鄧当は正史三国志の呂蒙伝に名前が見られる人物です。
鄧当は呂蒙の姉と結婚していた事が分かっています。
呂蒙は鄧当の元に身を寄せて、功名を挙げ立身出世を望みました。
鄧当は孫策配下となり、山越討伐を何度か起こった話があります。
鄧当が亡くなると、張昭の垂線もあり後任として呂蒙が選ばれました。
今回は孫策の部将となり、山越討伐を行った鄧当を解説します。
山越討伐
正史三国志に次の記述が存在します。
鄧当は孫策の部将となるや、しばしば山越討伐を行った。
上記の記述を見ると分かる様に、鄧当が孫策の配下として山越討伐を行いました。
それも1度ではなく何度も行った事になります。
ただし、鄧当が山越討伐で、どれ程の軍功を挙げたのかは記載が無く分かっていません。
それでも、特に罰せられた記録もないので、鄧当は順当に手柄を立てて行ったのでしょう。
呂蒙を叱る
ある時に、鄧当は賊の討伐に向かいますが、呂蒙が密かに鄧当の軍に潜り込んでいました。
この時の呂蒙はまだ15,6歳の年齢であり、鄧当は振り返って呂蒙を見つけると驚いたわけです。
鄧当は呂蒙を叱りつけて家に戻そうとしますが、呂蒙は聞かずに軍隊に残りました。
鄧当は家に戻ると、呂蒙の母親に事の顛末を伝えています。
呂蒙の母親は鄧当の言葉を聞くと、腹を立てて呂蒙を罰しようとしますが、呂蒙は次の様に述べました。
※正史三国志 呂蒙伝より
呂蒙「貧しくて卑しい立場にいつまでもいるわけにはいきません。
偶然でも手柄を立てる事が出来れば、富貴を得る事が出来るのです。
それに虎の穴を探さずに、どうして虎の子が手に入るのでしょうか」
呂蒙はまだ20歳にも満たぬ年齢でしたが、将来の大志を持っていた事が分かります。
呂蒙の母親は呂蒙の言葉を聞くと、憐みそれ以上は言いませんでした。
尚、呂蒙の口から出た「虎穴」は班超の「虎穴に入らずんば虎子を得ず」から話を引用したのでしょう。
呂蒙が罪を犯す
鄧当の部下の者で、呂蒙がまだ若い事から馬鹿にして「小童に何が出来る。虎に肉を与えてやるだけだ」と述べた者がいました。
鄧当の妻の弟が呂蒙であり、鄧当は自分と近しい人間が馬鹿にされている事を考えると、鄧当の軍規は緩めだったのかも知れません。
呂蒙を馬鹿にした男は、本人の前でも嘲笑し辱めた事で、呂蒙はカッとなり馬鹿にした者を斬り捨ててしまいます。
呂蒙は鄭長の元に逃げますが、呂蒙のこうした行動は鄧当にとっても、困った事でもあったはずです。
しかし、呂蒙は袁雄に仲介を依頼し、出頭しました。
鄧当の部下で呂蒙を馬鹿にした者の言い方が余程酷かったのか、呂蒙を庇うものがおり、この話が孫策の耳に入りました。
孫策は呂蒙に会うと非凡さを見抜き側近として使う様になりました。
数年後に鄧当が亡くなると、張昭の推薦もあり呂蒙が鄧当の部隊を引き継ぎ別部司馬となります。
鄧当が何年に亡くなったのかも分かりませんが、鄧当の部隊を呂蒙が引き継いだ事は間違いなさそうです。
呂蒙は呉下の阿蒙の逸話でも有名であり、孫権の代になると才能を開花させ関羽討伐では大活躍を見せ荊州南部を呉の領土にする事に成功しました。