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盟神探湯(くかたち)は古代日本の理不尽な神明裁判

2024年1月4日

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宮下悠史

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名前盟神探湯
読み方くかたち
時代古代日本
方法熱湯に手を入れて正邪を判別する神明裁判
コメント現代ではありえない裁判方法

盟神探湯は古代日本の神明裁判であり、古事記や日本書紀に行われた記録があります。

日本書紀では応神天皇、允恭天皇、継体天皇の時代に盟神探湯が行われたとされています。

盟神探湯のやり方は簡単であり、お湯の中に手を入れて手が爛れ火傷をすれば嘘を言っている事になります。

逆を言えば、熱湯の中に手を入れても火傷しなければ、身の潔白が証明されるわけです。

普通に考えれば、熱湯の中に手を入れて火傷しないはずがなく、現代人からみれば理不尽な方法となります。

盟神探湯で火傷しない方法は、基本的には存在しません。

尚、日本書紀では応神天皇や允恭天皇が盟神探湯を行うと、真実が証明されたのにも関わらず、継体天皇の時代に近江毛野が行うと悪政の代名詞となりました。

同じ行いをしても、記録の中で正邪が反対になるのも、盟神探湯の理不尽な部分でもあるはずです。

中国側の隋書倭国伝にも、倭人が盟神探湯を行っていた記録があり、古代日本社会において実際に盟神探湯が行われていた可能性があります。

武内宿禰と甘美内宿禰の盟神探湯

記録上で最初の盟神探湯が日本書記の応神天皇の9年の出来事という事になります。

大功臣である武内宿禰が九州の筑紫に出向いている隙に、弟の甘美内宿禰が讒言を行いました。

応神天皇は武内宿禰に死を命じますが、壱岐値真根子が犠牲となり武内宿禰は大和に戻りました。

応神天皇の前で武内宿禰と甘美内宿禰が論争を起こしますが、応神天皇は判別する事が出来ず、盟神探湯で決着をつける様に命じます。

磯城河畔で武内宿禰と甘美内宿禰が盟神探湯を行いますが、武内宿禰は熱湯に手を入れても火傷しませんでしたが、甘美内宿禰は火傷してしまいました。

これにより武内宿禰の身の潔白が証明され、甘美内宿禰の敗北が確定したわけです。

応神天皇の時代の盟神探湯を見るに、身の潔白が証明できるなど、優れた判別方法となっています。

しかし、普通に考えて熱湯を手に入れても火傷しない武内宿禰は明らかに普通ではなく、何らかのイカサマを行っていたと考える事が出来ます。

常識で考えれば盟神探湯を行い火傷しない方法は存在せず、むしろ武内宿禰が嘘をついていた様にも見えるわけです。

それでも、応神天皇の時代の盟神探湯は讒言した甘美内宿禰が敗れるなど、勧善懲悪としての面もあります。

允恭天皇の盟神探湯

日本書紀に允恭天皇の4年秋9月9日に、次の詔を出しています。

※日本書紀より

上古の時代は国がよく治まり人民も安定し氏姓が誤る事もなかった。

私が践祚して4年となるが、上下は争い民衆も安らかにいるわけではない。

間違って自分の姓を失う者もいるほどだ。

他にも、故意に高い氏を詐称する者もおり、国がよく治まらないのは、これが原因であろう。

私は微力ではあるが、この誤りを正そうと思う群臣はよく議論を行う様に。

允恭天皇は国が治まらないのは、氏姓の乱れにあると群臣に告げました。

群臣らも允恭天皇の熱意を感じたのか、考えに賛同したわけです。

当時ですが、天照大神の命令により、高天原から下界に舞い降りた瓊瓊杵尊による天孫降臨に先祖がお供したとか、天地開闢の事を述べて氏姓を高く見せようとする者が多かったのでしょう。

允恭天皇は氏姓の詐称を本当かどうか調べる為に、盟神探湯を行う様に命じました。

允恭天皇は甘樫丘に釜を用意し、斎戒沐浴させ盟神探湯を行わせる事にしたわけです。

この時に「真実を告げた者は損なわれないが、偽りを述べた者は損傷を受けるであろう」と述べます。

普通で考えれば、熱湯に手を入れれば皆が火傷し、傷つく筈であり、多くの者が痛い目を見て終わる様に感じるのではないでしょうか。

しかし、允恭天皇の時代の盟神探湯は大成功に終わり「真実を述べた者は何もなく、偽った者は皆が傷ついた」とあり、故意に欺いた者は怖気づき前に進む事が出来なかったとあります。

常識で考えればありえないのですが、允恭天皇の時代の盟神探湯は大成功を修め「氏姓が定まり偽る者がいなくなった」と記録されています。

ここでも盟神探湯はうそ発見器の役割を果たし、見事に機能を果たした事になります。

しかし、常識的に考えてみれば、熱湯に手を入れて火傷しないはずがなく、火傷しなかった者は何らかの詐術を行った事になるでしょう。

それでも、允恭天皇の時代までは盟神探湯が正邪を見抜く有効な役割を果たしました。

允恭天皇の時代に盟神探湯を行った記述は、簡略ですが古事記にも存在します。

允恭天皇が盟神探湯を行ったとされる飛鳥の甘樫丘に、甘樫坐神社があります。

近年になると盟神探湯の神事が復元され、毎年4月の第一日曜日に盟神探湯が行われています。

しかし、甘樫坐神社の神事では実際に手を入れるわけにはいかないので、代わりに熊笹の葉を湯釜に入れ笹の色が変わらなければ、正直だとされるわけです。

現代においても、盟神探湯の行事の雰囲気を味わうことが出来ます。

名前住所
甘樫坐神社 奈良県高市郡明日香村豊浦626

盟神探湯が悪政の代名詞となる

継体天皇の時代にも盟神探湯を行った記録があります。

今までは応神天皇、允恭天皇と天皇が盟神探湯を命令し行わせましたが、継体天皇の時代は臣下の近江毛野が盟神探湯を行わせました。

任那が新羅に攻められて窮地に陥ると、大和王権では近江毛野を朝鮮半島に派遣しました。

しかし、磐井の乱が勃発し近江毛野は進む事が出来ず、物部麁鹿火により磐井の乱鎮圧の後に朝鮮半島に渡航しています。

近江毛野は新羅と百済の王を呼び出したり横暴な行動が目立ち、後に問題行動が朝廷に奏上されました。

近江毛野が朝鮮にいる時に、日本人と任那人の混血が進み問題となっていました。

この時に、近江毛野は盟神探湯を使い世を正そうとし、その方法が次の通りです。。

※日本書紀より

近江毛野は好んで誓湯を行い「正直な者は爛れないが、嘘をいう者は直ぐに爛れる」と述べております。

実際に熱湯の中に手を入れさせ、湯につけられて爛れ死ぬものが多い。

上記の記述を読めば、近江毛野が盟神探湯を行った事は確実でしょう。

しかし、近江毛野の盟神探湯は効果を上げるところが人々を苦しめるものに変わっており、悪政の代名詞になっている事が分かるはずです。

盟神探湯という同じ行為をしたにも関わらず、応神天皇、允恭天皇は成果をあげ讃えられる行動になったにも関わらず、近江毛野が行うとたちまち悪行に変わってしまいました。

古代社会の盟神探湯

応神天皇や允恭天皇は実在したとも考えられますが、はっきりとしない部分もあり伝説上の人物でもあります。

応神天皇や允恭天皇の記録を見ると、全てが史実だとは言い難いはずです。

上記の二人の天皇の時代には優れた効果を発揮した盟神探湯ですが、継体天皇の時代の近江毛野が行うと、たちまち悪政の代名詞となってしまいました。

盟神探湯を行った応神天皇や允恭天皇は真実を究明する為の有効手段として称賛されたのに、継体天皇の時代になると「迷信じみた怪しげな方法」となっており「酷い裁判方法」として扱われています。

日本書紀は政治色が強いと言われますが、天皇が行うと良法となり臣下が行うと悪法に変わったとみる事も出来ます。

ここに古代日本人から見た盟神探湯の姿が現れてもいるわけです。

古代社会において盟神探湯は古代の聖王が行った施策として評価される反面で、無条件に信じられたわけでもないのでしょう。

近江毛野を見ていると、古代日本人の間でも盟神探湯に対する懐疑的な見方も存在した事が分かります。

隋書倭国伝の記述

中国側の隋書倭国伝に、盟神探湯だと思われる記述が存在します。

※隋書倭国伝より

小石を熱湯の中に置き、争っている者たちにこれを拾わせ、手が爛れた者に過失があると判断していた。

上記の記述を見る限り、明らかに盟神探湯だと言えるでしょう。

さらに、隋書倭国伝には倭人の裁判において「釜の中に蛇を入れて噛まれたら有罪」とするものもあったと記録されています。

日本側としては盟神探湯の記録は存在しますが、釜の中に蛇を入れる方法は古事記や日本書紀を見ても存在しません。

現代人からしてみれば、盟神探湯は非科学的で理不尽な方法に思うかも知れませんが、古代の日本社会において盟神探湯は実際の行っていた可能性が十分にあります。

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