張顗は正史三国志に登場する人物であり、袁尚配下の武将です。
袁紹の死後に袁譚と袁尚の間で、後継者争いが起きています。
袁氏の後継者争いに曹操が介入するわけですが、袁尚と曹操の戦いの前に馬延と共に曹操に降伏したのが張顗です。
正史三国志だと張顗は馬延と共に曹操に降伏した記述しかありませんが、袁紹伝に登場する張子謙と張顗は同一人物ではないか?とする説があります。
その説を採用するのであれば、張顗の字は子謙という事になるのでしょう。
今回は張顗だけではなく、同一人物ともされる張子謙も解説する様にしました。
尚、三国志演義だと張顗は曹操の配下になってから長坂の戦いでは趙雲に逃げられたり、赤壁の戦いの後で甘寧に討ち取られる設定となっています。
しかし、正史三国志を見る限りでは、張顗は馬延と共に曹操に降伏した記述しかなく、趙雲や甘寧との逸話は三国志演義の創作だと考えた方がよいでしょう。
曹操に降伏
袁譚と袁尚は後継者争いを繰り広げますが、袁譚が危機に陥ると郭図の策もあり、袁譚は曹操に降伏しました。
袁尚は本拠地の鄴を審配と蘇由に任せ、自らは袁譚を追い詰める為に、平原に向かう事になります。
この時の袁尚軍の中に張顗がいました。
曹操は袁譚を助ける名目で北上しますが、袁尚の軍は既に内部から崩壊に向かっており、鄴を任せた蘇由が裏切り、馮礼も曹操に内応するなど散々な状態でした。
袁尚も本拠地の鄴の危機を察知し、李孚を審配の元に派遣し、協力して曹操と戦おうとしたわけです。
この時に袁尚の軍の中にいた張顗は、袁尚の敗北を予見していた様に思います。
曹操は鄴の救援にやってきた袁尚の軍を破ると、袁尚は戦意を喪失し陳琳や陰夔を降伏の使者としますが、曹操は許さず包囲をさらに厳しくしました。
曹操に為すすべなく敗れる袁尚を見て、張顗の忠誠心は失われていたと考えるべきでしょう。
袁尚は夜陰に紛れて遁走し、追撃してきた曹操の軍と祁山で対峙しました。
袁尚軍の中に張顗もいたわけですが、次の記述が存在します。
※正史三国志 武帝紀より
その将の馬延と張顗らは戦いの前に降伏してしまい、軍勢は総崩れとなった。
袁尚は曹操を祁山で迎撃しようとしますが、馬延と張顗がいきなり寝返った事で、戦いに敗れてしまった事になります。
袁尚の敗北は張顗と馬延により決まったとも言えるでしょう。
袁尚は袁煕を頼り北方に移動する事になります。
史書だと、この記述を最後に張顗に行方が分からなくなっており、どの様な最後を迎えたのかも不明です。
張子謙と張顗の同一人物説
正史三国志の袁紹伝に張子謙という名が見えますが、張子謙と張顗が同一人物ではないか?とする説があります。
鄴の戦いでは、審栄の裏切りがあり、審配は捕虜となりますが、袁紹伝に次の記述が存在します。
※正史三国志袁紹伝注釈・先行賢状より
冀州の人間である張子謙は先だって降伏していた。
上記の記述から審配が捕虜になる前に、張子謙は曹操に降伏していた事が分かります。
張顗は実際に馬延と共に、審配よりも先に曹操に降伏しており、実績が重なる事から張顗と張子謙が同一人物だとされるわけです。
張子謙に関して述べておくと、捕虜となった審配に対し、次の様に述べています。
張子謙「正南(審配の字)よ。あなたと私は結局のところ、どの様に違うのですかな」
張子謙は審配と不仲だったとあり、捕虜となった審配に侮蔑の気持ちを込めて言ったのでしょう。
張子謙は忠義を尽くした審配に対し、いち早く曹操に降伏した自分の方が賢いと言いたかったのかも知れません。
しかし、張子謙の言葉に黙っている審配ではなく。次の様に言い放ちました。
審配「お前は降人、審配は忠臣だ。
私が死んだとしても、お前が生きているのとでは意味が違うのだ」
審配は主君を裏切り、降伏した張子謙の様な人間には、なりたくはないと思い述べた言葉なのでしょう。
審配は処刑され張子謙は生き延びた事から、張子謙は審配に対し「勝った」と思ったのかも知れません。
しかし、後世の人々の心を掴んだのは間違いなく、審配であり、それを考えると、張子謙は生き延びたが審配に敗れた部分はある様に感じています。
審配の死は多くの人々に評価され、三国志演義でも名場面として描かれました。
曹操は審配を配下に加えようと考えており、曹操にとっても必要だと考えたのは張子謙ではなく審配だった事でしょう。
張子謙と張顗が同一人物なのか?に対しては、分からない部分も多々ありますが、同一人物だとしたら張顗は少し嫌味な部分がある様に感じました。