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親魏倭王の称号の意味と金印の謎

2023年9月16日

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宮下悠史

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名前親魏倭王
読み方しんぎわおう
関係国魏(三国志)、邪馬台国

親魏倭王は魏の朝廷が卑弥呼に与えた称号です。

卑弥呼は親魏倭王の称号を得た事で、中華王朝の魏から倭王としての位を認められました。

卑弥呼に詔が下り金印が与えられたわけです。

当時の邪馬台国は倭国を完全制圧出来たわけでもなく、狗奴国とは争っている状態でした。

こうした中で卑弥呼は魏に朝貢し、親魏倭王の位を授与し魏の権勢を後押しとし戦いを有利に進めたいと考えたのでしょう。

正史三国志の中で親魏●●に任命されたのはクシャーナ朝が親魏大月氏王に任命されており、倭国と合わせて二国しかありません。

朝鮮半島の国々が親魏韓王などに任命されていない事から、倭国とクシャーナ朝は魏から特別扱いを受けていたとも考えられています。

今回は金印を授けられた記録もある親魏倭王の解説をします。

尚、日本書紀の神功皇后の巻の中で、突如として倭国が魏に朝貢した話が出ていますが、個人的には日本書紀の記述も誤りだと感じています。

神功皇后と魏志の記述に関しては、卑弥呼の話と合わせて神功皇后の記事で解説しています。

魏に朝貢の使者を出す

正史三国志によると景初2年(西暦238年)に倭の女王が大夫の難升米や都市牛利を派遣し、朝貢を行ったとあります。

同年に司馬懿が遼東王国の公孫淵を滅ぼした事で、三韓や倭の使者が魏に行ける様になったわけです。

卑弥呼が難升米を派遣した理由は、勿論、親魏倭王の位だった事でしょう。

卑弥呼は倭国大乱から女王となりましたが、国内では狗奴国との争いがあり、魏を後ろ盾とする親魏倭王となり戦いを有利に進めたかったはずです。

さらに、魏に朝貢すると莫大な返礼品があり、返礼品を目当てにして朝貢した部分も多々ある様に感じています。

難升米は帯方郡の劉夏の所まで辿り着き、12月には魏の首都である洛陽まで案内されています。

皇帝からの詔

正史三国志によると238年12月に詔書が魏の皇帝から下される事になります。

ただし、当時の魏の皇帝である曹叡は翌月に崩御しており、曹叡が直接発行したわけでもないのでしょう。

詔書の文章は下記の様になっています。

※正史三国志 東夷伝(魏志倭人伝)より

親魏倭王の卑弥呼に制詔を下す。

魏の帯方郡の太守である劉夏が使者を用意し汝の大夫難升米や副使の都市牛利を護衛とし献上物を捧げてきた。

男性の生口4名、女性の生口6名を班布二匹二丈を奉じている。

汝は遠方の地にいるにも関わらず、使者を派遣し献上物を送って来た。

これこそが汝の忠孝の表れであり、私は汝に心を突き動かされた。

汝を親魏倭王とし金印の紫綬を仮授するが、その印綬は封印し帯方郡の太守に託す。

汝は自分の国の種族を鎮め安んじ孝順に務める様にせよ。

汝が派遣した使者である難升米と都市牛利は、長い道のりを旅し苦労を重ねてここまでやってきた。

そこで難升米を率善中郎将に任命し、都市牛利を率善校尉とし銀印青綬を仮授し引見して労いの言葉を掛けた。

下賜品を与え帰途につかせる事とする。

卑弥呼は難升米や都市牛利を派遣した事で、遂に親魏倭王に任命される事になったわけです。

卑弥呼が1回の使者で親魏倭王に任命されたのは、魏では倭国は遠くにあり遠征する事も出来ず、気軽に親魏倭王に任命してくれたのではないか?とも考えられています。

尚、魏では三韓の南に倭人がいる事は分かってはいましたが、その先がどうなっているのか、よく分からない状態だったとも考えられるはずです。

卑弥呼が魏に朝貢した事で、魏では倭国の情報を知る事になったとも伝わっています。

因みに、制詔の部分は後世の人間であっても改変せず保管するのが普通であり、魏志倭人伝の中で最も信憑性が高いのが皇帝の制詔の部分だとも考えられています。

莫大な返礼品

魏では朝貢し親魏倭王とした卑弥呼に対し、下記の返礼品を用意しました。

絳地交龍文の錦五匹、絳地縐粟の罽10張、蒨絳五十匹、紺青五十匹

卑弥呼が男女の奴隷を合わせて10人と班布二匹二丈を献上したのに対し、魏では献上物への返礼品を多く与えたわけです。

卑弥呼の方では人間が奴隷(生口)として献上されてはいますが、魏の方が多くの返礼品を出している事が分かります。

尚、倭国としては魏に献上しても大して喜ぶ特産物がなく、奴隷を献上したとも考えられています

魏では親魏倭王の卑弥呼に対し、次の品物を追加で下賜しました。

紺地句文の錦三匹、細班華の罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二ふり

銅鏡100枚、真珠と鉛丹をそれぞれ五十斤

魏ではこれらを全て箱に入れ封印し、難升米と都市牛利に目録と共に持たせ卑弥呼への返礼品としたわけです。

ここまで行くと、卑弥呼が献上したものの10倍の返礼品を魏では用意しており、周辺国にとってはこれが朝貢の醍醐味だったのでしょう。

魏としても遠方の国が朝貢にやってくるのは、徳の高さであり皇帝の権威の上昇に繋がり喜ばしい事でもあったわけです。

尚、卑弥呼は親魏倭王となり柵方されましたが、柵方されなくても朝貢すれば莫大な返礼品があったと考えられています。

さらに、詔書では卑弥呼を労いました。

下賜した物の全ては汝(卑弥呼)の国の者達に示し、魏の朝廷が汝らに深く心を注いでいる事を知らしめる様にせよ。

それ故に、さらに丁重に汝に良き品々を下賜したのである。

魏では卑弥呼に親魏倭王としただけではなく、莫大な返礼品を倭国で見せびらかせ、魏の後ろ盾を得ている事を示せと述べたわけです。

再び朝貢

240年になると帯方郡の太守は劉夏から弓遵に変わっていました。

弓遵は梯儁と共に倭国に行き、倭王の位を仮授したとあります。

これにより卑弥呼は正式に親魏倭王となり、金印も授かったのでしょう。

この時に卑弥呼は親魏倭王の金印だけではなく、莫大な品々を下賜された話があります。

卑弥呼は弓遵や梯儁を通じて、魏に上表し感謝の気持ちを伝えました。

さらに、卑弥呼は243年に伊聲耆、掖邪狗ら8人を派遣し再び魏に朝貢しています。

卑弥呼としても魏に朝貢する旨味を覚えたのでしょう。

卑弥呼が親魏倭王になった理由

卑弥呼がわざわざ魏まで使者を出し朝貢し、親魏倭王の位を望んだ理由ですが、魏の権威を後ろ盾にして国内と纏めたかったのが実情といった所でしょう。

邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼は仲が悪く、卑弥呼が倭国内を完全統一している様な状態ではありませんでした。

さらに言えば、邪馬台国と狗奴国は戦争まで始めてしまう始末だったわけです。

魏では帯方郡の張政を派遣し邪馬台国と狗奴国に戦争を止める様に調停しています。

魏志倭人伝には張政の調停により戦争が止まったのかの記述はありませんが、邪馬台国は狗奴国に苦戦し魏に臣従し親魏倭王となり、狗奴国との戦いを有利に進めたかったのでしょう。

さらに言えば、卑弥呼は狗奴国との戦争を止めたいと考えており、親魏倭王となり魏に仲介を求めた可能性もあります。

倭国では過去に奴国が光武帝に朝貢した話があり、当時の奴国は邪馬台国の支配下に組み込まれていた事で、朝貢の旨味を知っており、卑弥呼は公孫淵が滅びる前から朝貢を行いたいと考えていたのかも知れません。

尚、張政の仲裁で邪馬台国と狗奴国の戦いは停戦となり、親魏倭王の効果はあったのではないか?とする説もある状態です。

仲裁に成功したのであれば、遠方の倭国であっても大国である魏の命令に従わないわけには行かなかった事になります。

親魏倭王の金印

親魏倭王の金印は魏の曹叡もしくは曹芳の手から、卑弥呼の手に移ったはずです。

漢委奴国王印は発見されていますが、現在でも卑弥呼に送られたという親魏倭王の金印は見つかっていません。

しかし、一つの説として魏が西晋に変わった時に、倭国の女王(台与だと思われる)が朝貢した話があります。

これが266年の事であり、この時に親魏倭王の金印は西晋に返還したのではないか?とも考えられています。

そして、西晋では親魏倭王の金印に代わり、親晋倭王の金印を与えたのではないかともされています。

しかし、史書には親晋倭王の金印を倭国に下賜したとする記述がなく正確な所は不明です。

それを考えれば、邪馬台国の滅亡の時まで親魏倭王の金印を持っており、滅亡の混乱の中で紛失してしまったとも考えられるはずです。

現在まで親魏倭王の金印が何処にあるのかは不明であり、日本の何処かに眠っている可能性もあります。

親魏大月氏王との関係

正史三国志を見る限りでは、親魏●●と呼ばれた王に柵方された者は、親魏倭王の卑弥呼親魏大月氏王に任命されたヴァースデーヴァだけとなります。

尚、親魏大月氏王となっていますが、実際には大月氏国ではなくクシャーナ朝の事です。

親魏大月氏王の情報が倭国の位置に影響を与えたとする説があります。

洛陽からクシャーナ朝までの距離が16370里であり、クシャーナ朝に朝貢を行わせたのは曹真の功績という事になっています。

それに対し、倭国は司馬懿公孫淵を滅ぼす事で倭国が朝貢出来る様になったとする経緯があります。

曹真の子の曹爽と司馬懿は政敵でもあり、司馬懿の孫である司馬炎に仕えたのが正史三国志の著者である陳寿です。

それらを考慮し、曹真の功績よりも司馬懿の功績を上とする為に、倭国の距離を事実よりも遠くにしたのではないか?とする説があります。

実際に正史三国志の記述を見ると下記の様になっており、親魏倭王に任命された倭国の方が国力も多く遠くの国という事になっています。

国名大月氏国(クシャーナ朝)倭国
称号親魏大月氏王親魏倭王
洛陽からの距離16370里17000里
戸数10万15万
人口40万75万
精鋭10万??

陳寿は帯方郡から1万2千里の彼方に邪馬台国があると記述しましたが、実際には司馬懿の功績を盛る為に記述したのではないか?とも考えられているという事です。

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