名前 | 建武の新政 |
年表 | 1334年 |
主催者 | 後醍醐天皇 |
別名 | 建武の中興 |
建武の新政は後醍醐天皇行った親政を指します。
一般的には建武政権は公家には優しく武士には冷淡であり、それが原因で崩壊したとする話になっています。
鎌倉幕府を打倒する為に協力した多くの武士が恩賞を得る事が出来ず、建武政権は失敗したとする見解が強いです。
しかし、近年の一時資料などの研究によると、建武政権は武士に対して積極的に恩賞を与えた事が分かっています。
それでも、建武政権は短期間で終わっており、問題点はあったとみるべきでしょう。
今回は建武の新政が2年で終わった理由を簡単に分かりやすく解説します。
尚、建武の新政は一部では高く評価されており、建武の中興と呼ばれたりもしています。
建武の新政のゆっくり解説動画も作成してあり、記事の最下部にあります。
建武政権の始まり
後醍醐天皇は元弘の乱で隠岐に流されますが、護良親王が吉野で挙兵し楠木正成も奮戦し倒幕の狼煙を挙げました。
隠岐にいた後醍醐天皇も様々な身分の者達に綸旨を発行し、幕府打倒のパワーを蓄えています。
1333年の6月に鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉幕府は足利尊氏が六波羅探題を陥落させ、新田義貞が鎌倉を陥落させた事で滅んだわけです。
後醍醐天皇は伯耆国の船上山にいましたが、京都に戻り建武の新政を始めました。
当時の朝廷では両統迭立により大覚寺統と持明院統があり、交互に天皇を出す仕組みになっていました。
後醍醐天皇は京に戻ると直ぐに持明院統の後伏見院の所領を安堵し、寺社への寄進なども行っています。
後醍醐天皇が武士よりも先に寺社への配慮から始めた事は間違いないでしょう。
しかし、7月中旬頃になると恩賞方で武士に対しての恩賞も行っています。
武家の筆頭である足利尊氏、直義の兄弟に莫大な恩賞を与えられ、新田義貞、岩松経家、小笠原貞宗、大友貞宗らにも多くの恩賞や地位を与えられました。
当然ながら楠木正成や赤松円心らも褒賞され、河野通綱の様に新たに守護に抜擢されるものもいたわけです。
建武の新政で直ぐに褒賞が与えられた者は、当然ながら倒幕に対しての功績が大きく分かりやすいと言えるでしょう。
雑訴決断所の開設
後醍醐天皇と言えば多くの綸旨を発行した天皇としても有名であり、全部を自分でやろうとした綸旨万能主義の人だったとも思われがちです。
しかし、一人で行うには膨大な作業量が必要であり、雑訴決断所を設置しました。
過去には雑訴決断所の設置は後醍醐天皇の綸旨万能主義の後退と限界を現わしているとされていましたが、最近では武士に間違いを起こさず積極的に恩賞を与え求心力を高める措置だったと再評価されています。
後醍醐天皇が設置した雑訴決断所は室町幕府の執事施行状の元になっていると指摘される事もあります。
積極的に官位を与える
後醍醐天皇は建武政権では所領安堵などをする意外にも、積極的に官位を恩賞として与えている事です。
建武の新政において最も高い評価をされたのが足利尊氏であり内昇殿を許しただけでなく、鎮守府将軍となり、左兵衛督、武蔵守とし位階も従二位としました。
弟の直義も左馬守に任じられ相模守とし、従四位の下としています。
寡兵で奮戦しゲリラ戦で多大な功績があった楠木正成も倒幕の最中に左兵衛尉となり、摂津・河内の国司とし従五位にまでなっています。
足利尊氏と楠木正成では建武政権で評価が違い過ぎる様に思うかも知れませんが、足利尊氏は上級武士の最高峰の様な人であり、楠木正成は下級武士でしかありません。
大軍を操れる足利尊氏の方が当然ながら、評価を高くしなければならなかったわけです。
鎌倉を陥落させた新田義貞は上野・越後・播磨の国司となり、正四位下・左兵衛中将になっています。
赤松円心、名和長年らにも大盤振る舞いしており、北畠親房の神皇正統記には「公家の世に戻ったと思ったら、武士の世の中になっていた」とも記載されています。
北畠顕家には「才覚がない者には勲功があっても所領を与えるべきであり、官位を与えない様に」と釘をさされています。
北畠親房や顕家は公家側の人間であり、公家からも批判される程に、建武政権では官位がばら撒かれたわけです。
これを見る限りでは、後醍醐天皇が決して武士を冷遇したとは言えないでしょう。
御家人制度の廃止
鎌倉時代のキーワードの一つが御家人となるはずです。
御家人は鎌倉幕府と主従関係を結んだ武士の事を指します。
1297年の永仁の徳政令後は寺社なども幕府を頼る様になりましたが、基本的に鎌倉幕府は御家人を統括する組織となります。
御家人は鎌倉幕府から所領安堵や新恩給与などがあり、非御家人にはない特権階級にもなっていました。
過去には、建武の新政では「武士に御家人も非御家人も無く、天皇が直接支配するべきだ」とする思想の元に政治が行われ、特権階級を剥奪された元御家人たちの反発が多発したと考えられてきました。
しかし、現在では後醍醐天皇には別の意図があり御家人制を廃止したのではないかともされています。
後醍醐天皇が結城宗広と葛西清貞の忠節を褒め称え「鎌倉幕府の陪審に成り下がったが、現在は直接天皇に奉公している。勇を為さないわけがない」と記録された記述も発見されています。
後醍醐天皇にとって鎌倉幕府の手下から、天皇直属の武士に変われる栄誉だと認識させようとしていたとみる事も出来るわけです。
当時の武士には後醍醐天皇の想いは通じませんでしたが、建武政権の構築した鎌倉幕府とは違った軍役システムなどは、室町幕府にも大きく影響を与えています。
建武の新政で武士の不満が高まった理由
これまで見て来た所だと、御家人制度は仕方がないにしても、後醍醐天皇は武士に冷淡だったわけではなく、武士が建武政権に不満を持つ理由が分からない人もいるかと思います。
先にも述べた様に、建武政権では足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松円心、護良親王など明らかに功績がある人物に関しては、莫大な恩賞を与え功績に報いました。
しかし、建武政権では勲功認定が難題だったわけです。
新田義貞は最初は150騎ほどの軍勢しかいませんでしたが、足利義詮を擁立し、次々に軍勢が膨張していきました。
新田義貞の軍に人が集まり鎌倉幕府が不利になると悟り、朝廷軍に鞍替えした者も多かったわけです。
中には日付を偽造し、六波羅探題や鎌倉幕府が滅んでから味方したのに、あたかも最初から軍に加わっていたかの如く、主張する者も現れました。
鎌倉幕府では元寇が終わると九州に鎮西探題を設置し、九州を統括しようとしています。
鎌倉時代の末期に菊池武時が鎮西探題を滅ぼそうと少弐氏や大友氏に使者を派遣しますが、使者が斬られた事件がありました。
この時点では少弐氏や大友氏は鎮西探題を支持したと言えるでしょう。
しかし、2か月後には少弐氏や大友氏は鎮西探題を滅ぼす側に回るわけです。
鎌倉幕府が滅びる直前で「勝馬に乗れ」とばかりに、味方した勢力は恩賞の判断が難しい状態でもありました。
結局、朝敵の基準を鎌倉幕府の得宗である北条高時に味方した者と定めますが、建武政権が発足されてから2か月後の事になります。
公家たちや寺社に比べると、武士の恩賞の判断は難しく、所領安堵は比較的直ぐ発行されましたが、恩賞給付が中々進まなかったわけです。
建武政権で武士の不満が高まった理由は、武士を冷遇したわけではなく、恩賞給付が遅延した事が原因だと考えられています。
建武の新政の崩壊
足利尊氏の離脱
1335年の7月に北条時行と諏訪頼重による中先代の乱が勃発しました。
北条時行らの軍勢は強く鎌倉将軍府の足利直義は戦いに敗れ、鎌倉から脱出する事になります。
足利尊氏は後醍醐天皇に鎌倉救援を進言しますが、後醍醐天皇が許さなかった事で、独断で兵を動かしました。
足利尊氏は北条時行を破り諏訪頼重を自害に追い込んでいます。
ここで足利尊氏と直義は武士たちに独自で恩賞を与え始めた事で、後醍醐天皇は足利兄弟を朝敵とし新田義貞に討伐を命じました。
この時点で足利尊氏は建武政権から完全に離脱したと言えるでしょう。
新田義貞は足利直義は破りますが、尊氏に敗れました。
足利尊氏は京都に進撃しますが、楠木正成、新田義貞、北畠顕家らに敗れ九州に逃れています。
建武政権打倒の布石
足利尊氏は九州に落ち延びますが、正統性を得る必要がありました。
後醍醐天皇の大覚寺統と並ぶ両統迭立の持明院統に接近し、光厳上皇の院宣を獲得する事に成功し、多いに士気が上がる事になります。
さらに、尊氏に味方した武士には建武政権かで没収された土地を還す布令も発令しています。
建武政権では間違って所領を没収されてしまう武士が多々おり、返付令により対象武士の支持を得る事にも成功しました。
室津の軍議においては、足利尊氏は山陽道や四国の足利一門へ「現地で勲功により武士の恩賞を決定する様に」と命じています。
つまり、足利尊氏が直接判断せず、現地の足利一門が独自に恩賞を与えてよいとした事にもなるでしょう。
建武の新政では武士の恩賞の遅れが問題となっており、速やかに武士に恩賞を与える為の措置を取ったとも言えます。
室町幕府の成立
足利尊氏は直義と共に九州から再び上洛する事になり、新田義貞と楠木正成を湊川の戦いで破りました。
足利尊氏は後醍醐天皇を幽閉する事に成功し、持明院統の光明天皇を擁立し、建武式目を制定しています。
この時点で建武の新政は終わりを告げたと言えるでしょう。
建武の新政が失敗に終わったとされる理由は、短期間で頓挫した為です。
建武式目が制定され室町幕府の体制が出来上がりますが、足利尊氏は武士への恩賞給付と守護職の補任のみを行い大部分の権限を直義に任せました。
足利尊氏は観応の擾乱を勝ち抜きますが、恩賞給付の権限を最後まで持っていたのが大きいとも言えます。
室町幕府の体制は整っていきますが、恩賞給付は全て足利尊氏が握ったわけではなく、管領、鎌倉府、足利一門などが独自で行いました。
足利の本家の方では守護らが勝手に恩賞を与える事に不満でしたが、恩賞の遅延を無くすためには、仕方がない処置でもあり、目をつぶったわけです。
建武の新政の後継が南朝
後醍醐天皇は花山院に幽閉されますが、脱出し吉野で南朝を開きました。
後醍醐天皇の建武の新政は南朝に引き継がれたとも言えるでしょう。
既に建武の新政では武士たちへの恩賞の遅れが不満を募らせ崩壊に向かったとしました。
南朝では歴代の天皇は綸旨によって恩賞給付をするだけではなく、各地に派遣された親王や軍事指揮官なども積極的に、所領や官位を与えています。
特に恩賞に関して地方で大きな権限を与えらえたのが、九州を席巻した懐良親王と、東国で奮戦した北畠親房だと言われています。
北畠親房は小田治久や関宗祐と共に高師冬の軍と戦いますが、恩賞給付の権利があったから戦う事が出来たともされているわけです。
ただし、北畠親房は東国の武士を満足させるだけの恩賞を用意する事が出来ず、最終的に結城親朝だけではなく、小田治久も北朝に味方しました。
他にも、常陸親王、興良親王、新田義宗、新田義興、北畠顕家なども配下の者達に恩賞を与えています。
南朝の特徴として官位を与えるケースも多々あり、この辺りは建武政権の政策を引き継いでいるとも言えます。
所領を与えるとなれば土地が必要ですが、官位であれば原資が不要であり、積極的に与えたのでしょう。
建武の新政の後継である南朝では恩賞を決めるのは天皇にあると思われがちですが、実際には親王や各地の軍事指揮官が武士に恩賞を与え成果を挙げていたわけです。
逆に室町幕府の方では恩賞として官位の授与は行われていませんでしたが、観応の擾乱以降は南朝の様に武士たちを任官する姿勢が目立つ様になります。
室町幕府は任官の仕組みを南朝に倣ったのでしょう。
兵粮料所
南朝の後醍醐天皇や後村上天皇は「兵粮料所」という名目で、1年限りで寺社や公家の所領を武士に与えた話があります。
兵粮料所は戦費調達の為に行われました。
寺社や公家の土地を武士に与えてしまえば、凄まじい反発が起きますが、1年限りと期限を切れば納得しやすかったわけです。
室町幕府も兵粮料所の制度を取り入れており、これも南朝を見習った結果となります。
南朝恩賞に行き詰まる
建武政権の後裔とも言える南朝ですが、南北朝時代を通して終始劣勢だったと言えます。
しかし、室町幕府の混乱につけ込み何度か京都を奪還しています。
後村上天皇の綸旨に南朝の考え方が出ており「一同の時、沙汰あるべし」とする言葉があるわけです。
従来は「北朝を倒し天下統一したら恩賞を与える」と解釈されてきましたが、三浦龍昭氏は「他者と同時に恩賞を与えよう」とする文言だと解釈しました。
南朝では都度に恩賞を与えるのではなく、一斉に論功行賞を行う事を指しているとしています。
足利尊氏は戦闘中であっても必要と考えれば、即座に恩賞を与え武士たちを鼓舞した話があり、南朝の恩賞の考え方とは対照的だったと言えるでしょう。
南朝は北朝に押され虫の息となり、与えた恩賞を南朝の朝廷の維持の為に没収してしまった話もあります。
恩賞を与えてしまえば自分の取り分が減る事もあり、勢力を拡大出来ねば、配下の者達に恩賞を与える事が出来ず、悪い循環に南朝は陥りました。
南朝では地方分権を推し進め官位や所領を積極的に与え、武士に公平な恩賞を約束したり安定に務めようとしますが、状況は厳しかったわけです。
南朝は人材や拠点を各地で失い南朝を支える武士にも不利益を強いるなど、矛盾した動きも見せています。
武士たちも段々と南朝から離れていき、南朝は弱体化していったわけです。
建武の新政から南朝の崩壊に至るまで、恩賞がキーポイントになっていたと言えるでしょう。
建武の新政の解説動画
建武の新政の解説動画です。
ゆっくり解説となっております。