
| 名前 | 武内宿禰(たけのうちのすくね) |
| 別名 | 建内宿禰(古事記) |
| 生没年 | 不明 |
| 時代 | 古代日本 |
| コメント | 古代日本の伝説的な名臣 |
武内宿禰は六代の天皇に仕えたとされる人物であり、古代日本においては伝説的な名臣となります。
景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇に仕えたとも伝わっています。
成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた話があります。
その年齢は300歳を超えてしまいますが、とても事実だとは言えないでしょう。
武内宿禰の長寿伝説はあくまでも伝承であり、複数の人物の記録がまとめられらものなどの説もあります。
ここでは、時代順に武内宿禰の実績を解説します。
武内宿禰と景行・成務の時代
景行天皇の25年春2月12日に景行天皇は武内宿禰を北陸や東北に派遣し、様子を探らせました。
2年後の景行天皇の27年2月12日に武内宿禰は東国から帰還すると、東国の田舎に日高見国があり、日高見国の人々は男女共に髪を椎の様に結い、体に入墨をして勇敢であり、蝦夷と言うと報告しました。
さらに、武内宿禰は日高見国は土地は豊かであり、攻め取ってしまうのがよいと進言しています。
景行天皇の時代に武内宿禰の実績は、日高見国を討つ様に進言した事と、酒宴の時に稚足彦(成務天皇)と共に警備を疎かにしなかった話くらいしかありません。
成務天皇の時代になると、武内宿禰は成務天皇と同じ日に生まれた事から寵愛した話があります。
武内宿禰と仲哀天皇
仲哀天皇の9年に、仲哀天皇は病死しました。
この時に日本書紀に神功皇后と武内宿禰が、仲哀天皇の死を隠し天下に知らせなかった話があります。
この時点ではまだ応神天皇は誕生しておらず、神功皇后や武内宿禰にとって都合の悪い出来事だったとみる事が出来ます。
尚、神功皇后と武内宿禰はかなり親しい中であり、神功皇后のお腹の中にいた応神天皇の本当の父親は武内宿禰だったのではないかとする説もあります。
ただし、応神天皇の父親が誰なのかは、今となっては調べようがないとしか言いようがありません。
神功皇后は三韓征伐を成し遂げ、大和に帰る事になります。
応神天皇も誕生しますが、異母兄の忍熊王の軍と戦う事になりました。
忍熊王との戦い
武内宿禰の策
武内宿禰は武振熊に命じて数万の兵を率いて忍熊王を討たせたとあります。
この時に忍熊王の先陣を務める熊之凝が歌を詠みあげ指揮を高めました。
武内宿禰は熊之凝の軍が強いと見たのか、三軍に髪の毛を結い上げされ、次の様に命令しています。
※日本書紀より
武内宿禰「それぞれが予備の弓づるを髪の毛に隠し、木刀を持たれよ」
武内宿禰は味方の軍の髪の毛に弓づるを隠し持たせた状態で、敵と対峙させたわけです。
木刀を持たせたと言うのは、最低限の武器を手にし武装解除した様に見せかけました。
直、日本書紀だと武内宿禰が弓の弦を隠し持つ作戦を考えた事になっていますが、古事記では建振熊命が「神功皇后が崩御した」とする情報を流し、弓の弦を切り偽りの降伏をした事になっています。
忍熊王を欺く
武内宿禰は神功皇后の命令だと称し、忍熊王に次の様に述べました。
武内宿禰「私は天下を貪らず、ただ単に若い王を抱いて君に従うだけのものです。
この私がどうして戦闘など行うでしょうか。
どうか共に弓の弦を切り武器を棄てて、和睦したいと考えております。
君主は皇位につき、安らかに政務を行えばよいのです」
武内宿禰は言い終わると、全ての弓の弦を切り、武器を川に投げ入れたわけです。
忍熊王は武内宿禰の言葉を信じ、自らも弓の弦を切り武器を河に投げ入れさせています。
追撃
武内宿禰は忍熊王が武装解除した事を確認すると、部下に命じて控えの弦を出す様に命じました。
武内宿禰の軍は先に髪の毛に隠してあった控えの弓の弦を出し、忍熊王の軍に攻撃を仕掛けたわけです。
忍熊王は欺かれた事を悟ると倉見別と五十狭茅宿禰に「騙された」と語り敗走しました。
武内宿禰は精鋭の兵士により追撃を行い近江の逢坂で追いついて、忍熊王の軍を多いに破る事になります。
ただし、古事記の記述では逢坂で忍熊王の軍が反撃に転じますが、忍熊軍が敗れた事になっています。
忍熊王の逃亡した兵士の多くは狭狭浪(さざなみ)で栗林にて多くが斬られたと言います。
この時の惨殺劇は凄まじかったのか、血が多く流れて栗林に溢れたと言います。
天皇家では栗林での惨殺劇がトラウマになったのか、栗林の実を御所に奉らなくなったとあります。
忍熊王は逃げる場所もなく、五十狭茅宿禰の前で最後の歌を詠みあげると水に潜り最後を迎えました。
それを見た武内宿禰は次の歌を詠みました。
※日本書紀 全現代語訳 著者・宇治谷孟子 199頁より
淡海の海の瀬田の渡りで、水に潜る鳥が見当たらなくなったので、不安だなあ。
武内宿禰の歌
忍熊王の遺体を探しますが、なかなか見つからず何日か経った後に宇治川で見つかったとあります。
武内宿禰は歌を詠みました。
※日本書紀 全現代語訳 著者・宇治谷孟子 199頁より
近江の海の瀬田の渡りで、水に潜った鳥は田上を過ぎて、下流の宇治で捕えられた。
これにより忍熊王と香坂王の乱は終焉を迎えたわけです。
武内宿禰の功績は極めて大きかったと言えるでしょう。
神功皇后の酒
神功皇后の13年春二月八日に皇太子(応神天皇)に従い武内宿禰が敦賀の氣比神宮にお参りしたとあります。
応神天皇は17日に敦賀から若桜宮に帰還しました。
この日に神功皇后が太子の為に大殿で大宴会を催したとあります。
神功皇后はお祝いの為の言葉を歌いました。
神功皇后の歌は少名毘古那神の名前を出すなど、酒を勧める歌を詠みました。
神功皇后はまだ子供であり、歌も作れず酒も飲めずだったらしく、武内宿禰が代わり返事の歌を詠んでいます。
※日本書紀 全現代語訳 著者・宇治谷孟子 201頁より
この神酒を醸した人は、その鼓を臼のように立てて、歌いながら醸したからであろう。
この神酒の何ともいえずおいしいことよ。
武内宿禰が返歌を詠んだという事は、幼い応神天皇に代わり武内宿禰がお酒を飲みほしたという事なのでしょう。
新羅再征
百済の近肖古王は、倭国への貢物の使者として久氐、弥州流、莫古を派遣してきました。
この時に新羅の朝貢の使者もやって来たのですが、百済の朝貢の代物が百済よりも大きく劣っていたわけです。
百済の久氐は貢物を新羅に奪われたと訴えた事で、取り調べを行う為の占いをすると「武内宿禰に任せ千熊長彦を使者にすれば願いが叶う」と出ました。
この後に千熊長彦は新羅に行き、この後に荒田別と鹿我別が将軍となり新羅討伐を成功させています。
新羅再征では武内宿禰の名前はほぼ出て来ませんが、倭国にいて全体の戦略などを考えたのが武内宿禰だった可能性はあるはずです。
この後に百済は神功皇后が喜ぶほどの朝貢をしており、応神天皇や武内宿禰の前で喜びの言葉を語った話が残っています。
日本最初の宮廷闘争
神功皇后が亡くなると、武内宿禰は応神天皇に仕える事になります。
応神天皇の9年に武内宿禰は筑紫に人民の監察の為に向かいました。
武内宿禰が大和から離れると、弟の甘美内宿禰が武内宿禰を除こうと考え讒言しました。
武内宿禰は神功皇后の時代に絶大なる功績があり、応神天皇も警戒していたのか、甘美内宿禰の言葉を信じ武内宿禰に死罪を賜わりました。
武内宿禰は死罪の話を聞くと嘆きますが、この時に壱岐値真根子が制止しています。
壱岐値真根子は自分が身代わりになると述べ自刃し、武内宿禰は密かに船で筑紫を離れ南海ルートで紀伊の港に泊まりました。
武内宿禰は謀反を起こす気はないと述べ、弟の甘美内宿禰と論争を引き起こしています。
応神天皇もどちらの言っている事に分があるのか判断する事が出来ず、神明裁判である盟神探湯と行わせる事にしました。
武内宿禰は甘美内宿禰と盟神探湯を行い勝訴を勝ち取る事になります。
武内宿禰は甘美内宿禰の事が腹に据えかねていたのか、殺害しようとしますが応神天皇が止めました。
古代の神明裁判である盟神探湯により、武内宿禰は助かったわけですが、武内宿禰と甘美内宿禰の戦いが日本で最初の宮廷闘争だったとも考えられています。
今までは神武天皇が崩御し綏靖天皇の時代から皇位継承問題により、皇族が争う事はあっても臣下同士が争う事は無かったわけです。
宮廷闘争が起きるという事は、大和王権も勢力を拡大し臣下達も力を持つ様になったと見る事も出来ます。
武内宿禰と仁徳天皇
武内宿禰の子に木菟宿禰がいますが、仁徳天皇と同じ日に生まれた話が残っています。
ただし、先にも述べた様に成務天皇と武内宿禰も誕生日が同じだった話があり、成務天皇と武内宿禰の話の焼きまわしだったのではないかとする説もあります。
仁徳天皇の50年春3月5日に河内の人が「茨田の堤に雁が子を産みました」と言ってきました。
ここで仁徳天皇は次の歌を詠み武内宿禰に問いました。
※日本書紀(講談社学術文庫)より
朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。
あなたこそ国の第一の長生きだ。
だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。
仁徳天皇の問いに対し、武内宿禰は次の様に返しました。
我が大君が、私にお尋ねになるのはもっともなことですが、倭の国では雁が産卵するということは、私は聞いておりません。
雁は産卵する生き物ですが、日本にいる時期は産卵する事はありません。
日本では雁という鳥は知っていても、産卵する所を見た事がないのが普通だったのでしょう。
尚、武内宿禰は既に六代の天皇に仕えている事になり、長寿で知れ渡っていた事になります。
この話が武内宿禰の最後の話となっており、仁徳天皇の時代に亡くなったとみる事も出来ます。