公孫晃は正史三国志や三国志演義に登場し、遼東公孫氏の一族の一人です。
三国志演義では公孫淵が燕王を称した時に、兄として名前が挙がる程度の記述しかありません。
公孫晃は公孫淵の兄であり、本来ならば遼東公孫氏を継ぐ立場でしたが、中央に出仕していた事で後継者になる事が出来ませんでした。
公孫晃は公孫淵が反旗を翻した時に、討伐を訴え掛けますが、却下されており、公孫淵が滅んだ時には遼東公孫氏の一人という事で処罰されています。
洛陽に出仕
公孫晃の祖父にあたる公孫度は遼東に一大勢力を築く半独立状態でした。
父親の公孫康の代になると、帯方郡を設置するなど東方への勢力を拡大しています。
公孫康が亡くなった時に、本来であれば公孫晃が後継者になるはずでしたが、年齢が幼かった事で、弟の公孫恭が後継者となりました。
下記が遼東公孫氏の家系図となります。
公孫恭が後継者となったわけですが、魏略には次の記述が存在します。
※魏略より
公孫淵の兄の公孫晃は、公孫恭のお陰で官位について洛陽にいた。
上記の記述から公孫晃が遼東を離れて中央に出仕していた事が分かります。
父親の公孫康が亡くなったのは曹丕の時代であった様なので、若くして公孫晃は魏の洛陽に行く事になったのでしょう。
出仕と言えば聞こえがよく感じますが、実際には魏への人質として公孫晃は洛陽に向かったはずです
公孫淵討伐を進言
公孫恭は身体に問題があり、子供が出来ない体でした。
公孫恭のこうした体質が遼東公孫氏のトップとしての資質に関わったのか、公孫淵が位を奪い取ってしまいました。
これが228年の事であり、諸葛亮の第一次北伐を退けたとはいえ、直ぐに第二次が行われており、蜀の脅威が強かった時代です。
公孫晃は公孫淵が公孫恭の位を奪った話を聞くと、魏の朝廷に対し何度も「公孫淵討伐」を進言しました。
しかし、当時の魏では蜀への対策を優先しており、魏の曹叡が遼東討伐に許可を出す事はありませんでした。
連座
公孫淵は呉の孫権と通じてみたりしており、魏の朝廷からは不信感を抱かれています。
234年に五丈原の戦いで諸葛亮が亡くなると、魏では遼東討伐を行う余裕が生まれました。
公孫淵は曹叡の詔で召されても応じず、魏の幽州刺史・毌丘倹は公孫淵に攻撃を仕掛けています。
公孫淵は毌丘倹を撤退に追い込みますが、燕王として自立し洛陽にいる公孫晃は立場が危うくなります。
公孫淵が魏に反旗を翻した事で、一族の公孫晃は魏の法律により拘留されてしまいました。
公孫晃は公孫淵に連座したくないと何度も願い出た話しもありますが、結局は捕らえられてしまったわけです。
この時に公孫晃は公孫淵が敗北すれば、一族である自分の命はない事を知っていたとあります。
公孫淵の謀反が決定的となった時に、公孫晃はかなり追い詰められたと言えるでしょう。
公孫淵が謀叛した時に、獄中の公孫晃を曹叡が処刑しようと考えていた話もあります。
公孫晃の最後
公孫淵は司馬懿と遼隧の戦いを行っていますが、結局は敗れました。
公孫淵の首が都に届けられると、公孫晃は死を悟り我が子と向かいあって号泣したとあります。
高柔は公孫晃の一族は皆殺してして当然だと述べた上で、公孫晃が公孫淵討伐を訴えたり、魏への忠誠を見せていた事を評価し、救いの手を差し伸べようとしました。
高柔は孔子が司馬牛の憂いを取り除いたり、叔向が危機に陥った時に祁奚が救った事を例に挙げました。
正史三国志の髙柔伝には高柔が公孫晃の助命に動いた話があります。
しかし、正史三国志の髙柔伝では曹叡は公孫晃を許す事はせず、公孫晃を自害させたとあります。
尚、魏略には皇帝は助けるつもりだったが、反対する者がおり結局は殺害されたとあり、正史三国志の記述とは合致しません。
因みに、曹叡は公孫淵討伐のすぐ後に死去しており、公孫晃を助けるつもりだったのは、魏の第三代皇帝である曹芳だった可能性も残っているはずです。
裴松之は公孫晃の死に対し、趙括の母親は「趙括を将軍にしてはならない」と述べた事で趙の孝成王により助命され、鍾会の兄の鍾毓は「鍾会一人に任せてはならない」と述べた事を例に挙げています。
趙括の母親と鍾毓の子孫は処罰されなかったのに、公孫晃が最期を迎えたのは悲しむべき事だと述べています。