黄巾の乱は世界史の教科書でも出る様な事件であり、三国志演義では劉備、関羽、張飛が桃園の誓いを結び義勇軍として参加するなど三国志の始まりとしても意味合いが強いです。
実際に三国志の始まりはいつか?と聞けば「黄巾の乱」という人も多い様に感じました。
黄巾の乱が起きた184年は後漢王朝は霊帝の時代であり、社会的に行き詰まった時代だったわけです。
こうした中で太平道の張角が民衆を率いて乱を起こした事で黄巾の乱が勃発しました。
乱の討伐の為に皇甫嵩、朱儁、盧植らが将軍となりますが、皇甫嵩の下には曹操、朱儁の下には孫堅、盧植は劉備の師匠でもあります。
それを考えれば、黄巾の乱が三国志の始まりだったと言うのも、間違ってはいないでしょう。
三国志の英雄たちの登場が黄巾の乱だったとも言えます。
今回は史実の黄巾の乱をベースとし分かりやすく解説します。
尚、正史三国志を見ると黄巾の乱の主役はあくまで皇甫嵩、朱儁、盧植の三将であり、黄巾の乱三傑と言っても過言ではないはずです。
時代背景
黄巾の乱は宗教指導者である張角が引き起こした反乱ですが、当時の社会情勢が大きく関わっています。
後漢の桓帝や霊帝の時代は地球規模の寒冷化があった事が分かっています。
欧州でもゲルマン民族の大移動が起きるなど、世界中の秩序が乱れ混乱の時代に突入していました。
東のアジアでも遊牧生活を行っていた羌族が、家畜の食料を求めて、後漢王朝へ侵入を始めていた時期でもあります。
後漢王朝は羌族を追い払ったりする為に、軍隊を送り込み財政は悪化の一途を辿ったわけです。
後漢の桓帝や霊帝の時代は、日本列島でも寒冷化により、倭国大乱なる内戦状態に突入し邪馬台国の卑弥呼を擁立した事で国が治まったともされています。
社会不安が深刻化されるなかで、168年に霊帝が僅か12歳で即位し宦官が権力を掌握する時代に突入しました。
霊帝は張譲や趙忠ら十常侍と呼ばれる宦官を重用しています。
成長した霊帝も国を復興させる為に、売官を行おうとした話もありますが、寒冷化で慢性的な食糧不足もあり、社会混乱は中々収まらなかったわけです。
こうした中で奇跡の人である張角が現れ、これが黄巾の乱に繋がっていく事になります。
張角の登場
黄巾の乱の主役?とも言える張角ですが、前半生は何をしていたのかはよく分かってはいません。
張角には様々な説があり役人になれなかったインテリだったとか、反宦官派で党錮の禁で弾圧された清流派だったとも言われています。
しかし、張角はいつしか太平道なる宗教団体を起こし人々に奇跡を見せる事で求心力を得ました。
張角は病人の治療を行い治れば太平道への信仰心が強く、治癒が出来ない場合は信仰心が薄いからだと説いた話もあります。
後漢王朝の腐敗や飢饉を人々は見て、太平道は爆発的に信者を増やす事になったわけです。
太平道が信者が増えた事で黄巾の乱に繋がっていく事になります。
張角の凄い所は信者を増やすだけではなく、組織化に成功した事でしょう。
張角は弟の張梁、張宝を最高幹部とし組織を形成しました。
組織化された太平道が暴走し黄巾の乱に発展していく事になります。
後漢王朝の転覆を画策
信者が爆発的に増えた頃には、張角は後漢王朝の転覆を企てる様になります。
人が集まれば様々な思惑を持つ者がおり、張角をそそのかして後漢王朝の転覆に向かわせた可能性もあります。
張角も信者が集まり多くの求心力を得た事で、天狗になっていた部分もあったのでしょう。
しかし、後漢王朝の内部にも張角を危険視する者がおり、劉陶は霊帝に張角の危険性を上書しました。
劉陶は張角の首に懸賞金を掛けるべきだと説きますが、霊帝は却下しています。
後漢王朝では張角を放置していましたが、張角の方では張梁や張宝、馬元義らと共に着実に準備を進めており、信者の間で下記の言葉を流行らせました。
蒼天は既に死に、黄天が立つことになる。
歳は甲子にあり、天下が大吉になる
劉陶が霊帝を諫めたのは183年だとも言われており、張角の野望は頂点に達する事になります。
黄巾の乱が勃発
張角は配下の馬元義に命じ、後漢王朝の首都である洛陽に行かせ内通者を募らせました。
張角は後漢王朝の内部から崩壊させ、乱を成功させようとしたわけです。
馬元義の要請に対し、霊帝が親任していた宦官である張譲や趙忠まで内応を約束した話があります。
張角の計画は全て上手くいっている様に見えました。
しかし、太平道の内部にも乱を危ぶむ者がおり、張角の弟子の一人である唐周が、張角の企てを後漢王朝に密告する事になります。
唐周の言葉により霊帝も動き出し、3月5日に太平道が一斉に蜂起する予定だという事を知りました。
霊帝は洛陽で取り調べを行い太平道の調査を始めると、禁中の直衛から民衆まで、1000余人を誅殺しています。
洛陽で暗躍していた馬元義も処刑され、霊帝は張角が危険人物だと確信しました。
霊帝の動きに焦ったのが張角であり、反乱を起こす事がバレた事を悟ると予定を繰り上げて乱を起こしたわけです。
これが黄巾の乱の始まりとなります。
黄色の布
黄巾の乱が勃発しましたが、黄巾賊は黄色い布を頭に巻いた事で黄巾の乱と呼ばれたわけです。
黄巾賊は黄色い布を頭に巻き後漢王朝の転覆を目指しました。
人々が黄色い布を頭に巻いたのは、自分達が仲間だとし団結力を強める狙いもあったのでしょう。
中国では紅巾の乱、赤眉の乱もありましたが、同様の効果を狙ったはずです。
諸説はありますが36万の黄巾賊が蜂起したとも言われています。
さらに、黄巾賊とは無関係の山賊なども好機と考え呼応しました。
後漢王朝では黄巾賊に対する備えが十分に出来ておらず、各地で州郡の兵士が敗北を続けたわけです。
黄巾の乱の序盤で言えば、張角率いる黄巾賊が優勢だったと言えるでしょう。
霊帝と宦官
清流派の解放
呂強は霊帝に党錮の禁で弾圧された清流派を解放しなかったら、黄巾賊と結ぶ着くと述べたわけです。
呂強の進言により霊帝は大赦を出し清流派の解放を決めました。
呂強を見ていると正義の宦官と言った感じもしますが、同じく宦官の趙忠に讒言された事で命を落としています。
黄巾の乱と言っても官軍と黄巾党の戦いだけとは言えず、後漢王朝内部の政争もあったわけです。
尚、呂強を見ていると「宦官=悪」ではなく善意の人もいた事が分かります。
張鈞の諫め
張鈞も霊帝を諫めました。
張鈞は霊帝が向栩を処刑した事を諫め、十常侍が腐敗の原因だと告げたわけです。
張鈞は兵を出さなくても諸悪の根源である張譲と趙忠を殺害すれば、黄巾の乱は自然と収束に向かうと説きました。
霊帝は自ら張譲や趙忠を取り調べますが、十常侍らは上手く言い逃れた事で逆に張鈞が処刑されています。
黄巾の乱の経緯を見ているとよく分かりますが、張譲や趙忠は霊帝が喜ぶツボをよく抑えていたと言えるでしょう。
黄巾の乱で張譲や趙忠ら十常侍に何かしらの問題があっても、毎度の様に言い逃れています。
討伐軍を編成
霊帝は黄巾の乱に対処する為に、討伐軍を編成しました。
何皇后の兄である何進を大将軍に任命し洛陽の防備を固めさせました。
儒者の盧植が張角の本隊を討つ事になり、皇甫嵩と朱儁が潁川の黄巾賊を討伐する事になったわけです。
尚、皇甫嵩と朱儁は潁川の黄巾賊を討つ事になっており、都の付近まで黄巾賊が押し寄せてきている事が分かります。
既に皇甫嵩や朱儁は名が通った将軍であり、洛陽の南にいる黄巾賊をさっさと討伐したいと考えたのでしょう。
後漢王朝の正規軍が黄巾賊の討伐に向かう事になりました。
盧植は劉備の師匠で体格が良かった話もありますが、なぜ将軍に任命されたのかはイマイチ分かってはいません。
それでも、結果をみれば皇甫嵩、朱儁、盧植の3人を将軍に選んで正解だったと言えます。
黄巾の乱は後漢王朝の腐敗と名将たちの活躍がよく分かる戦いでもあります。
英雄たちの登場
劉備の出陣はあったのか??
史実の劉備も黄巾の乱に参戦していたのではないか?とも考えられています。
馬商人の蘇双と張世平が資金を劉備に提供し、劉備は軍を編成して黄巾賊討伐に乗り出したとも考えられています。
正史三国志では桃園の誓いもなく、劉備は関羽や張飛と義兄弟の契りを結んだ記録もありません。
ただし、劉備、関羽、張飛が仲が良かった事は本当らしく、劉備は金で関羽と張飛を雇ったのかも知れませんが、義兄弟の様な関係になって行ったのでしょう。
尚、劉備の師匠である盧植の元に劉備が駆け付けた記録も、盧植が劉備を認めており将軍として呼び寄せた記録も存在しません。
劉備は公孫瓚と共に盧植の弟子だったと書かれていますが、綺麗な服を好んだり、馬や犬(賭け事??)を好むなど、儒者の行動とはかけ離れており、どちらかと言えば出来が悪い部類の弟子だった様に感じています。
三国志演義では劉備、関羽、張飛は大活躍しますが、史実では黄巾の乱で戦っていない可能性すらあり、劉備が活躍したのは張純の乱だったのではないか?とも考えられています。
ただし、黄巾の乱もしくは張純の乱に参加し功績を挙げ、安熹県の県尉になった事は間違いなさそうです。
猛将孫堅
黄巾の乱の当時から孫堅の勇猛さは知る人ぞ知る存在となっていたのでしょう。
朱儁は物語では劉備を侮る傲慢な人物として描かれる事もありますが、史実の朱儁は人格的にも優れた人です。
洛陽から南下した朱儁は黄巾賊の波才と激突しますが、初戦で敗北する事になります。
しかし、朱儁や孫堅は軍勢を立て直し、軍の崩壊は留めています。
黄巾賊は長社にいる皇甫嵩の軍めがけて移動しました。
朱儁も敗残兵を再び集結させ長社にいる皇甫嵩への援軍となっています。
曹操の出陣
長社の皇甫嵩の軍は2万しかいないのに、10万の黄巾賊が包囲したとも伝わっています。
長社の戦いでは官軍が兵力の上では圧倒的に不利だったわけです。
霊帝は皇甫嵩と朱儁が苦戦しているとする情報を得て動く事になります。
霊帝は曹操を騎都尉に任じました。
曹操は兵を率いて皇甫嵩の救援に向かったわけです。
曹操は皇甫嵩への援軍となりますが、皇甫嵩も独自に対処しており火計を使って黄巾賊を破りました。
この時に曹操も攻撃に加わり黄巾賊を多いに打ち破ったのではないか?とも考えられています。
朱儁の軍も勢いを盛り返し黄巾賊を破りました。
皇甫嵩と朱儁の軍は三郡を平定し、ここから黄巾の乱は官軍が優勢となっていきます。
皇甫嵩と朱儁の軍は数万の黄巾賊を斬ったとする記録もあります。
尚、この時の手柄を皇甫嵩は朱儁に譲っており、皇甫嵩の人格者ぶりがよく分かるエピソードです。
ここから先は皇甫嵩と朱儁は別行動を取り、、皇甫嵩が東郡の平定に入り、朱儁は南陽を平定する事になりました。
朱儁が南陽に向かったという事は、宛や荊州方面に進軍した事になり、皇甫嵩の東郡入りは盧植を助け黄巾賊の本隊を討つ事に決まったのでしょう。
王允と黄巾の乱
意外に思うかも知れませんが、王允も黄巾の乱に参戦していた話しが残っています。
王允は後漢王朝の司徒で董卓と呂布を連環の計で裂いた文官としてのイメージが強いわけですが、実際には武勇にも優れていた様であり黄巾の乱で戦った記録があります。
王允は黄巾の乱で敵を討ち破るなどの活躍もありましたが、張譲の賓客が黄巾賊と呼応している書状を発見しました。
王允は張譲が後漢王朝を見限り黄巾賊に内通していると考え、書状を霊帝の元に送ります。
霊帝は自ら張譲を取り調べますが、ここでも張譲は上手く言い逃れました。
霊帝は張譲を許しましたが、張譲は王允を恨み、王允は讒言により獄に繋がれてしまいました。
尚、王允は多数の助命嘆願により、後に獄から出されています。
朱儁の戦い
孫堅の負傷
朱儁は宛城に逃亡する黄巾賊の追撃を行いました。
この時に活躍したのが孫堅でしたが、孫堅は落馬負傷し馬だけが戻ってくる事態となります。
ここで、馬が孫堅の場所まで味方を連れて行き孫堅は草むらの中で発見されました。
孫堅は負傷して暫く動く事が困難でしたが、10日ほどで元気になり戦場に復帰した話があります。
その後に朱儁は宛城を包囲しますが、宛城は黄巾賊の趙弘が10万の黄巾賊で籠城しており、落城させるのが困難だったわけです。
張温の進言
朱儁は二カ月宛城を包囲しますが、抜く事が出来ず後漢王朝の首脳部の間で、朱儁を更迭しようとする話まで出てしまいました。
ここで朱儁を庇ったのが張温であり「白起や楽毅も長い年月を掛けて功績を挙げている」と述べています。
さらに、朱儁は潁川での功績を評価された部分もあり、朱儁更迭論は却下されました。
朱儁は張温に救われた形になったと言えるでしょう。
宛城を抜く
この後に朱儁は黄巾賊の頭目である趙弘を斬る事に成功しますが、黄巾賊は韓忠を総大将にして抵抗を続けました。
ここで朱儁は城の西南を攻撃する振りをして、密かに兵を北東に回し敵を攻撃します。
城の東北攻めには朱儁が自ら指揮を執りました。
朱儁の作戦は成功し、宛城を占拠しています。
黄巾賊の韓忠は逃亡し近くの小城に籠城しました。
しぶとい黄巾賊
宛城を抜いた事で、朱儁における黄巾の乱の大部分は終わったかに見えました。
韓忠も降伏を願い出てきたわけです。
しかし、朱儁は「降伏を許せばすぐに反乱を起こし、討伐軍を出せば降伏する」を繰り返す事になると考えました。
朱儁は韓忠の降伏を許さなかったわけです。
黄巾賊は城を必死に守った事で朱儁は苦戦を強いられました。
後に朱儁は張超の進言もあり、黄巾賊を死地に追い込んでいる事に気が付きます。
そこで朱儁は包囲の一部を解き攻撃を仕掛けると、韓忠らは解いた包囲網から脱出を試みます。
このタイミングで朱儁は逃げる韓忠の軍を攻撃し、1万を超える黄巾賊を斬る事に成功しました。
韓忠は捕らえられ、今度こそ朱儁の黄巾の乱は終焉に向かうかに見えたわけです。
しかし、朱儁の部下である秦頡は鬱憤が溜まっていたのか、韓忠を殺害してしまいました。
黄巾賊は孫夏を頭目として反撃を試みた事で、朱儁の黄巾の乱は振り出しに戻ってしまいます。
南部を平定
孫夏は城に籠り防御を固めました。
これに対し、朱儁は孫堅に先鋒を任せ城攻めを行う事になります。
この時の孫堅は自ら先頭に立ち城壁を上るなどし、戦いの勝利に大きく貢献しました。
孫夏を斬る事にも成功しています。
孫堅の活躍もあり城は落城し、荊州方面の黄巾賊討伐の大半は片付いたわけです。
朱儁は黄巾の乱で大きな功績を挙げたと言えるでしょう。
盧植の栄光と挫折
儒将盧植
盧植は身長が195センチもあり体格も良かったわけですが、本来は将軍ではなく儒者でした。
朱儁や皇甫嵩と違い将軍としての実績に乏しい盧植ですが、黄巾賊の本隊である張角の軍と戦闘になりました。
黄巾賊を率いたカリスマ指導者である張角と実戦経験がない、もしくは薄い盧植が戦ったわけです。
普通に考えれば大軍を率いた張角が勝つ様に思うかも知れません。
しかし、盧植は儒将の意地を見せたのか張角の本隊を相手に連勝しました。
張角は野戦では勝ち目がないと考えたのか、広宗の城で盧植の軍を迎え撃つ事にします。
この時の盧植の采配は見事なものだったのでしょう。
盧植の更迭
張角は盧植に何度も敗れた事で、信者たちからの求心力も失われていたはずです。
特に奇跡を起こして求心力を得ていた張角が戦いで全く勝てないのは、かなりも問題だった事でしょう。
盧植は広宗の城を落とすために、雲梯などを揃え、着々と準備を進める事になります。
広宗の城を陥落させれば、黄巾の乱は収束に向かう事は確実であり、盧植の目の前には栄光が見えていたわけです。
こうした中で洛陽にいた霊帝は宦官の左豊を盧植の陣に派遣し、様子を見させています。
盧植は左豊が陣にやってきても賄賂を渡しませんでした。
左豊は賄賂を渡さない盧植を恨み、洛陽に変えると霊帝に「黄巾の乱はいつでも終わりになる状態なのに盧植に戦意が無い」と告げる事になります。
霊帝は左豊の言葉を信じ盧植を更迭しました。
盧植は黄巾の乱での最大の武功を挙げる目前にいたにも関わらず、一気に罪人となってしまったわけです。
この時に盧植は身を以って宦官の怖さを知った事でしょう。
尚、盧植の更迭は見方を変えれば張角が起こした最後の奇跡とも言えるはずです。
盧植が更迭された事で代わりに送り込まれたのが董卓となります。
しかし、董卓は戦意がなく結局は、皇甫嵩が黄巾賊との最後の戦いに応じました。
董卓は涼州方面で武功を挙げましたが、黄巾の乱では殆ど功績を挙げていません。
広宗の戦い
皇甫嵩と張角の弟である張梁が広宗で激突する事になります。
皇甫嵩は張梁の軍と戦いますが、予想外に苦戦しました。
張梁が予想以上に手強いと皇甫嵩は判断し営門を閉じ防備を固めています。
皇甫嵩率いる官軍と張梁率いる黄巾賊の戦いは膠着状態となりました。
戦線が停滞すると張梁の軍に緩みが出てきた所を見計らない、皇甫嵩は攻撃しています。
皇甫嵩は張梁の軍を散々に破りました。
皇甫嵩は張梁を斬り、三万の黄巾賊を討ち取り、五万は逃げる最中に溺死した者が多かったと伝わっています。
これにより黄巾の乱は完全に収束に向かうわけです。
皇甫嵩の完勝と言ってもよいでしょう。
張角の死
皇甫嵩は張梁を討ち取りますが、この時には既に張角は病死していました。
張角は黄巾の乱が始まった頃は、黄巾賊が優勢であり気分が良かったのかも知れませんが、自身は盧植に連敗していたわけです。
軍内での張角への求心力が低下する中で、張角にはかなりのストレスが掛かっていたのでしょう。
皇甫嵩は張角の遺体を探し出し首を斬り洛陽に送りました。
黄巾の乱が終わると霊帝は歓喜し大赦を出し改元した話があります。
霊帝も黄巾の乱が起こった当初から食事を減らし贅沢を止めた話しもあり、危機意識は強かったのでしょう。
霊帝は英雄となった皇甫嵩を車騎将軍とし、大将軍の何進の次ぐ好待遇を与えています。
英雄の転落
閻忠の進言
皇甫嵩は黄巾の乱で最も活躍した将軍であり、後漢王朝の英雄となったわけです。
ここで閻忠は皇甫嵩に「好機は手に入りにくく失いやすい」と述べました。
閻忠は霊帝の凡庸さを暗に伝え皇甫嵩に注目が集まっていると告げます。
閻忠は皇甫嵩に殷の湯王や周の武王よりも天下の名声が集まっているし、ここで動かないと韓信の様になると伝えました。
韓信は劉邦を軍事面で最も支えた将軍でしたが、蒯通の言葉を聞かず呂后に誅された人物です。
閻忠は黄巾の乱での皇甫嵩の功績は並ぶものがなく、大事を起こさねば身が危ういと伝えました。
しかし、皇甫嵩は黄巾の乱で大功を挙げても、尊大になる事もなく閻忠の進言を却下しています。
閻忠は皇甫嵩が進言を聴き入れないと悟り逃亡しました。
閻忠の進言は「大それたこと」と思うかも知れませんが、実際に皇甫嵩は黄巾の乱で最大の功績を挙げたにも関わらず、歴史に埋もれて行く事になります。
車騎将軍の位を剥奪
資治通鑑や後漢書によると皇甫嵩が黄巾の乱を鎮圧し、鄴を通った時に中常侍の趙忠の大きな邸宅を目撃する事になります。
趙忠の邸宅の広さは法律で定められた大きさを超えており、皇甫嵩は法律の則り趙忠の財産を没収する様に霊帝に上書しました。
さらに、宦官の張譲が皇甫嵩に銭五千万を要求しています。
皇甫嵩は黄巾の乱での功績で莫大な恩賞が出ると考えた張譲が皇甫嵩に賄賂を要求したのでしょう。
しかし、皇甫嵩は張譲の要求を却下しました。
張譲と趙忠は皇甫嵩を恨み讒言を行っています。
霊帝は張譲と趙忠の言葉を聞くと皇甫嵩の車騎将軍の位を剥奪し、領地も6千戸を削りました。
後漢王朝で如何に十常侍の張譲や趙忠が権力を持ち、腐敗していたのかが分かる話でもあります。
黄巾の乱で英雄となった皇甫嵩も盧植と同様に残念な結果となったわけです。
西園八校尉
霊帝の黄巾の乱が勃発し軍事の重要性を理解したのか、皇帝直属の親衛隊である西園八校尉を作りました。
それでも、西園八校尉の筆頭が蹇碩なのは霊帝らしいとも言えるでしょう。
黄巾の乱での霊帝の行動を見ると宦官の言葉を信じすぎており暗君に見えるかも知れませんが、実際の霊帝は鴻都門学を設置するなど役人の脅威にも積極的だった話があります。
黄巾の乱三英傑のその後
皇甫嵩は黄巾の乱が終わってもあちこちで反乱を討伐しており、意気は衰えてはいなかったのでしょう。
皇甫嵩は董卓政権でも生き延び李傕が長安を牛耳り混乱する中で亡くなっています。
朱儁は董卓政権に対しては反発的であり、自ら反董卓の旗印を掲げますが、呼応したのが陶謙くらいであり歴史に埋もれた感じがしました。
盧植は董卓が少帝を廃し献帝を即位させようとした時に、只一人反対した話があります。
盧植は董卓の恨みを買い隠遁生活を送りますが、董卓と同じ192年に亡くなりました。
黄巾の乱三英傑の皇甫嵩、朱儁、盧植は歴史に埋もれて行き、代わりに曹操、袁紹、袁術、公孫瓚、劉備、孫策、孫権、劉備などが覇を競う時代に入っていくわけです。
黄巾の乱の規模は小さかった??
黄巾の乱と比較されやすいのが、秦の末期に起きた陳勝呉広の乱ではないでしょうか。
陳勝と呉広は秦の始皇帝が崩御し胡亥が即位すると、直ぐに反乱を起こしました。
陳勝呉広の乱は半年で終焉を迎えますが、その後も、次々に反乱軍が湧いてくる始末でした。
しかし、黄巾の乱では張角が病死し、弟の張梁が敗れるや乱は鎮圧に向かいます。
秦末期の農民反乱と黄巾の乱は似て非なるものであり、宗教的な反乱との違いだとの指摘もあります。
宗教団体太平道が起こした黄巾の乱は1年もせずに鎮圧されています。
ただし、黄巾の名は各地で使われ、その後に益州で馬相が黄巾賊を名乗って乱を起こしたり、徐和、司馬俱、管亥なども黄巾を名乗っています。
黄巾の乱が終焉し20年以上が経過しても、黄巾党を名乗る者がいたわけです。