が袁紹に見切りをつけて曹操の元に行く時に、郭図との話が残っており、郭嘉と郭図は同族だったのではないか?とも考えられています。

韓馥を降伏させる

袁紹は逢紀の策を採用し、公孫瓚を南下させ冀州の韓馥から冀州牧の位を譲り受ける事になります。

この時に袁紹から韓馥の使者になった人物の中に、郭図の名も見えます。

記録によっては荀諶と高幹の名しか見えませんが、郭図も張導などと共に韓馥の説得に向かった様です。

郭図らは韓馥を降伏させる事に成功し、袁紹が冀州牧に位に就く事になります。

尚、韓馥から袁紹に冀州牧が変わった事で、韓馥配下の沮授、田豊、張郃などが袁紹の配下に移りました。

献帝を迎えれる

献帝伝の記述

李傕郭汜が長安で市街戦を繰り広げ、献帝が長安を去り曹陽にいるという噂を袁紹陣営で掴みました。

この時に、沮授や田豊が献帝を迎え入れる様に袁紹に進言しています。

正史三国志の注釈・献帝伝では、献帝を迎える様に進言した沮授に対し、淳于瓊と郭図が反対した話があります。

郭図や淳于瓊が反対した言葉に関しては、淳于瓊の記事の方で書いたので割愛します。

正史三国志によれば郭図や淳于瓊の言葉に従い、袁紹は献帝を迎え入れるのを取りやめました。

献帝伝の記述を見る限りでは、郭図は献帝を袁紹の本拠地である鄴に迎え入れるのに反対した記録があるわけです。

正史三国志の記述

正史三国志の本文だと、袁紹は献帝が河東にいる事を知った後に、次の記述が存在します。

※正史三国志 袁紹伝より

袁紹は潁川の郭図を使者として派遣した。

郭図は帰還すると、天子を迎えて鄴に都を置くように進言した。

上記の記述を見ると分かる様に、正史三国志の本文では郭図は、献帝を迎え入れる事に賛成だったわけです。

しかし、正史三国志でも同様に袁紹は献帝を迎え入れる事はしませんでした。

過去に袁紹は董卓が少帝を廃位し、陳留王(献帝)を即位させるのに反対し、出奔した経緯があります。

さらには、韓馥や張超と共に臧洪を派遣し、劉虞を皇帝に擁立しようとした過去があります。

こうした事もあり、郭図が献帝の様子を見に行き、戻って来ても袁紹は献帝を迎え入れるのには、拒否反応を起こしていたのでしょう。

尚、正史三国志と献帝伝で郭図の記述が正反対になっていますが、どちらが正しいのかは不明です。

短期決戦を主張

西暦200年になると袁紹は、既に公孫瓚を滅ぼし天下第一の勢力となっていました。

曹操呂布袁術を滅ぼし、天子を抱えて勢力を張っていたわけです。

袁紹は曹操を討伐しようとしますが、沮授や田豊は「持久戦で曹操と戦うべき」だと主張しました。

これに対し、郭図や審配は孫子の兵法を例に出し、短期決戦が有効だと述べる事になります。

ここで沮授が再び持久戦を主張しますが、郭図は周の武王や殷の紂王を例に出し次の様に述べています。

※献帝伝より

郭図「周の武王が主君である殷の紂王を征伐した事すら、道義に外れると申す者はおりません。

ましてや、曹操に攻撃を加えるのに大義名分がないなどと、言えるのでしょうか。

現状を見るに殿(袁紹)の軍は、勇ましく臣下は強力であり、将兵は怒りをたぎらせ、やる気に満ち溢れております。

好機が来ているのに、速やかに事を行えないのは、あれこれと思考するが故の失敗です。

天が与えてくれたのに受け取らないのは、返って咎めを受ける事になります。

これこそが越王勾践が覇者となり、呉王夫差が滅亡した原因でもあります。

監軍(沮授)の計略は、絶対の安全を維持する事を優先しており、時勢を見ての対応ではありません」

袁紹は郭図や審配の進言を聞き入れ、南下し曹操と短期決戦を行う事となります。

尚、郭図の話に出て来た越王勾践と呉王夫差は、共に春秋五覇の一人に数えられる事があります。

しかし、呉王夫差は父親の仇である、越王勾践を降伏させた時に、殺害しなかった事で、あとで逆襲され命を落しました。

郭図は滅ぼせるうちにサッサと曹操を滅ぼさないと、後で形勢が逆転し敗れると警告した事にもなるでしょう。

三都督

公孫瓚を滅ぼした辺りから、袁紹は沮授の進言を用いなくなっていました。

郭図は沮授が、遠ざけられている事を知ってか、次の様に袁紹に進言しています。

※献帝伝より

郭図「沮授は政治と軍事を監督しており、その権威は全軍で知らぬ者はおりません。

このまま沮授が力を付けて行けば、どうやって沮授を制御するつもりなのでしょうか。

そもそも臣下と主君の権限が同等でない国は興隆し、臣下と主君の権限が同等である場合は滅びます。

これこそが、黄石公が戒める事なのです。

さらに言えば、外部で軍隊を統率する者を、内政に関与させるべきではないでしょう」

郭図は沮授の権限が大きすぎると、袁紹に述べた事になります。

尚、郭図の口から出た黄石公というのは、劉邦の軍師である張良に兵法書を与えた謎の人物です。

袁紹は郭図の言葉を聞くと、沮授の権限を三分割し、沮授、郭図、淳于瓊の三都督制としました。

讒言の様な形ではありますが、郭図は袁紹軍の軍部の最高司令官の一人になったと言えそうです。

因みに、公孫瓚を倒した後に袁紹は冀州派の力が強すぎると考え、潁川派と拮抗させようと考えて、冀州出身の沮授の権限を郭図や淳于瓊に分け与えたともされています。

それでも、官渡の戦いの前に、郭図は袁紹軍の三都督の一人になるなど、出世したと言えるでしょう。

白馬の戦い

官渡の戦いの前哨戦として、白馬の戦いがありました。

袁紹は顔良、淳于瓊、郭図の三将軍に兵を引き入らせ、曹操の東郡太守である劉延を攻撃させています。

白馬の戦いで郭図がどの様な動きを見せたかの詳細は不明ですが、結果として白馬の戦いで、袁紹軍の猛将である顔良が関羽に討ち取られてしまいました。

顔良は袁紹配下でも勇武の将として名が通っており動揺しますが、袁紹は黎陽から黄河を渡り衛塁を築いています。

沮授はこの時に袁紹の負けを悟り、病気を理由に黄河を渡ろうとしなかったわけです。

袁紹は沮授の行動に怒り、沮授の兵を没収し郭図に与えました。

沮授が勝手に失脚した事で、郭図が袁紹軍で最も立場が重い将軍となった事でしょう。

郭図の策

延津の戦いでも袁紹軍は文醜を失いましたが、全体的にみれば優勢であり官渡まで、曹操軍を追いこみました。

官渡の戦いで袁紹は曹操をあと一歩の所まで、追い詰めますが、許攸の家族が後方を任せていた審配に捕らえられるなどもあり、許攸が曹操軍に投降しています。

許攸は袁紹の兵糧庫が烏巣にある事を、曹操に暴露しました。

これにより、曹操が淳于瓊が守る烏巣を急襲しています。

烏巣の兵糧庫が襲撃された事を知ると、張郃は「急いで淳于瓊を救援すべき」とする意見を出します。

これに対し郭図は「曹操の本陣を攻撃すれば、曹操は本陣に戻る」と反対の意見を出しました。

郭図の策は戦国時代に、孫臏が行った囲魏救趙の策を彷彿させるものがあります。

ここで袁紹は曹操の本陣を攻撃させ、さらに烏巣にも救援を送るという中途半端な策を実行しました。

しかも、曹操軍の本陣を攻撃させたのは、烏巣の救援を主張した張郃であり、最悪の人事だと言ってもよいでしょう。

張郃は曹操の本陣を落してしまえば、自らの意見が間違っていた事を、自らが証明する事になってしまいます。

張郃は曹洪が守る曹操の本営を、落す事は出来ませんでした。

さらに、烏巣の戦いでは淳于瓊が斬られてしまい袁紹の敗北と曹操の勝利が決まったわけです。

結果を見れば、曹操の本陣を攻撃しても、曹操は本陣に引き返さず、郭図の策は失敗に終わったと見るべきでしょう。

この辺りは「出ると負け軍師」の異名を持つ理由だとも言えます。

張郃を讒言

郭図は自らの策が失敗に終わり面目を失いました。

ここで、郭図は次の様に、袁紹に述べて張郃を讒言しました。

※正史三国志 張郃伝より

張郃は我が軍の敗北を喜び、不遜な言葉を述べております。

正史三国志によると郭図の讒言が張郃の耳に入った事で、張郃は曹操に降伏したとあります。

これを見る限りだと郭図は責任を張郃に押し付けようとしたわけであり、最低の行為だとも言えるでしょう。

ただし、裴松之は武帝紀や袁紹伝の、淳于瓊が敗れた事を知り張郃と高覧が降伏したとする記述に注目しています。

張郃は郭図の讒言を恐れて、曹操に降伏した事になっており、郭図の讒言が本当にあったのかは分からない部分もあります。

それでも、袁紹の軍が敗れ張郃が曹操に降伏したのは、間違いないです。

因みに、官渡の戦いでは審配の二人の息子が曹操の捕虜となり、孟岱が蔣奇を使い審配を讒言し、鄴を守備する任務を下ろさせようとしました。

孟岱や蔣奇に郭図や辛評も加わり審配を讒言した話があります。

しかし、逢紀が審配を庇った事で、袁紹は審配を罰する事はありませんでした。

この後に逢紀と審配は親密な関係になった話もありますが、逆を言えば郭図や辛評とは、さらに険悪な仲となった事でしょう。

こうした事例からも、袁紹軍のまとまりの悪さが目立ちます。

後継者争い

202年に袁紹が病死しました。

ここで、袁紹配下の郭図や辛評は長男の袁譚を推し、審配や逢紀は三男の袁尚を推しています。

郭図、辛評、審配、逢紀らは政敵でもあり、誰が後継者になるのかで、今後が大きく左右される事になります。

こうした中で、審配や逢紀が袁紹の遺言を捏造したのか、袁尚が後継者となります。

しかし、袁譚は納得せず後継者争いが勃発しました。

これを好機と見た曹操は北上し、袁譚と袁尚は連合して戦いますが、曹操に大敗しています。

ここで曹操配下の多くの者が、さらに攻撃を加える様に進言しますが、郭嘉は袁家は謀臣として郭図と逢紀がいるから、劉表を攻撃する構えを見せれば、袁譚と袁尚は勝手に争うと進言しました。

曹操は袁氏討伐を中止して南下を始めますが、ここで袁譚は袁尚に物資と兵の補給を要求し、曹操を追撃しようとします。

袁尚は袁譚が強大になられても困るわけであり、補給を断わりました。

袁譚は激怒しますが、ここで郭図と辛評は、次の様に述べています。

郭図、辛評「袁紹様が袁譚様を外に出し、弟(袁尚)を内に置いたのは審配の策です」

郭図と辛評の言葉に袁譚は激怒し、袁尚との徹底抗戦に走る事になります。

郭図や辛評は袁譚を煽って戦いに駒を進めますが、袁譚の軍は戦いに敗れ南皮に撤退しました。

郭図と辛評の策ではありますが、ここでもやはり郭図の策は失敗し「出ると負け軍師」だったとしか言いようがないでしょう。

破滅に導く策

袁譚は袁尚に攻められ窮地に陥りますが、ここで郭図は次の様に進言しました。

※英雄記より

郭図「現状を見ると、将軍(袁譚)は領地も兵士も少なく、兵糧も底をつきかけておられます。

袁尚が攻めて来て戦いが長引けば、持ちこたえる事は出来ないでしょう。

私が愚考するに、曹操と手を結び袁尚を攻撃させるべきです。

曹操は北上すれば袁尚の本拠地である鄴を攻撃します。

袁尚が鄴の救援に行けば、我等は西を攻撃し、鄴よりも北は全て制圧する事が出来ます。

袁尚が曹操に敗北すれば、兵士は逃亡しますから、我等はその兵を糾合すれば、曹操に対抗できるはずです。

曹操は遠方の地からやってきているのであり、兵糧は長くは続かず撤退するしかなくなります。

そうなれば趙国の北は、全て我が国の所領となり、曹操と戦う事も出来ます」

郭図は仇敵の曹操と手を組み、袁尚と戦う様に進言しました。

尚、郭図は曹操が鄴を攻撃すれば、袁尚は兵を退くと考えており、ここでも囲魏救趙の策を使っているとも言えます。

袁譚は外敵である曹操を呼び寄せる危険性を考慮し、最初は郭図の意見に反対しましたが、結局は郭図の策を採用し曹操と手を結びました。

結果を見れば、この郭図の策が汝南袁氏の滅亡を招いたと言えるのでしょう。

この時に、曹操への使者となったのが辛評の弟である辛毗です。

劉表と審配の手紙

荊州を治める劉表は袁譚と袁尚が争っている事を知ると、二人を和解させるべく手紙を出しています。

劉表は袁譚への手紙の中で元凶である郭図と辛評を斬り、袁尚と和解する様に説きます。

さらには、袁尚の腹心でもある審配も、郭図を排除した方がよいとする手紙を袁譚に送りました。

審配の手紙を見ると、袁譚は涙を流した話があります。

しかし、袁譚は郭図を排除する事が出来ませんでした。

因みに、王脩も「佞臣を斬って袁尚と和解するべき」と袁譚に説いており、佞臣の中に郭図が含まれるのでしょう。

袁譚は共に戦ってきた郭図を斬る事が出来ず、郭図の権力も強かった事から、劉表、審配、王脩の進言を聞き入れなかったわけです。

郭図の最後

袁尚と曹操が戦っている間に、袁譚は袁尚の領土を組み込んでいく事になります。

曹操は袁譚に「盟約違反」だと言われ、攻撃を受ける事になります。

これにより南皮の戦いが勃発しました。

南皮の戦いでは、袁譚は郭図と共に兵を集め、一時は曹操を追い返す程の勢いを見せます。

しかし、結局は袁譚は破れ郭図も斬られました。

郭図は205年に最後を迎えた事になります。

最後の言葉などは分かっていません。

三国志演義だと郭図は楽進に射殺された事になっていますが、正史三国志を見る限りでは楽進に討ち取られた記述は存在しません。

尚、郭図や袁譚が争った袁尚は袁煕と共に烏桓に逃げますが、こちらは207年に最後を迎えました。

郭図の評価

郭図ですが、正史三国志の記録を見ると献帝を迎え入れる様に進言した事例はあっても「出ると負け軍師」の異名を取っている理由が分かる様な気がします。

因みに、三国志演義では顔良が関羽に斬られた時は、劉備を処刑するべきと進言したり、劉備が去った時は「虎を野に放ったようなもの」とする意見を出しています。

しかし、これらの発言は正史三国志には記述がなく、やはり出ると負け軍師の印象が強いと言えます。

郭図の場合は正史三国志の記述が正しければ、政敵に対する讒言もかなり酷かったと言えるでしょう。

郭図の策の失敗はある意味、袁氏を傾けたと言えそうです。

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