張特の奮戦が光った合肥の戦いを紹介します。
尚、ここで紹介する合肥の戦いは253年に行われた魏と呉の最後の合肥の戦いです。
呉の太傅であり最高権力者であった諸葛恪が20万の軍勢で合肥新城を守る張特を攻めた戦いを指します。
合肥と言えば、孫権が自ら攻めたにも関わらず、落とす事も出来ませんでしたし、魏と呉が何度も激突した場所です。
尚、合肥新城は満寵の進言により構築された難攻不落の城と言えます。
ただし、守っている張特には三千の兵士しかいなかったわけです。
しかし、最後は張特が守り切ったわけですが、どの様にして20万の大軍を破ったのか紹介します。
尚、三国志には数多くの戦いがありましたが、20万と3千というのは最も兵力差があった戦いではないかと感じています。
張特は無能だった?
張特は最初は諸葛誕の家来だったわけです。
諸葛誕からの評価は低く、無能扱いされていたらしく活躍する事は出来ませんでした。
合肥の戦いが起きる前年に諸葛恪が魏を破るわけですが、そこで諸葛誕は破れてしまっています。
その関係で、諸葛誕は人事異動する事になり張特も左遷される事は無くなりました。
諸葛誕が将軍として出陣し、諸葛恪に敗れた戦いを東興の戦いと呼びます。
東興の戦いでは、諸葛恪は総大将でしたが、先鋒を丁奉に任せて前に進んだだけです。
先鋒の丁奉は戦巧者で敵の弱点を突き大勝しています。
諸葛恪としてみれば戦いに簡単に勝ってしまった事で拍子抜けしてしまったのかも知れません。
さらに、総大将として出陣したので褒美も貰ったわけです。
諸葛恪は調子に乗っていたんだと思いますが、翌年、合肥を攻めたわけです。
しかし、魏軍の兵士は少なく守っている将軍も張特という聞いた事もない将軍でした。
これには諸葛恪も楽に勝てると思ったのかも知れません。
尚、東興の戦いで諸葛恪に敗れた司馬師は自らが責任を取り降格しています。
諸葛恪の戦略
諸葛恪は20万の大軍を用意してありましたが、蜀との同盟関係も利用しています。
姜維に西方から魏を攻めるように依頼したわけです。
もちろん、魏の兵士を東西に分散させる狙いがありました。
姜維としても、呉と同盟関係を結んでいるわけで出陣する事にしたわけです。
諸葛恪としては、孫権も退けた合肥新城であっても20万の大軍があれば楽に落とせると考えていました。
合肥新城だけでは20万の大軍を持ちこたえる事は出来ないと考えて、援軍に来た魏軍を叩く作戦でいたわけです。
つまり、諸葛恪は後詰決戦を考えていました。
もちろん、援軍に来た兵士を叩くための準備を入念にしていたわけです。
ちなみに、魏の援軍は中々来なくて諸葛恪は待ちぼうけをしています。
司馬師の戦略
司馬師は呉と蜀に2方面から攻撃されて、どのような手を打てばよいのか悩んでいました。
虞松という人物が司馬師に進言をします。
諸葛恪の軍は精兵を連れた20万の大軍です。
周辺を暴れ回るだけの兵士がいながら合肥から動かないのは援軍を叩く事を考えているからです。
しかし、援軍を出さずに、援軍を叩けないようにして城を落とせないとあれば、兵士は消耗し戦う事が出来なくなります。
蜀の姜維の軍は呉に頼まれて軍を出しているだけで、こちらの大軍を見せるだけで撤退する事でしょう。
これを聞いた司馬師は納得し、張特には援軍を送らない事にしたわけです。
近くの城で兵士を率いている、毌丘倹や文欽などに命令して本当に張特に援軍を送らないように指示しています。
ちなみに、これを聞いた張特は青くなったのではないかと考えられます。
しかし、張特は逃げ出す事はしませんでしたし、兵をよくまとめて戦ったわけです。
蜀の姜維が撤退する
姜維は呉に依頼されたように魏を攻めています。
尚、この年に費禕が暗殺されたために姜維が軍権を握っていました。
姜維は呉に依頼されただけなので、元々はりきって出陣したわけでもありません。
魏の城を囲んだわけですが、魏が大軍を用意して蜀軍に攻めかかる構えを見せると姜維は撤退しました。
この時の魏の将軍は郭淮と陳泰です。
姜維としては、呉に魏の大軍を向けると思っていた為、予想以上の大軍が来てしまった事で驚いた事でしょう。
呉は重要拠点の合肥を攻めているため、姜維はこちらにはほとんど兵を回さない読みを持っていました。
魏は姜維の虚を突いたわけです。
孫子の兵法でいう虚実の計が上手く決まった例だと感じています。
上手く姜維を騙したわけです。
諸葛恪は猛攻を仕掛けるが城が落ちない
諸葛恪は合肥新城に猛攻撃を掛ける事にしました。
しかし、寡兵とはいえ張特はよく守り防ぎきっています。
呉軍は死者ばかりが増えてしまい一向に拉致があきません。
諸葛恪のイライラのボルテージも上がっていきますw
しかし、諸葛恪はこのままでは城を落とす事が出来ない事を悟ります。
この時には、まだ考える余裕があったようです。
大軍を擁しているわけですから、兵士たちに土を盛らせて土の上から城を攻撃させるように考えています。
土を盛る工事をしている間は、張特ら魏軍は休憩することが出来ました。
しかし、土が積みあがるのを見る度に恐怖を覚えた事は間違いないでしょう。
呉軍で疫病が起きる
土が積みあがり呉軍は再び合肥新城に攻撃を掛けます。
これに対しては、張特も苦戦したらしく落城も覚悟したようです。
しかし、天運は張特にもたらされました。
呉軍では疲労が溜まっていたのか疫病が流行りだしてしまったわけです。
呉軍にとってみれば手痛い一撃となります。
諸葛恪は寡兵の城が落とせずに、さらにイライラしていくわけです。
怒ったら負け
合肥新城が落とせずに怒っている諸葛恪ですが、朱異が書簡を立てて進言を行います。
豫州にある石頭城を落とせば合肥新城は自然と落ちる
この意見を諸葛恪は取り上げませんでした。
取り上げなかったので、朱異の狙いは、私にも分かりません。
しかし、この時に諸葛恪と朱異が酷く対立したようで、諸葛恪は朱異の兵士を没収しています。
さらに、朱異を建業に帰らせてしまったわけです。
諸葛恪に対して、他にも進言する者もいたようですが諸葛恪は一切聞き入れる事がありませんでした。
諸葛恪が怒ってばかりいて人の意見を聞かない事や、呉軍の惨状を見た蔡林(人名)は、諸葛恪を見捨てて魏に逃亡しています。
諸葛恪という人はエピソードなどを見ると機転が利くし頭の回転が速い事が分かります。
しかし、父親である諸葛瑾からは強情な所などを心配されていました。
それが、合肥の戦いで当たってしまったのでしょう。
会社とかでも、頭の回転が速く仕事も出来るけど、切れやすい人はいるかと思います。
似たようなタイプが諸葛恪なのではないかと、個人的には感じました。
タイプ的には春秋戦国時代の趙括・蜀の馬謖などを似たタイプにも思えます。
しかし、この戦場においては怒ったら負けです。。
張特が降伏を申し入れる
張特は、90日以上も持ちこたえたのですが、諸葛恪に対して降伏の使者となり訪れています。
張特は魏の法だと「援軍が100日待っても来なかった時は、降伏しても罪にならない」と言うのです。
張特は援軍も来ないし諸葛恪に対して降伏したいと言って来たわけです。
これを信じた諸葛恪は「ようやく勝った」と思った事でしょう。
しかし、張特の降伏は偽りだったわけです。
城内をまとめると言って、城に変えると城の補修などを積極的に始めています。
諸葛恪は当分、攻めてこないと思っているわけで、どんどん作業が進むわけです。
そして、城の修理が終わると諸葛恪に対して挑戦状を叩きつけています。
この時に諸葛恪の怒りのボルテージがMAXに達した事でしょう。
ついに援軍が来る
この状況を見て司馬師もついに動き出します。
司馬孚に20万の大軍で援軍に向かわせたわけです。
さらに、毌丘倹や文欽などにも救援するように命令を出しました。
諸葛恪は最初は援軍を叩くつもりでしたが、疫病が発生していますし、兵士の方も疲労困憊で戦える状態ではありませんでした。
そういう事情もあり諸葛恪は撤退する事にしました。
諸葛恪は意気消沈だったのかも知れません・・・。
逆に、張特は特大の手柄を手にいれたわけです。
張特の勝因
張特の勝因ですが、部下をよくまとめ上げて城を守り抜いた事でしょう。
諸葛誕の部下にいた時に、評価されずに無能扱いされていた事もあり意地を見せてくれたように思います。
3千の兵士で20万の大軍を破るというのは、驚異的な武功だと感じました。
合肥の戦いと言えば、張遼・李典・楽進などの連携や甘寧や淩統を思い浮かべる人が多いかと思いますが、最も活躍したのは張特ではないかと感じています。
張遼は合肥の時は守り切りましたが兵士が7000いたので、張特の倍以上です。
それを考えても張特はもっと評価されてもよいでしょう。
張特の合肥の戦いが曹操・劉備・孫権が覇を競った時代であれば、日本でも抜群の知名度になっていたはずです。
尚、張特は合肥の戦いで勝利した事で出世した事が明らかになっています。
しかし、その後の記録がないので、この後にどうなったのかは不明です。
案外、合肥の戦いで勝利した事で気が抜けてしまいポックリと逝ってしまったのかも知れません。
それか、諸葛誕の所に行き「俺の凄さを見たか!お前は俺の凄さを理解出来なかった無能な奴だ!」と発言し、怒った諸葛誕に斬られたのかも知れませんが・・。
蜀漢の最後の名将と呼ばれた羅憲の様に張特も隠れた名将と言えるでしょう。
諸葛恪の敗因
諸葛恪の敗因ですが、思った通りに行かなかった時にイライラしてしまい上手く対応が取る事が出来なかったからでしょう。
さらに、部下の進言を聞けなかったなどの問題もあります。
合肥の戦いでは、大軍に関所なしと思ったのか安易に攻撃しすぎたのもいけなかったでしょう。
最初から土を盛って攻撃するなどをしていたら結果は違っていたのかも知れません。
怒ると言うのは2種類のタイプがあると自分では思っています。
・本当にイライラして怒ってしまうタイプ
・相手の事を思って怒るタイプ
この2種類です。
相手のためを思って怒ると言うのは、熱血教師などでありがちなパターンです。
松岡修造さんなどは熱血指導で怒ったりしますが、本気で怒っていると言うよりは、相手の事を考えて怒っているように思います。
こういう怒り方であれば、それほど悪くはないかなと感じるわけです。
しかし、諸葛恪の場合は明らかに本当にイライラして怒ってしまうタイプではないかと思います。
こういう人は調子がいい時はいいのですが、調子が悪くなるとイライラから益々状況が悪くなるように感じます。
尚、諸葛恪はこの後、呉に帰りますが、皇帝である孫亮に対して報告に行かなかったり、負けたと言う事が許せなかったのか、また遠征を企画したりしています。
この状況を見た孫峻が呉の危機を感じて、独裁者と化した諸葛恪を暗殺しています。
諸葛恪も、東興の戦いの司馬師や第一次北伐で敗れて責任を取り降格した諸葛亮の真似をするべきだったのでしょう。
失敗した時は、責任を取る事も大事だと思いました。
この後、孫峻が実権を握りますが、孫峻も独裁者と化しています。
この辺りが呉の不幸にも思うわけです。
孫権が死んだ辺りの呉というのは、人材の劣化を感じずには入れません・・・。
陸遜の息子である陸抗は名将として名高く、呉の最後の名将とも呼ばれています。
合肥の戦いで言えば、諸葛恪ではなく陸抗を将軍として攻めさせた方がよかったのかも知れません。
それを考えると、孫権時代の合肥の戦いでも同じことがいて戦下手な孫権ではなく陸遜が指揮を執るべきだったのでしょう。
しかし、合肥という土地はどうも呉にとって不吉な土地になっている気がしてなりません。
40年以上攻めても落とせないわけですからね・・・。