金ヶ崎城の戦いは南北朝時代の1336年から1337年に掛けて行われた戦いです。
梅松論によれば金ヶ崎城は「無双の要害」と言われ敦賀湾に突き出た小さな半島を利用した山城となっています。
北陸で活動を始めた新田義貞に対し、室町幕府の足利尊氏や直義は大軍を差し向けた事で金ヶ崎城の戦いは勃発しました。
金ヶ崎城内では食料の不足により、苦しい立場となります。
新田義貞や脇屋義助は援軍を求めて城を脱出し、新田義顕が中心になり城を守る事になります。
城内では食料が尽きて凄惨な光景となり、餓死者が続出しました。
こうした中で足利軍は攻勢に出た事で、尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王は捕虜となりました。
南北朝時代の中でも凄惨な戦いだと言えるのが、金ヶ崎城の戦いとなります。
金ヶ崎城の戦いの経緯
延元元年(1336年)に足利尊氏は湊川の戦いで新田義貞と楠木正成を破りました。
そのまま京都に進撃し、後醍醐天皇と和睦しますが、新田義貞は弟の脇屋義助や恒良親王、尊良親王らと共に北陸を目指し再起を図る事になります。
新田義貞は金ヶ崎城と杣山城の連携により、勢力を拡大しようとしました。
杣山城には新田義貞の弟である脇屋義助が守る事になります。
室町幕府では新田義貞を放置するわけにも行かず、斯波高経、高師泰、細川頼春、仁木頼章らに討伐を命じています。
これにより金ヶ崎城の戦いが勃発しました。
新田義貞の脱出
金ヶ崎城には新田義貞がいましたが、兵力差があり苦戦を強いられる事になります。
杣山城から脇屋義助が救援にやってきますが、瓜生保や里見時成らを失う結果となりました。
金ヶ崎城内では兵糧が少なくなり、城内の大将たちは新田義貞や脇屋義助、洞院実世らに外に出て援軍を求めて来る様に要請しました。
新田義貞は城を嫡子の新田義顕に任せ、脇屋義助や洞院実世と共に密かに城を脱出しています。
新田義貞は杣山城から援軍を呼び寄せ、外から包囲する幕府軍の攻勢に出る計画だったとされています。
しかし、新田義貞の援軍は救援に訪れる事はありませんでした。
飢える城内
新田義貞らが脱出してから暫くすると、城内では兵糧が尽きてしまい飢餓に苦しむ事になります。
人々は魚を釣り海藻を集めて飢えをしのぎ、それでも食料が無ければ馬を殺して食べました。
金ヶ崎城内が消耗している事を知った斯波高経や高師泰らは、金ヶ崎城に総攻撃を仕掛けています。
兵は飢えに苦しみ立ち上がるような気力もありませんでした。
ここで城主の新田義顕は気比斉晴に恒良親王を託しています。
新田義顕は死を覚悟しており、幕府軍と最後の戦いの望む事になりますが、城内の兵士は飢えており、死んだ者の肉を食べて漸く立ち上がる事が出来たと言われています。
得能通綱ら主従三十二人は城内に押し寄せる敵を食い止め奮戦しますが、壮絶な戦死をしています。
この時点で金ヶ崎城の戦いで新田義顕が勝つ可能性はゼロだったはずです。
尊良親王と新田義顕の最後
新田義顕は金ヶ崎城の落城を悟り、尊良親王の前に進み出ました。
新田義顕は尊良親王に「後醍醐天皇の皇子である尊良親王に武士たちは手を出さないだろう」と述べ、そのままじっとしている様に諭しました。
しかし、尊良親王は新田義顕と共に自害すると述べると、新田義顕は「自害の作法を見せる」と述べ、短刀で自らの腹を刺し自害しました。
尊良親王は倒れた新田義顕を見ると、血が付着した短刀を手に取り続けて自害しています。
新田義顕及び尊良親王の最後を見届けた藤原行房、里見時義、気比氏治らも自害し、城兵三百人余りも自害したと伝わっています。
金ヶ崎城は遂に落城したわけです。
気比斉晴も恒良親王を蕪木浦まで送り届けると、引き返し自害しました。
金ヶ崎城の戦いで生き残った恒良親王ですが、幕府軍に捕らえられると「新田義貞は亡くなった」とする嘘の情報を述べ、世を去っています。