王度は正史三国志に名前が登場する人物であり、東阿の県丞をしていた話があります。
しかし、多くの民衆が逃げてしまい城を守る事が出来なかったのか、城から離れた場所に駐屯する事になります。
程昱や薛房が県令を説得し、城を奪取すると王度は再び城を攻めますが敗れ去りました。
王度は正史三国志では、黄巾党に加わった事位しか記述がありませんが、実在した人物ではあるのでしょう。
ただし、王度の乱は失敗しており、手際も悪く見切り発車で乱を起こしてしまったのかの様にも感じました。
今回は正史三国志の程昱伝に登場する王度を解説します。
黄巾賊に内応
黄巾の乱が起きた時に、県丞の王度は朝廷に背き倉庫を焼き払ったと正史三国志に記録されています。
黄巾党の馬元義が洛陽に都に行き役人から宦官など、内通者を集っていた話があり、黄巾賊の呼びかけに応じて王度も内通したと言った所でしょう。
王度にしてみれば、後漢末期は寒冷化により世が乱れており、秦末期に胡亥や趙高に反旗を翻した状態に近いと感じたのかも知れません。
王度が乱を起こすと、不意を衝かれたのか県令は城壁を乗り越えて逃亡し、官吏や県民たちは老人や幼児を背負い東方の渠丘山に移動しました。
程昱伝の記述によると、王度は乱を起こし城を奪いましたが、東阿の城を守れるだけの兵も無かったのか、奪ったはずの城を放棄し城から五、六百里離れた場所に駐屯していました。
王度の手際の悪さを見ると、張角に呼応したはいいが計画性はなかったと言えるのかも知れません。
この時に程昱は王度の様子を探らせ、城を放棄している事を知りました。
敗れて敗走
程昱は豪族の薛房に協力を求め、住民を強制的に城に戻しました。
県令も城に戻った事を王度が知ると、再び東阿の城に攻撃を仕掛けて来たわけです。
しかし、城内には程昱がおり、堅固に守った事から、王度は落とす事が出来ず、撤退しようとしました。
この時を待っていたかの様に、程昱は城門を開け兵士を率いて、王度の軍に攻撃を仕掛けたわけです。
王度は退却する最中に攻撃を受けたのか敗走しました。
王度が敗れた事で東阿は平穏を取り戻したわけです。
王度に関しては「敗走した」とは書かれていますが、命を落したとは書かれておらず、生き延びた可能性もあると考える事が出来ます。
しかし、王度が登場するのは、ここだけであり、この後にどうなったのかは不明です。
王度がどの様な最後を迎えたのかは不明としか言いようがありません。