公孫脩は公孫淵の子であり、正史三国志の本文や魏略に名前が登場します。
魏略や正史三国志の記述を統合してみると、公孫脩は公孫淵の3人の子のうちの一人だった様です。
公孫淵は238年に司馬懿に敗れ滅亡しています。
しかし、正史三国志の記述によると、司馬懿によって襄平が陥落寸前になった時に公孫脩は公孫淵と共に血路を開いて脱出しようしました。
公孫淵と公孫脩の親子は朝鮮に落ち延びようとしたとも考えられますが、多勢に無勢であり最後は司馬懿に斬られています。
魏略の記述
公孫淵は呉と通じ、孫権は公孫淵を燕王に封じようとしますが、公孫淵は気が変わり孫権の使者を斬首しました。
公孫淵は呉の使者の首を魏の首都・洛陽に届け、釈明文をだしますが、次の一文が存在します。
※魏略より
孫権が私(公孫淵)の家族についてあれこれと質問をし、使者の宿舒と孫綜は、私には3人の子がおり、公孫脩は私の亡き弟の家を継いだと答えました。
上記の記述から公孫淵には公孫脩も入れると3人子のがいた事が分かります。
公孫脩は後に公孫淵と共に司馬懿の攻撃を受けて逃亡しようとしており、兄弟の中では年長だった様に感じました。
公孫淵の父親である公孫康が亡くなった時に、公孫淵と兄の公孫晃が幼かった事で、弟の公孫恭が後継者になった話があります。
それらを考えると、公孫脩は年がかなり若く、238年の最後の戦いの時でも20歳にも満たない子供だった様にも感じました。
さらに言えば、公孫康には公孫晃、公孫淵の他に、もう一人子供がおり公孫脩が養子に行っている事も分かるはずです。
ただし、公孫脩は年長だったとも考えられ、公孫淵の正妻の子ではなく妾腹の子で養子に出されたのかも知れません。
公孫脩の最後
公孫淵は呉に色気を見せたかと思えば、魏に臣従してみせるなど一貫性のない行動を取りました。
魏の皇帝曹叡からは不信感を持たれ、遂に討伐を受ける事になります。
幽州刺史・毌丘倹の攻撃は撤退に追い込みますが、司馬懿との遼隧の戦いでは最終的に襄平の城に追い込まれ窮地となります。
公孫淵は司馬懿が和睦も降伏も許されない事を悟ると、騎兵数百及び公孫脩と共に脱出を試みました。
正史三国志の記述によると公孫淵と公孫脩の親子二人と騎兵で、南東に血路を開き逃亡しようとした話になっており、公孫淵の3人の子の中で公孫脩だけが父親に従ったのでしょう。
個人的には公孫淵の子の中で公孫脩以外は、幼過ぎて脱出軍に加える事が出来ず城に残った様に感じています。
公孫淵と公孫脩の脱出は死に物狂いだった様ではありますが、司馬懿は大軍で公孫淵、公孫脩親子の軍を急襲したとあります。
司馬懿の攻撃に耐えきれず公孫脩は父親と共に命を落としています。
先にも言いましたが、公孫脩は若くして亡くなったのではないかと感じました。
公孫脩は無念の最後を迎えた様にも感じています。