三国志 後漢

張昭は呉の名士の代表格

2023年7月8日

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宮下悠史

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名前張昭(ちょうしょう) 字:子布
生没年156年ー236年
時代後漢、三国志、三国時代
勢力孫策孫権
一族子:張承、張休 孫:張震 甥:張奮
年表208年 赤壁の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

張昭は正史三国志に登場する人物であり、呉の孫権に仕えた事でも有名です。

張昭は呉の名士の代表格とも呼べる立場であり、文官の筆頭とも言える立場でした。

孫策は張昭が配下に加わった時に、ひどく喜んだ話があります。

張昭は赤壁の戦いで降伏派の筆頭であり、魯粛や甘寧の戦略に対して文句を言った事で、よいイメージが少ない人も多い様に感じています。

しかし、実際の張昭は孫権を補佐し、時には口うるさく諫めたりもしました。

孫権は後年に耄碌したと言われますが、張昭がいなくなった事でボケてしまったとも考えられ、孫呉の政権運営において張昭は欠かせない人物だったのでしょう。

尚、呉では張昭の権力は非常に大きく孫権を脅かすほどであったともされています。

孫権の配下では武官の筆頭が周瑜であり、文官の筆頭が張昭だった事はよく言われる事でもあります。

今回は張紘と共に江東の二張とも呼ばれた張昭を解説します。

尚、正史三国志では張昭は呉書の張顧諸葛歩伝に下記の人物と共に収録されています。

張昭顧雍諸葛瑾歩隲

若かりし頃の張昭

張昭と言えば頑固者の老人の様なイメージを持っている人が多いかも知れません。

しかし、張昭にも勿論、若かりし頃があったわけです。

正史三国志によると張昭は徐州彭城国の人であり、若い頃から学問を好んだとあり、隷書にも精通していたとあります。

これらの記述を考えると、張昭の名士的な考え方などは、若き日の学問で学び取った可能性が高いです。

張昭が隷書が巧みだった事を考えれば、字を書くのも上手だったのでしょう。

張昭は白侯子安から『左氏春秋』を学び、様々な学問を身に着け、趙昱や王朗と並び高い名声を持っていたとあります。

趙昱や王朗とは張昭は親しく交わりました。

張昭は20歳くらいになると孝廉に推挙されましたが、都には行かなかったとあります。

当時は霊帝の時代であり、宦官が強い権力を持ち張昭は都に行きたいとも思わなかったのでしょう。

張昭は王朗と諱を避ける事の議論をし、陳琳らはその議論を高く評価した話があります。

若き日の張昭を見る限り真面目で勉学に励み、議論が巧みだったという事は明らかでしょう。

陶謙に捕らえられる

張昭の噂が徐州刺史の陶謙の元まで届く事になります。

陶謙は張昭を茂才に推挙しますが、張昭は応じませんでした。

張昭が陶謙の茂才推挙に応じなかった理由は不明ですが、史実の陶謙を見る限りでは、董卓に賄賂を贈ったり、道義に背くなどの記述もあり、張昭が敬遠したと言った所でしょう。

陶謙は張昭が茂才に応じなかった事で「軽く見られている」と感じた様であり、張昭を捕えてしまいました。

張昭は陶謙により囚われの身となりますが、趙昱が必死で擁護した事で釈放されています。

後に天下が荒れて来ると徐州の人々は揚州に避難し、その中には張昭の姿もありました。

張昭は活動拠点を揚州に移す事になります。

尚、張昭は陶謙が亡くなった時に、哀悼の辞を作成しており、この辺りは張昭の思想が現れている様に感じました。

孫策に仕える

孫家は孫堅劉表を攻めている最中に戦死した事で、没落しました。

孫堅の長子である孫策袁術を頼り、後に江東平定に乗り出す事になります。

張昭は孫策に仕えました。

仕官を断わっていた張昭がなぜ孫策に仕えたのかは不明ですが、孫策は覇気もあり武芸に秀でており、張昭は将来性を見込んだ様に感じました。

孫策は張昭が配下に加わると、非常に喜び次の様に述べています。

※正史三国志 注釈呉書より

孫策「私は四方に活路を見出し、賢才の者を尊んでいる。

私が貴方を軽んずる事が出来るはずがない」

孫策は呉書によると孫策は上表して、張昭を校尉とし師友の礼で遇したとあります。

正史三国志にも孫策が張昭を長史・撫軍中郎将に任命し張昭の家に赴き母親に挨拶したとあります。

孫策は同年代の旧友の様に交わり、一切を張昭に委ねました。

孫策は張昭に対し部下としてではなく、師であり友という立場で接したのでしょう。

張昭は名が通った名士でもあり、孫策陣営で名士層の組み込みに大きく前進したとも言えます。

張昭のネットワーク

正史三国志によると、張昭は北方の士大夫と交流があった事が記録されています。

張昭は名士であり、北方の名士とも手紙で連絡を取り合っていたのでしょう。

北方の名士たちが張昭の元に手紙を送ってくる場合は、張昭の手柄を褒めるものが大半だったと言います。

ここで張昭は手紙の事を孫策に黙っていれば、密通している様にも見えますし、手紙を見せれば自慢している様にみられる事を気にしていました。

張昭としては手紙を孫策に見せるかどうかで悩んでいたわけです。

張昭と言えば頑固なイメージが先行しがちですが、奥ゆかしい部分もあったと言えます。

孫策は張昭の話を聞くと、笑って次の様に述べたと記録されています。

※正史三国志 張昭伝より

孫策「斉の桓公の宰相は管仲であり、1にも仲父(管仲)、2にも仲父であり、それで斉の桓公は覇者になれたのである。

今の私は子布殿(張昭)の意見をしっかりと聞き、用いている。

ならば、私に斉の桓公と同様の功業と名声が得られないわけがない」

孫策は張昭と自分の関係を春秋五覇の斉の桓公と管仲になぞられ、手紙の事など気にしないと宣言した事にもなるでしょう。

孫策は豪快な性格であり、張昭に管仲の様に実力を発揮してくれれば、それでよいと思っていたはずです。

尚、張昭は名士でしたが、劉巴と張飛の関係に見られる様な名士至上主義でなかったと感じています。

張昭は孫策の時代に寒家出身の呂蒙を、鄧当の後任に推挙した事からも明らかでしょう。

因みに、張昭は北方の名士との繋がりがあり、呉に中央の貴重な情報を得ていたとも考えられます。

呉が情報収集をする上で、張昭の人脈は大きく孫策も重用したのでしょう。

具体的な功績は不明ですが、孫策の江東平定戦において、張昭は文官として多くの功績があったのではないか?と感じています。

孫策の死

孫翊を推挙

孫策は頑強な肉体の持ち主だっただけではなく、軍隊の指揮能力も非常に優れており劉繇、王朗、厳白虎を破るなど江東第一の勢力となりました。

しかし、孫策は西暦200年に許貢の食客により、重体となってしまいます。

孫策は自身が助からない事を悟り後継者を決める事にしますが、この時に張昭は孫堅の三男である孫翊を後継者に推挙しました。

孫翊は孫策の様な性格であり、張昭は戦乱の時期であれば孫翊が後継者に相応しいと考えたのでしょう。

しかし、孫策は孫翊がまだ15歳であり、若すぎると考えたのか、孫翊では臣下を纏めきれないと考えたのか、孫権を後継者としました。

孫権と張昭は何度も揉め事を起こしていますが、孫策が亡くなった時に、張昭が孫権を推挙しなかった事も原因の一つではないか?とも考えられています。

ただし、孫策の子の孫紹が幼かった事もあり、孫翊が取りあえず呉の主君となり張昭と孫権で支え、最終的には孫紹が後継者になる構想があったのかも知れません。

この辺りは正確な記録が存在するわけでもなく不明です。

孫策の遺言

孫策は後継者をすぐ下の弟の孫権に定めますが、張昭には次の様に述べています。

※呉歴より

孫策「仲謀(孫権)に国を纏めるだけの能力がない様なら、あなた自身が政務を執って欲しい。

仮に上手く行かなかったとしても、西方に移れば何の心配もない」

孫策の言葉を見ると、劉備諸葛亮劉禅を託した言葉にも重なります。

むしろ、孫策の方が劉備よりも先に亡くなっているのであり、孫策の最後の言葉を劉備が真似たのかも知れません。

孫策の言葉に対し、張昭が何と答えたのかは不明ですが、後の行動を見るに張昭は孫権を支えて行く覚悟を決めた事は間違いないでしょう。

臣下の礼

孫策が亡くなり孫権が後継者となりますが、孫策は一代のカリスマであり呉に衝撃が走ったわけです。

カリスマに支えられていた組織は、カリスマがいなくなると崩壊に向かうケースも多く、孫呉にも動揺が走ります。

こうした中で張昭や周瑜などの代表的な名士が、率先して孫権に対し臣下の礼を行いました。

張昭らが孫権を補佐する事を鮮明にした事で、呉は落ち着きを取り戻す方向に向かいました。

張昭は後漢の朝廷には孫権が孫策の後継者になったと上表し、各地の役人には変わらず職務に励むように通達しています。

こうした張昭の配慮が無ければ、呉は崩壊していた可能性もあるのではないでしょうか。

孫権を激励

孫策の死は孫権にとっても衝撃であり、孫権は孫策の死を悲しみ政務を行おうとしませんでした。

こうした中で張昭は、孫権に対し次の様に述べています。

※正史三国志 張昭伝より

張昭「後を継いだ者は、先人が敷いた道を正しく継承し大きく発展させ、業績を挙げる事が求められるのです。

現在の天下は鼎が沸騰するが如く乱れ、野盗は山々に溢れています。

孝廉様(孫権)は家に引き籠って悲しんでばかりおり、情にばかり溺れていますが、これでよいのでしょうか」

張昭は孫権を強い心で激励したわけです。

張昭が孫権の事を孝廉様と述べたのは、過去に朱治が孫権を孝廉に推挙していた為でしょう。

さらに、張昭は孫権を無理やり馬に乗せると、兵士達を整えて出陣させたとあります。

孫権が皆の前に出ると、多くの者が孫権が後継者として立ったと認識しました。

張昭は孫策の頃と同様に長史に任命され同様の職務を行う事になります。

張昭は孫権政権でも重用されたと言えるでしょう。

赤壁の戦い

降伏派の筆頭

208年に孫権は宿敵でもあった黄祖を滅ぼしますが、荊州では劉表が亡くなり後継者の劉琮曹操に降伏しました。

曹操は降伏した荊州の人材を優遇し呉の群臣が降伏しやすい状況を作り出しています。

この時に主戦派は魯粛周瑜しかおらず、張昭は降伏派の筆頭だったとも考えられています。

後の孫権の言葉からも張昭が孫権に降伏を勧めた事は明らかでしょう。

さらに言えば、張昭は北方の名士とも繋がりがあり、手紙などのやり取りから「勝ち目はない」と考えた可能性もあります。

張昭は戦場に出た記録もありますが、実質的には政務の筆頭であり、物質量だけで判断し降伏を勧めたのかも知れません。

他の説としては、名士の張昭は漢王朝の輔弼を第一に考えており、献帝を擁する曹操とは戦いたくはなかったとする説もあります。

魯粛や甘寧などは漢王朝の命運は尽きた様な発言をしており、張昭に咎められた話があり、張昭は漢王室への想いは強かったと見る事が出来ます。

それでも、呉の群臣は曹操に降伏しても地位は変わらないとする意見が多く、張昭の降伏は義理を欠くとする見解も根強くある状態です。

逆を言えば魯粛は孫権に「名士の自分はどうにでもなるが、貴方様(孫権)はどうなるか分からない」と述べており、魯粛を忠臣として持ち上げられる見方も存在します。

後述しますが、ここで孫権が張昭の発言を聞き入れ、曹操に降伏していたら三国志の世界は成立せず平和が訪れたとする見解もある状態です。

赤壁の戦いでは孫権と劉備の連合軍は曹操と戦い、周瑜、程普黄蓋などの活躍もあり勝利しました。

因みに、赤壁の戦いの前に劉備は左将軍であり、孫権は会稽太守でしかなかったわけです。

勢力では孫権が勝っていても官位では劉備が勝っていました。

劉備が上表し孫権が車騎将軍となると、張昭は軍師となった話があります。

尚、赤壁の戦いで孫権は勝利し「降伏しなくて正解だった」となったはずですが、孫権は変わらず張昭を重用しました。

呉の名士の筆頭である張昭を孫権は、重用しないわけには行かなかったのでしょう。

三国志演義だと赤壁の戦いの前に諸葛亮が呉の朝廷を訪れ、張昭ら呉の群臣を次々に論破していく話がありますが、これは史実ではありません。

劉備が諸葛亮を孫権の元に派遣した事実はありますが、張昭と舌戦を繰り広げた記述は、正史三国志にはないという事です。

裴松之の見解

裴松之は張昭が孫権に降伏を進めた事は決して間違いではなかったのではないか?と考えました。

当時の曹操袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚を既に滅ぼしており、北方は平定され天下は曹操の元で纏まろうとしていたわけです。

ここで孫権が降伏していれば、曹操の元で天下統一されていた事でしょう。

孫権が曹操に降伏すれば、孫権には大して利益は無かったのかも知れませんが、天下の人々への恩恵は計り知れないものがあったと裴松之は考えました。

さらに言えば、降伏した張魯劉琮に対し曹操は好待遇で迎えており、孫権に対しても決して邪険に扱わなかったはずです。

それを考えれば、張昭が孫権に降伏を進めるのも決して間違った意見ではないとしたわけです。

西暦140年頃には中国の人口は5000万人ほどだったと考えられています。

ここから寒冷化などにより人口減はありましたが、三国志の世界が完全に終わった280年には人口は三分の一以下の1600万人まで激減していました。

孫権が張昭の勧めに従い降伏を受け入れていれば、多くの人々の血が流れずに済んだとも言えます。

さらに言えば、人口減少により中華では異民族を領内に引き入れてしまった部分もあり、五胡十六国の戦乱が起きました。

孫権が張昭の意見に従い曹操に降伏していれば、中華全体にとっての利益はかなり大きかったとも考えられます。

孫権を諫める

孫権の虎狩り

孫権は虎狩りを好んだ話があります。

孫権はいつもは騎馬で虎を射ていましたが、ある時、虎の突進により馬の鞍に前足を掛けた事がありました。

それを見ていた張昭は「危うい」と考え次の様に述べています。

張昭「将軍(孫権)様がこの様な事をなさる必要は一切ございません。

人の上に立つ者は豪傑を従え賢者を働かせるのが役目なのであり、野原を駆け巡り猛獣と格闘する必要はないのです。

もしも不慮の事故が起きたとしたら、天下の笑いものとなってしまいます」

張昭は孫権の身を心配しての言葉なのでしょう。

孫権もここではヒヤッとしたのか、張昭に「若気の至り」だと述べ詫びを言いましたが、狩猟を止める事が出来なかった話があります。

そこで孫権は虎狩り用の車を作り、孫権自身がその中に入り四角い窓から矢を放ち虎狩りをしました。

時には獣が孫権の車に近づいたりする事も多く、ここでも張昭は孫権を諫めますが、孫権は笑ってばかりいて聞かなかった様です。

張昭としては孫権にもしもの事があり、孫策の様な事態になってしまうと国が再び揺れてしまうと考え、注意したのでしょう。

酒癖が悪い孫権

孫権は後に武昌を首都としました。

この時に孫権は長江付近の釣台で酒宴を催し、気分がよかったのか多いに酔ったとあります。

孫権は悪酔いしたのか臣下に水をぶっかけ、、さらには次の様に述べました。

※正史三国志 張昭伝より

孫権「今日はしっかりと飲んで台から転げ落ちるほどに飲むぞ」

張昭は孫権の態度を見るに、毅然とした顔立ちで何も言わず、その場を去り馬車の中に入りました。

孫権は張昭の馬車に人を遣り呼び戻すと「皆で楽しもうと考えての事なのに、なぜ怒っているのだ」と問う事になります。

これに対し張昭は次の様に述べました。

張昭「古の殷の紂王は酒池肉林の行いをし長夜の飲までしましたが、一時の快楽の為にやっていると考えました。

殷の紂王は自分が悪い事をしているなど、想いもしなかったのです」

殷の紂王は古の暴君であり、張昭は孫権の行いが国を滅ぼすと忠告した事になります。

孫権も張昭の言いたい事を理解し、酒宴を中止しました。

尚、張昭の口から出た「長夜の飲」は夜通しで酒を飲む事を指します。

張昭が厳しく諫め孫権が従う様を見ると、親子の様にも見えて来るわけです。

魏の使者を一喝

呉の武の要である都督の役職は周瑜魯粛呂蒙陸遜と引き継がれていく事になります。

四大都督の呂蒙の時代に、呉は方向転換し北上した関羽の隙をついて蜀の荊州の領土を全て手に入れました。

これにより劉備孫権の仲は決裂し、劉備は関羽の敵討ちと称して荊州奪還の準備に入る事になります。

孫権の方では外交の孤立を防ぐ為か、魏の曹丕に服従しました。

曹丕は邢貞を派遣し孫権を呉王に封じる事を伝えますが、邢貞は宮門に入っても車を降りなかったと言います。

呉が魏に降伏するという事もあり、邢貞の態度も尊大になっていたのでしょう。

ここで張昭は次の様に述べました。

※正史三国志 張昭伝より

張昭「礼においては敬という事を忘れてはならぬと聞いております。

敬う気持ちがあればこそ、法も執行されるのですぞ。

貴方の態度を見るに尊大であり、江南には度胸がない者ばかりで、一寸の刃がないと思っているのか」

張昭は邢貞を威嚇したわけであり、張昭の気迫に押された邢貞は慌てて車ら降りたと言います。

邢貞は呉に到着した時には尊大さが見え隠れしていましたが、張昭の一喝や徐盛が涙を流す姿を見て「呉がいつまでも魏の下にいるわけがない」と述べた話しがあります。

尚、呉録の注釈に張昭が孫紹、滕胤、鄭礼らと、周代や漢代の礼制から朝廷の儀礼制度を制定したとあり、邢貞の呉の礼制から外れた行為に、なおさら許せなかったのでしょう。

この後に張昭は綏遠将軍となり、由拳侯に封ぜられたとあります。

丞相になれず

孫権は呉王となると丞相を設置しようと考えました。

群臣達は文官の筆頭でもある張昭を推しますが、孫権は次の様に述べています。

※正史三国志 張昭伝より

孫権「現在、やるべき事は多く百官を取り仕切る任務は重大である。

張昭を丞相を任じる事が優遇する事には繋がらない」

孫権は張昭を立てつつ気遣いの姿勢を見せつつも、丞相には任じませんでした。

孫権が丞相に任じたのは、功績もよく分からない孫邵です。

孫邵は孔融、劉繇と主君を変え、最後に孫権に仕えた人物であり、なぜ孫権が孫邵を呉の初代丞相に任命したのかは謎が多いと言えます。

225年に孫邵が亡くなると、群臣達は再び張昭を丞相にする様に進言しますが、ここでも孫権は張昭を丞相にはせず顧雍を選びました。

孫権は張昭を丞相に任命しない理由として、下記の事を述べています。

孫権「私は子布(張昭)殿に尻込みする事はない。

しかし、丞相の任務は多忙で彼は剛直な性格もあり、意見が通らない時は感情的な問題が起こる。

丞相に任ずる事は、彼の為にはならない」

孫権は張昭の性格や多忙さを理由に丞相に任命せず、顧雍に丞相としました。

張昭と孫権の性格による行き違いがあり、孫権は丞相に任命しなかったとも言われますが、孫権の言う様に張昭の剛直な性格が組織の円滑さを無くすと考えたのかも知れません。

軍を率いる張昭

張昭と言えば文官であり、戦争に出ないイメージがあるのかも知れません。

しかし、正史三国志の注釈の呉書を見ると、張昭が戦場に行った記録が書かれています。

基本的には張昭は孫権が出征した時に留守を務める事が多かった様です。

それでも、黄巾賊の残党が蜂起した時に張昭が討伐に向かい見事平定した話があります。

さらに、孫権が合肥を攻めた時には張昭は別動隊として匡琦を討ち、豫章郡の賊の頭領である周鳳が籠る南城を攻撃し打ち破った事が記録されています。

張昭と言えば文官としてのイメージが強いわけですが、武官としても有能だったのかも知れません。

張昭は厳格な性格もあり、軍隊の指揮には向いていた可能性があります。

しかし、匡琦、周鳳討伐以後は張昭が軍を指揮するのは稀だったとあり、孫権の側で参謀としての任務を行いました。

孫権も張昭が古参の臣下だという事もあり、特に重用した話があります。

尚、張昭が生まれたのは西暦156年であり、合肥の戦いが行われた頃には、体力的にも戦場を駆け巡るには辛い年になっていたのかも知れません。

張昭の暗誦

孫権は229年に皇帝に即位しました。

この頃には劉備曹操だけでではなく曹丕も亡くなっており、劉禅を補佐する諸葛亮曹叡の時代となっていました

こうした中で張昭も高齢となっており、病気がちを理由に官位や所領、兵士たちを返上した話があります。

孫権も張昭の願いを聞き届け輔呉将軍に任命し、朝廷での席次は三司に次ぐ者とし婁侯に封じ食邑万戸が与えられました。

これにより張昭は朝廷に出る機会が減り、時間が出来た事から『春秋左氏伝解』と『論語注』を著したと言います。

孫権がある時に、厳畯に「幼き日に覚えた書物を暗誦して欲しい」と告げました。

そこで厳畯は『孝経』の「仲尼おり、曽子待す」の部分を暗誦しています。

曽参は孝に優れていた人物であり、厳畯は「孝」について暗誦したと言えるでしょう。

これを聞いた張昭は、次の様に述べました。

※正史三国志 張昭伝より

張昭「厳畯は道理を分かってはおりませぬ。

私が陛下の為に暗誦致します」

張昭は言い終わると「君子の上に事うるや」の部分を暗誦したと言います。

張昭は君主の道を孫権に利かせたとも言えるでしょう。

これを聞いた人々は「張昭は主君に暗誦するべき道理を心得ていた」と称賛した話があります。

因みに、厳畯はここではパッとしない様に思うかも知れませんが、魯粛が後任に厳畯を推挙しており、決して凡庸な人物ではなかった事でしょう。

ただし、厳畯が「自分は学者に過ぎない」と述べ断った事で、呂蒙が後任となりました。

周瑜と張昭

江表伝によると、孫権は帝位に就くと文武百官を集め「自分が皇帝になれたのは周瑜のお陰だ」と述べました。

張昭もここで賛同し周瑜を称える言葉を述べようとしますが、孫権は張昭が言葉を発する前に次の様に述べています。

※江表伝より

孫権「あの時に降伏を主張した張公(張昭)に従っていたなら、今頃は人から物を恵んで貰う様な身分だったのかも知れない」

孫権は周瑜を称えると共に、張昭に対する嫌味とも取れる発言をしたわけです。

張昭は孫権の言葉を聞くと恥じ入ったとあり、孫権の言っている事に納得する部分もあったのでしょう。

この時の張昭は冷や汗を流したとあり、自身も赤壁の戦いで降伏しようとしていた事に対し間違いだと分かっていたはずです。

しかし、江表伝には張昭には信義があり人に恥ずかしくない行動を取った事で、孫権は張昭を敬い重く用いたとしています。

それと同時に、張昭を最後まで宰相にしなかったのは、主戦派の魯粛や周瑜と違って降伏を主張した事に対し、わだかまりがあったからではないか?ともしています。

張昭の存在感

蜀からの使者

張昭は正義を貫く人柄で、顔つきにも出ていたとあります。

これは頑固な性格を表すと共に、眉間に皺がよるなど、凄味のある顔つきでもあったのでしょう。

張昭は主君である孫権に対しても自分を曲げる事もなく発言し、孫権が気分を害し目通りする事が出来なくなりました。

張昭が朝廷にいない間に、蜀の使者が呉の朝廷を訪れ、蜀の素晴らしさを雄弁に語ったわけです。

蜀の使者の名前は不明ですが、呉の群臣たちの間では、誰も蜀の使者に対抗し呉の素晴らしさを語る者がいなかったと言います。

孫権は呉の群臣達にがっかりとし、嘆息して次の様に述べました。

※正史三国志 張昭伝より

孫権「張公がこの場にいてくれたなら、あの使者に対し屈服させる事は出来なかったにせよ、何も言い返せなくなっていた事であろう。

どうして、蜀の使者があのように威張る事ができたであろうか」

孫権は張昭がいなくなり、存在の大きさに気が付いたのでしょう。

それと同時に、張昭は孫権に対してのみ煩く言うのではなく、他国の使者であっても容赦なく自分の正義を貫く性格だった事が分かるはずです。

孫権の謝罪

孫権は張昭の偉大さに気が付き、翌日に使者を派遣し対面で話したいと告げました。

張昭は孫権の前に出ると陳謝し、孫権は押しとどめた話しがあります。

孫権としても張昭の存在感の大きさに気が付いており「謝る事は何もない」と思ったのでしょう。

張昭は席に戻ると、次の様に述べました。

張昭「過去に太后(孫権の母親呉氏)様と桓王様(孫策)に老臣を預けるのではなく、託してくださいました。

私は臣下としての本分を尽くし恩に報いようと考え、例え世を去った後でも、私の言葉が人々の口頭により伝わって欲しいと願っていました。

しかし、自らの短見浅慮により、お心を違えてしまい日の当たらぬ場所にあっては、このまま何も出来ず亡くなるとすら思っていた次第です。

所が陛下は私を引見し話を聞く機会を設けてくださいました。

私が未熟な心を持ちながらも国の為を想って発言するのは、国家の役に立ちたいと考える心と、誠意を尽くしたいと願い一生を捧げる所存だからでございます。

私はこれにより心身を入れかえ栄誉を盗み、主君の機嫌を取る為の発言を繰り返す事はいたしませぬ」

張昭の言葉を聞くと孫権は謝罪の言葉を述べたとあります。

孫権としても直言を述べる張昭に対し「今まで通りにやってくれ」と思ったのでしょう。

孫呉にとって張昭はいなくなると困る存在であり、対立する事はあっても必要な存在だと言えるでしょう。

遼東公孫氏の処遇

遼東公孫氏公孫度の時代から公孫康公孫恭公孫淵と続き半ば独立勢力を築いていました。

公孫淵は魏との関係悪化もあり、呉に服従を申し込んで来たわけです。

孫権は張弥、許晏を遼東に派遣し、公孫淵を燕王と成し服従を認めようと考えました。

孫権は公孫淵を燕王としようとしますが、これに反対したのが張昭であり、次の様に述べています。

※正史三国志 張昭伝より

張昭「公孫淵は魏に叛逆し危機を感じ入り、形式だけの服従を申し込んできたに過ぎません。

仮に公孫淵の気が変わり、自ら魏に対し忠誠を見せたならば、張弥と許晏は帰還出来なくなります。

これでは天下の物笑いにされてしまいます」

孫権は公孫淵の降伏を認めようと考え、張昭を説得しようとしますが、張昭の心は変わりませんでした。

さらに、張昭は自分を曲げる事はせず、自分を通そうとした事で、孫権はカッとなり剣を手に取ると激怒し、次の様に述べています。

孫権「呉の人々は宮中に入れば、私を拝するが、宮中の外に行けば貴方を拝している。

それは、私が貴方に対する最大限の礼を行っているからだ。

しかし、貴方は私を皆の前で何度もやり込めた。

私はお前の態度が国を傾させるのではないかと恐れているのだ」

孫権は溜まっていたものが噴出してしまったのでしょう。

尚、孫権の口から宮中の外に出れば皆が張昭を拝するとあり、呉において張昭の力が絶大だと指摘する声もあります。

これに対し、張昭は孫権を見つめ返すと、次の様に述べました。

張昭「私の意見を用いる事が出来ないと知りながらも、誠意を尽くして意見するのは、太后様が亡くなる時に寝所に呼ばれたからでございます。

私は太后様から遺言として後事を託されたこそなのです」

張昭は言い終わると涙を流しました。

張昭にとっても、孫権の言葉を聞き思う所が多々あったのでしょう。

孫権は張昭の言葉を聞くと、剣を投げ捨て玉座を降り張昭と向かい会って泣きました。

しかし、孫権は張昭の涙を以ってしても、心を変える事は出来ず張弥と許晏を遼東の公孫淵の元に派遣しています。

張昭としては、孫権が涙を流した事で、自分のいう事を聞いてくれたかとも思った様ですが、孫権が聞かなかった事で激怒しました。

意地の張り合い

張昭は孫権が遼東に使者を派遣した事で激怒し、病気と称して朝廷に出なくなったわけです。

張昭の態度に孫権も怒り、張昭の家の門を塞いでしまいました。

孫権が門を塞ぐと張昭も怒り内側から土で門を塞ぎ「絶対に門から出ない」とする態度を出します。

しかし、孫権が遼東に派遣した使者である張弥と許晏は、張昭の予測した通り公孫淵に斬られ魏の朝廷に送られました。

孫権は公孫淵に騙された事を悟り、張昭に詫びを入れますが、何度言っても張昭は聞き入れず家から出ようとしなかったわけです。

孫権は張昭の門の前まで行き張昭に声を掛けますが、張昭は重病だと答えて門から出ようとはしませんでした。

孫権はここで何を思ったのか、屋敷に火を点けて張昭を外に出そうとしますが、それでも張昭は外に出ようとしません。

張昭が意地でも外に出ない事を悟ると孫権は火を消しますが、帰る事はせず門の前にいました。

ここで張昭の子らが、張昭を無理やり外に出し孫権の前に連れて来ると、孫権は強引に張昭を車に乗せて宮中に向かいました。

孫権は張昭に会うと深く謝罪し、張昭の方も引き籠る事が出来なくなったのか、漸く朝廷に参内する様になったわけです。

孫権と張昭の関係を「親子」だという人がいますが、この姿を見ていれば納得いく人も多い様に感じています。

張昭の最後

正史三国志の張昭伝に張昭の最後の記述があり、嘉禾5年(236年)に81歳で亡くなったとあります。

張昭は遺言を残しており、幅巾(質素な頭巾)を冠らせ飾り気のない棺で普段着のままで葬る様に命じたとあります。

張昭の遺言を見るに、最後まで頭の方はしっかりとしていた様であり、ボケとは無縁だった事が分かるはずです。

孫権も張昭の意を組み葬儀の時は素服で挑み、張昭の諡を文侯としました。

「文」は諡号の中でも最上位に位置する事もあり、孫権が如何に張昭を高く評価したのかが分かります。

張昭の長男である張承は既に侯となっていた事から、張昭の爵位は末子の張休が継いだと言います。

尚、張昭が236年に亡くなったという事は、諸葛亮献帝が亡くなった(234年)よりも後であり、彼らの死を張昭が如何に見ていたのかは不明です。

張昭の評価

陳寿の評価

正史三国志の著者である陳寿は評の部分で、張昭は孫策の後を継いだ孫権を補佐し勲功を立てたと評価しました。

さらに、誠意を以って諫言した事や正道を行ったとあります。

張昭は自分の利益を計ろうとはしなかったが、態度が厳格であり孫権には煙たがられたと記載しました。

陳寿は孫権が最後まで張昭を丞相にしなかったり、晩年は朝廷に参内する事が少なくなったのは、孫権の器量において孫策に及ばなかったからだとしています。

陳寿は孫権に対し、張昭を丞相にすべきだと考えたのでしょう。

確かに、陳寿のいう事は当たっており、孫策に様な豪快な人物であれば、もっと大胆に張昭を使う事が出来たのかも知れません。

ただし、孫策が君主であれば、孫権と張昭の様な親子の様な関係は見られなかったはずです。

この記述だと孫権の器量が孫策に及ばない様に書かれていますが、孫策が君主だった場合に呂蒙は覚醒出来たのか?や魯粛を用いる事が出来たのか?と考えると、微妙な部分がある様に感じています。

呉の群臣の中でも孫策だから用いれる者もいれば、孫権だからこそ用いる事が出来た人もいたはずです。

習鑿歯の評価

習鑿歯の言葉が正史三国志の張昭伝の注釈に掲載されています。

先に孫権が張昭の門を塞ぎ、張昭も内側から門を塞ぎ、孫権が屋敷に火を点けても外に出なかった話をしました。

こうした張昭の頑固な態度を見て習鑿歯は「張昭は臣下の道から外れている」と断じています。

習鑿歯は三度進言して聴き入られなければ引退するものだと述べています。

さらに、孫権は張昭を殺害する意思は全くない事に目を付け、張昭が怒るのは筋違いだと習鑿歯は語っています。

秦の穆公は臣下の諫めに背いて鄭を攻撃し、晋の襄公に攻撃され敗れはしたが、後に西戎の覇者になっています。

さらに、重耳も斉で臣下の狐偃や趙衰に騙されましたが、春秋五覇の一人に数えられるまでになりました。

これらは君臣の道が正しく行われたから、覇者への道が開けたのであり孫権と張昭の関係は違ったと習鑿歯は述べたわけです。

張昭が引き籠った時の孫権は自分の間違いを悟り正しく修正しようとしたのに、張昭は自分の意見を用いなかった事を恨み外に出なかったと指摘しています。

他にも、孫権が火を点けた時にも動かず、座して死を待とうとする態度も習鑿歯は道義に悖ると張昭を非難しています。

習鑿歯の言っている事も最もであり、この時の張昭は孫権が詫びているのだから、もっと早く水に流すべきではなかったのか?とも感じました。

孫権の評価

張昭は常に堂々とした態度で臨み、孫権は常々次の様に述べていたと言います。

※正史三国志 張昭伝より

孫権「張公と話をする時には、いい加減な事は言えない」

孫権は張昭の事を国を挙げて畏敬の念を示したと言います。

孫権と張昭は何度もいがみ合いはしましたが、張昭のいう事は極めて正論であり、孫権も高く評価していたのでしょう。

呉の群臣の筆頭が張昭となるのも、大臣達の多くが張昭のいう事は正論であり反論の余地もないと考えた様にも感じました。

さらに、張昭には野心もなく徒党を組んだり政治闘争に身を投じるなども無かったのでしょう。

それ故に、煙たがられても張昭は重用されたと感じています。

尚、張昭は諸葛瑾の子である諸葛恪に対し、白頭翁の逸話などもあり反論出来なかった話もあり、諸葛恪ほどは頭の回転は速くなかったのかも知れません。

禰衡の評価

正史三国志の注釈・典略に魚豢が劉荊州から聞いた話が残っています。

ここでいう劉荊州は劉備だと考える人もいれば、劉表ではないか?と考える人もいます。

ちくま学芸文庫6巻呉書358頁では劉荊州は劉備だと訳されています。

劉荊州が自分で手紙を書いて孫策に送ろうとして、手紙の内容を禰衡に見せた事がありました。

禰衡は手紙を見ると、次の様に述べたと言います。

※典略より

禰衡「この様なものを孫策配下の若輩たちに読ませるつもりなのか。

それとも張子布(張昭)殿に読ませるつもりなのか」

張昭は手紙のレベルが低く、とても人様に見せれる様なものではないと禰衡は考えたのでしょう。

ここで注目したいのは、禰衡の口から張昭の名前が出ている事です。

禰衡と言えば曹操の配下の孔融と楊脩を絶賛し、荀彧と趙融を酷評した人物でもあります。

しかし、禰衡の発言からは張昭の事を評価している様にも見えるわけです。

さらに、呉では張昭は仲父と呼ばれた話も掲載されています。

仲父は斉の桓公が管仲に対して呼んだ名前であり、張昭が如何に呉の人々から尊崇されていたのかが分かる話です。

張昭は国民からの信望も厚い人物だと感じました。

張昭は名臣と呼べるはずです。

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宮下悠史

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