張角と太平道を紹介したいと思います。
三国志を読み始めると、最初のビッグイベントが黄巾の乱ではないでしょうか?
三国志演義では、劉備が黄巾の乱の義勇軍募集の高札を見てため息をついた時に、張飛が一喝したりする場面もあります。
劉備は関羽、張飛と共に桃園の誓いにより義兄弟となり、義勇軍を結成し黄巾賊の討伐に出向く事になります。
さらに、既に官位についている曹操が活躍したり、孫堅も朱儁の下で戦功を挙げるなど見どころがあります。
今回は、黄巾の乱を引き起こした張角の史実を紹介します。
自分の中では、張角はストレスで死んでしまったのではないか?と思えてなりません。
なぜ、張角がストレスが溜まり病死に至ったのかを紹介したいと思います。
自分の中で宗教指導者には、こういう苦悩があるんじゃないかな~と思う所があってのお話しです。
尚、三国志演義の張角は南華老仙から太平要術の書を手に入れた事から、太平道の始まりとなっています。
張角が奇跡を起こす
張角は太平道という宗教団体を起こす事になります。
宗教団体を立ち上げる当たって、当時は奇跡を起こさなければならなかったようです。
自分は宗教団体を起こした事がないので分かりませんが、古今東西、宗教団体が誕生する時は、奇跡が無ければいけないのかも知れません。
張角の場合は、黄帝と老子の考えを元にし、大賢良師を名乗り、病人に呪術の札を渡し水を飲ませ呪文を唱えるだけで治癒したと言います。
これが「やらせ」なのか、本当なのかは分かりませんが、これを見た当時の人は「奇跡」と思い張角の太平道に入信する事になります。
さらに、民衆に自分の罪を告白させて、赦しを行うなどの行為もしていたようです。
当時の後漢王朝は宦官が権力を握っていて、腐敗が進んでいました。
皇帝である霊帝自身も官位の売買をしていたりしたほどです。
ちなみに、曹操の父親である曹嵩も一億銭もの金額を霊帝に献上し、宦官にも多額の賄賂を贈り大尉という高位に昇った程です。
政界は宦官が牛耳っていますし、反宦官派の人々は「党錮の禁」により弾圧されています。
このような時代であって張角の太平道は人々に受け入れられたのでしょう。
さらに、張角は八人の弟子を各地に送り込み数十年間の布教の結果として、太平道は数十万人もの信者数となったわけです。
こういう力を持った宗教団体が現れれば、後漢の政府は危機感を募らせるわけですが、霊帝の許には届かなかったり、宦官が「問題ない」として助言したりしたようです。
後漢政府が、太平道対策を一切打たなかった事で、太平道は膨大なる信者の数となりました。
尚、党錮の禁で捕らえられてしまったような人たちは、黄巾の乱が起きると恩赦が出て釈放されています。
党錮の禁で捕らえられた人は清流派とも言いますが、彼らが黄巾の乱に呼応するのを霊帝が恐れた為とも言われています。
後漢王朝の滅亡を予言する
張角を教祖とする太平道は、後漢王朝の滅亡を予言するようになります。
下記の歌が詠まれたとされています。
蒼天すでに死して
黄天まさに立つべし
年は甲子にあり
天下は大吉
この歌の意味ですが、蒼天と言うのは後漢王朝を指すとされています。
黄天が太平道を指し、後漢王朝が滅亡する事も予言しています。
さらに、甲子の年に天下は大吉になると予言しているわけです。
こういう歌を詠まれ始めた頃には、張角や太平道は滅亡に向かっている様に思えてなりません。
尚、この歌は甲子の年に天下が良くなると予言しているわけでもあり、後にこの予言が張角の首を絞める行為になったようにも思います。
信者の数が膨大になると、野心家も近づいて来るのか?
様々な人が太平道に集まったと言う事は、よからぬ事を考える人も集まって来たのではないかと思われます。
つまり、張角を神と崇める人だけではなく、「上手く利用してやろう」とか「自分が教祖に成り代わってやろう」と考える野心家が出て来てもおかしくはありません。
張角の場合ですが、最初から反乱を起こそうと思っていたのか、入信してきた人に助言されたのかは分かりませんが、反乱を起こそうと企てるようになります。
張角の太平道には、馬元義という人がいました。
馬元義は、しばしば洛陽に行き、後漢王朝の宦官たちの抱き込みを考えるようになります。
張角が政治的な野心を持った事で、馬元義は内からは宦官たちに反旗を翻さして、外からは張角ら太平道の信者が蜂起し後漢王朝を転覆させる気だったのでしょう。
しかし、太平道も一枚岩ではなかったのか、馬元義に人望が無かったのかは分かりませんが、太平道の唐周という人物が朝廷に密告したわけです。
これにより後漢王朝の皇帝である霊帝は、張角を逮捕する決断をします。
しかし、張角もこれに気が付き、各地の太平道の信者に一斉蜂起を呼び掛けたわけです。
ここにおいて黄巾の乱が勃発する事になります。
尚、太平道の信者は頭に黄色の巾を巻いた事から、黄巾の乱と呼ばれています。
張角は天を祀り、自分は天公将軍を名乗り、弟の張宝は地公将軍、もう一人の弟の張梁には人公将軍を名乗らせています。
張角の黄巾の乱は、大反乱となり各地で役人を襲ったりしたわけです。
しかし、張角が野望を持った時点で滅亡に向かっていたのかも知れません。
張角自身は、最初のうちは政治に興味を持たなかったのかも知れませんが、信者が担ぎ上げた可能性もあるでしょう。
後漢の朝廷は反乱を起こした太平道の信者の事を黄巾賊とも呼んでいます。
期限が決まっている事が不幸の元だった?
黄巾の乱ですが、「蒼天すでに死して 黄天まさに立つべし 年は甲子にあり 天下は大吉」の歌を思い出してください。
この「年は甲子にあり 天下は大吉」という部分があります。
年は甲子と言うのは、当時の暦を西暦に合わせると184年になります。
この言葉が本当であれば、184年には天下は大吉になり、よく治まって無ければいけないわけです。
黄巾の乱が起こったのは、184年なので、張角としてみれば信者に言った予言を成就するために、何かしらの行動を起こさなくてはなりません。
184年に何も起きないとなれば、張角は信者からの求心力を失ってしまう事になるでしょう。
張角は病気を治すなどの奇跡を起こした事で、求心力を集めた人なので、予言が外れる事はあってはならないはずです。
これが外れてしまうと、大きく求心力を落とす事になってしまいますので、張角としても必死だった事でしょう。
よく海外などの宗教団体などで、「世界の終り」を予言した人もいます。
信者を集めて世界の終りの日を迎えるわけですが、何も起きなかった事もあるわけです。
そうなると、その宗教団体は求心力を失ってしまいます。
尚、宗教ではありませんが、日本でも1999年に地球が滅びるというノストラダモスの大予言が流行した事がありました。
しかし、1999年を過ぎても人類は滅亡しませんでしたし、それにより現在ではノストラダモスの大予言を信じている人はほとんどいないはずです。
人によっては、暗号の読み解きが違うなども言いますが、昔ほどの求心力はないでしょう。
これと似たような状態が張角にも起きていた可能性もあります。
つまり、甲子の年である184年には何かしらの事が起きて、民が救われなければいけないわけです。
最終的に、それが黄巾の乱に結び付いたのかも知れません。
尚、184年に反乱が起きると最初から予言しているような物なのに、手を打たない後漢王朝の朝廷はかなり腐敗していた可能性もあります。
事なかれ主義が多かったのかも知れません。
それを良い事に、太平道は勢力を拡大させる事が出来たのでしょう。
しかし、期限が決まっていると変更が出来ませんし、張角自身もかなりストレスが溜まっていた事でしょう。
期限を決めてしまった、宗教団体の指導者の辛いところなのかも知れません。
黄巾の乱の初期は賊軍が優勢だったのか?
黄巾の乱が起きると義勇軍なども立っています。
劉備は見た目が雄偉だったせいか、見込まれて張世平や蘇双などが資金を提供して黄巾賊の討伐に向かっています。
春秋戦国時代に、呂不韋が子楚(後の秦の荘襄王)を見て資金を援助したのと同じことを、張世平や蘇双も考えたのでしょう。
しかし、これが劉備の武将デビューになったはずです。
官軍の方は苦戦もしていたわけです。
南陽の郡主であった褚貢は黄巾賊の張曼成に殺されていますし、官軍の主力でもある朱儁の軍も黄巾賊の波才に敗れています。
他にも、汝南太守である趙謙も黄巾賊に敗れ、幽州刺史である郭勲や広陽太守である劉衛も敗退しました。
さらに、朱儁を助けに来た名将と呼ばれていた皇甫嵩も長社の戦いでは、波才の軍に包囲されています。
この様に黄巾賊との戦いにおいて序盤は、圧倒的に黄巾賊が優勢でした。
しかし、こういう戦況にあり朝廷では、曹操を将として援軍に向かわせる案が浮上し霊帝は許可しています。
曹操が皇甫嵩や朱儁の援軍に駆けつけると、黄巾賊を混乱させる様な動きを見せたわけです。
曹操が騎馬隊を使い黄巾賊を攪乱したのが実態なのでしょう。
ここに黄巾賊に隙が出来た所を、皇甫嵩や朱儁は見逃さずに攻撃を仕掛けて撃退しています。
この辺りから戦況は、官軍が優勢になってくるわけです。
尚、皇甫嵩はさらに、東郡において黄巾賊を倒す活躍を見せています。
しかし、黄巾賊の中で一番まずい戦い方をしたのは、黄巾の乱の首謀者である張角だと思えてなりません。
奇跡を起こし続けなければならない
張角は反乱を起こしたわけですが、戦いで負ける事があってはならなかったはずです。
しかし、張角の前に盧植が立ちはだかります。
盧植と言う名前を聞いて、「どこかで聞いた事がある名前だな?」と思う三国志ファンは多いかも知れません。
盧植は儒学者ではありますが、劉備の師としても有名な人物です。
尚、盧植は後に劉備の配下となる、孫乾の師である鄭玄とは学友でした。
この盧植が張角が直接率いる、黄巾軍と対決する事になったわけです。
張角の軍は数は多かったわけですが、戦いに慣れていない民衆が多かったのか、張角が戦下手だったのかは分かりませんが、何度も破れています。
結局は、籠城する事になったわけですが、ここで太平道の信者から大きく心が離れた可能性もあります。
先にも言いましたが、張角は奇跡を起こして民衆を従わせていたわけですから、戦で負ける事があってはならないからです。
しかし、実際には盧植に野戦で何度も負けてしまい、結局は籠城戦で戦う事になってしまいました。
信者からして見れば、「張角に付いてくれば奇跡が起きる」と思っているわけです。
しかし、戦で官軍を相手に張角率いる本隊が連戦連敗では、話にならなかった事でしょう。
この敗戦が許されないと言うのは、張角に取っては大きな痛手だったはずです。
ただし、奇跡が全く起きなかったわけではありません。
張角の最後の奇跡
張角が最後に起こした奇跡と言えば、城を攻めていた盧植が解任された事でしょう。
三国志演義では、十常侍に盧植は賄賂を贈らなかった為に解任されています。
この時に、劉備は師である盧植が檻に入れられている様子を見て涙を流し、張飛は憤るシーンは名場面でしょう
しかし、史実では盧植が劉備と面会した話はありません。
盧植は儒学者ですが、劉備の行動を見ると儒学の行動とはかけ離れているように思います。
さらに、派手な服装を好んだなどの話しもあり、出来の悪い部類の弟子だったのかも知れません。
ただし、盧植が将軍を解任された事は間違いありません。
後漢の霊帝は黄巾賊と戦っている官軍を視察させる為に、左豊という宦官を盧植の元に向かわせています。
この時に盧植は、宦官を嫌っていたのか賄賂を渡さなかったり丁重に扱わなかったのでしょう。
これに激怒した左豊は、盧植が真面目に戦っていないと霊帝に報告します。
これに腹を立てた霊帝は、盧植を死刑にしようとしたとも言われていますが、結局は流罪に決めてしまいました。
盧植は、賄賂を渡さなかったばかりに、黄巾の乱においての大功を逃す事になってしまいました。
盧植としてみれば宦官の恐ろしさが、身に染みて分かったのかも知れません。
しかし、圧倒的に優位に戦況を進めていた盧植が解任されたのは、張角に取ってみれば最後の奇跡と呼べるでしょう。
ちなみに、盧植の死後は副官である宗員が指揮を執りますが、後任の将軍がやってくるまで何もしなかったようです。
張角の最後
盧植が解任された後に、後漢王朝が寄こした将軍は董卓です。
董卓と言えば、暴虐な将軍を思い浮かべるかも知れません。
実際に、霊帝が崩御して少帝が即位すると大将軍である何進と宦官たちの権力闘争が激しくなります。
それに乗じて、董卓は丁原を呂布に殺させて配下にしたり、皇帝を少帝から献帝に変えたり暴虐の限りを尽くしたとも言われています。
董卓は三国志の中でも、最大の悪人とされるわけですから、獰猛な董卓が相手では張角も運が無いと思うかも知れません。
しかし、この時の董卓は天下がもっと荒れれば、自分が政界を牛耳るチャンスがあると思ったのか、真面目に戦争を行おうとしませんでした。
体裁を保つために戦っている振りはしますが、張角を攻撃する気はまるでなかったようです。
董卓がこういう状態であるわけですから、張角に取ってみれば反撃のチャンスでもありました。
しかし、過度の敗戦などもあり張角はストレスがMAXになってしまったのか病死しています。
太平道の信者には、死は伏せられて弟である地公将軍である張梁が指揮を執ったようです。
董卓は攻撃した様ではありますが戦果を挙げる事は出来ませんでした。
皇甫嵩が各地の黄巾賊を討伐して霊帝の信任を得ます。
霊帝は、董卓から皇甫嵩に城を攻めるのを交代させています。
皇甫嵩は、状況に対し上手く対処し城攻めを行った事で、城は落城して黄巾の乱は終息に向かうわけです。
張角の棺は納められていたわけですが、発見され首を斬られて都である洛陽に送られています。
結果的にみれば、黄巾の乱は1年もしないうちに大半は鎮圧されてしまい大失敗に終わったわけです。
黄巾賊の残党は存在し、北海太守である孔融の城を囲み太史慈が助けるなどの事もありましたが、大半の黄巾賊は農民に戻ったり、曹操などの群雄に吸収されてしまう事になります。
張角自身が戦下手であったようで、盧植を相手に全然勝てなかったのも大きく響いた事でしょう。
張角は、布教をしたり教えを説くパフォーマンスは長けていたのかも知れませんが、戦争は苦手だったのが分かります。
苦手な戦争をやってしまった事で、信者の求心力を落とし、張角自身もストレスが過度に溜まり病気になってしまったように思えてなりません。
張角を見ていると、「教祖などなりたくない」と自分は思ってしまったほどです。
黄巾乱は小規模な反乱だったのか?
黄巾の乱ですが、太平道の信者だけではなく、山賊や盗賊たちも挙兵して乱に加わったようです。
三国志演義などを見ると、大規模な反乱だったようにも思えますが、一般的に思っているよりは小さい反乱だったのかも知れません。
黄巾の乱は1年もせずに収束に向かったのも、規模の小さいさを物語るのかも知れません。
さらに、内側から手引きしてくれる内通者の確保に失敗しているなども敗因と言えるでしょう。
尚、秦の始皇帝が死に秦の末期には、陳勝呉広の乱が起きています。
この時は、秦の章邯が囚人兵を率いて鎮圧にあたっています。
最初に反乱を起こした首謀者である陳勝を倒しても、会稽では項梁が項羽と共に旗揚げしていますし、陳余や張耳なども趙王を立てて秦に反抗しているわけです。
その他にも、斉では田栄や田横も秦に背いて挙兵していますし、鎮圧しても次々に反乱軍が湧いてきてしまうような状態だったわけです。
それに比べると黄巾の乱は首謀者である張角が死ぬと、直ぐに求心力を失い終焉に向かっています。
もちろん、農民が社会不安で起こした為の反乱と宗教団体を中心とした反乱では性質が違うのかも知れませんが、1年で大半が収まってしまう辺りは規模が小さいように思えてなりません。
太平道というのは、農民の為と言うよりは張角や上層部の野心が強かったのもあり、1回負けてしまうと求心力が大きく低下したのも原因と言えるのかも知れません。
しかし、張角のストレスは大変なものだったのでしょう。
尚、イスラム教の教祖であるムハンマドは戦には滅法強かったようですが、張角ではムハンマドの様には行かなかったのでしょう。
かといってキリストのようになる事も出来ないのが張角だと言えます。
もし張角が戦が上手かったとか、変な野心を持たなければ、現在の世界の4大宗教としてキリスト教、イスラム教、仏教、太平道と続いた可能性もあるのかも知れません。
何となく太平道があったとしても、入りたいとは思えませんが・・・。
張角死後の黄巾賊
張角が病死し、黄巾の乱は終わりますが、その後も黄巾を名乗る者は存在しました。
曹操が青州の黄巾賊の大軍を青州兵として受け入れた事は有名です。
他にも、西暦188年には益州において、馬相が黄巾を名乗り瞬く間に大勢力を築いています。
馬相は益州刺史の郤倹までをも討ち取り天子を名乗った話があります。
ただし、馬相の乱は賈龍により短期間で終了しました。
黄巾党の一派である白波賊の楊奉は車騎将軍になっていますし、韓暹は大将軍にまでなっています。
西暦206年には、司馬倶も黄巾を名乗り兵を挙げています。
これを考えると、張角の死後も黄巾党の名は求心力を得ていた事が分かります。
張角自体は短期間で亡びましたが、朝廷に反旗を翻す勢力の象徴として、黄巾賊の名は使われて行ったのでしょう。
ただし、張角死後に時代と共に黄巾賊は徐々に姿を消す事になった事実もあります。