エジプト新王国 古代エジプト

アメンホテプ3世はエジプト文明全盛期の王

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宮下悠史

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名前アメンホテプ3世
時代エジプト文明
エジプト第18王朝
一族父:トトメス4世 母:ムテムウィヤ
子:トトメス、アメンホテプ4世、スメンクカーラーなど
コメントメムノンの巨像など多くの建築物を建設した。

アメンホテプ3世はエジプト第18王朝のファラオです。

アマルナ改革を主導したアクエンアテンの父であり、ツタンカーメンの祖父にあたる人物でもあります。

アメンホテプ3世の時代になると外征は殆ど行われなくなり、エジプトは繁栄しアメンホテプ3世は多くの建築物を残したファラオでもあります。

慣例に拘らず地方の有力貴族であるティイと結婚したり、能力主義を採用しハブの子アメンホテプを重用するなどしました。

アメンホテプ3世の時代のエジプトは繫栄し、エジプト新王国のみならずエジプト文明全体での全盛期の王とする見解もあります。

出自と即位

アメンホテプ3世は、父トトメス4世の死後にファラオとなりました。

ただし、彼はトトメス4世の正妃の子ではなく、側室ムテムウィヤの子 であったと考えられています。

ムテムウィヤの出自については諸説あり、ミタンニ王国から来た女性やアクミーム(アクミール)地方の有力貴族の一族といった説が存在します。

正妃の子ではなかったため、アメンホテプ3世は自らの王位継承の正統性を強調する必要がありました。

そのため彼は、「ムテムウィヤとアメン・ラーが合体して自分が生まれた」という誕生神話を創造します。

ルクソール神殿には、アメン神がムテムウィヤのもとを訪れ、アメンホテプ3世が神の子として誕生する場面が描かれています。

これは、王権の神聖性を強調する典型的な王権イデオロギーであり、彼の治世の安定に大きく寄与したと考えられています。

アメンホテプ3世とティイ

アメンホテプ3世は地方の有力者であるティイを王妃としました。

エジプト第18王朝では正妃には、自らの姉妹にする事が多く異例の事だったわけです。

アメンホテプ3世は、ティイとの結婚だけでなく、従来の慣例を無視した行動を数多く取ったとされています。

これらの行動は、単なる個性ではなく、政治に深く介入するようになったアメン神官団を牽制するためであったと考えられています。

アメン神官団の権力問題は数代前から続いており、アメンホテプ3世の時代になっても完全には解決していませんでした。

尚、ティイの一族は重用され、大出世を遂げる事になります。

アメンホテプ3世の「スカラベ外交」

アメンホテプ3世は、自身と正妃ティイの結婚を記念して「結婚スカラベ」 を作成し、国内外に通達しました。

スカラベとは、古代エジプトで神聖視されたヒジリタマオシコガネ(フンコロガシ)を象った護符で、表面は甲虫の形、裏面には文字が刻まれています。

このスカラベに、「アメンホテプ3世がティイと結婚した」という内容を記し、諸外国にも知らせたのです。

アメンホテプ3世は自己宣伝を好んだ王として知られ、スカラベには結婚以外にもさまざまな功績が刻まれています。

例として「ライオン狩り:10年間で102頭を弓で仕留めた」「野牛狩りの成功」「ティイのために人造湖を建設したこと」などがあります。

これらは、王の力・勇気・豊かさを示すための政治的なものだったとも考えられています。

平和な時代と対外政策の変化

アメンホテプ3世の治世は、ミタンニ王国との婚姻外交が継続され、新王国時代でも特に平和な時代とされています。

第18王朝のファラオたちは西アジアへ積極的に遠征していましたが、アメンホテプ3世の時代には対外遠征が大幅に減少しました。

ヌビア遠征を行ったという記録はあるが、実際に行ったかは不明です。

ヌビアからの黄金は安定して供給され、王は気前よく配布していたとされます。

また、西アジアの属領も安定していたとされ、軍事よりも外交と内政に重点が置かれた治世だったと言えます。

アメンホテプ3世のミイラは、ふくよかな体型、薄毛、歯の欠損といった特徴を持っていました。

これは、飽食が可能なほど社会が豊かであったことやファラオもまた生身の人間であったことを示す興味深い証拠です。

建築王としてのアメンホテプ3世

治世後半の約25年間、アメンホテプ3世は建築活動に没頭しました。

一般に「建築王」と呼ばれるのは第19王朝のラムセス2世ですが、ラムセス2世は前代の建築物に自分の名を刻むことも多く、現在では「真の建築王はアメンホテプ3世である」という見方が強まっています。

彼が建設した建造物の特徴として、「ナイルデルタから上ヌビアまで広範囲に記念建造物を造営」「エジプト文明の全盛期であり、財力が十分にあった」「建築物は『宇宙創造』を象徴するデザインを持つ」が挙げられます。

アメリカのエジプト学者コナーは、「アメンホテプ3世はテーベを中心に、宇宙を創造するかのような象徴的建造物を築いた」と評価しています。

そのため、エジプト全土が巨大な祝祭空間になったとも言われています。

アメンホテプ3世は以下のような巨大建築を残しました。

  • カルナクのアメン神殿の拡張
  • 新たなルクソール神殿の造営
  • 自らの巨像二体(メムノンの巨像)を備えた葬祭殿
  • テーベ西岸の広大なマルカタ王宮

従来、王宮はテーベ東岸に建てられていましたが、アメンホテプ3世は西岸にも巨大王宮を建設しました。

これは「アメン神官団への対抗」とも考えられていましたが、近年の研究では、ナイル川の両岸に巨大王宮都市を築く構想があったことが明らかになっています。

ルクソール神殿の大列柱廊は現在も残り、その壮大さはアメンホテプ3世の建築力を物語っています。

建築事業の中心人物 ― ハブの子アメンホテプ

アメンホテプ3世の大規模建築を支えた重要人物が「ハブの子アメンホテプ」です。

当時のエジプトでは、同名の人物を区別するために「父の名+本人の名」で呼ぶことが一般的でした。

ハブの子アメンホテプ最初は徴兵書記として建築事業に参加していました。

その後、能力を認められ、次々と要職に昇進するようになります。

ついには、王と同じようにテーベ西岸に葬祭殿を建てることを許可されました。

これは極めて異例の待遇です。

ハブの子アメンホテプは、古王国時代に階段ピラミッドを設計したイムヘテプと並び称され、プトレマイオス朝時代には神格化されています。

ハブの子アメンホテプは高貴な家柄ではありませんでした。

それでも抜擢されたのは、アメンホテプ3世が能力主義を採用していたためと考えられています。

同時に、家柄を重視しない姿勢はアメン神官団への牽制という側面もあったと見られます。

アメン神官団は代々強大な権力を持ち、王権と対立することも多かったため、アメンホテプ3世は彼らの影響力を抑えるために新しい人材を積極的に登用したと考えられます。

アメンホテプ4世(アクエンアテン)とアテン信仰の背景

アメンホテプ3世の後継者はアメンホテプ4世で、のちにアクエンアテン(Akh-en-Aten)と名乗ります。

彼が崇拝した唯一神は 太陽神アテン であり、その宗教改革は「世界初の一神教」と呼ばれることもあります。

しかし、アテン信仰はアクエンアテンが突然始めたものではありません。

アメンホテプ3世の父トトメス4世は、スフィンクスの姿をした太陽神ラーの神託によって即位しています。

これは、当時絶大な力を持っていたアメン神ではなく、別の太陽神の権威を借りて王位を正当化したことを意味します。

さらにアメンホテプ3世は、妻ティイのために造った人工湖に浮かべた船を 「輝けるアテン」 と命名する、晩年にはアテン神を崇拝していたと記録されるなど、すでにアテン信仰と深く関わっていました。

つまり、アクエンアテンの宗教改革は、アメンホテプ3世の時代に芽生えていた流れの延長と見ることができます。

アメン神官団は第18王朝で最も強大な勢力であり、王権と対立することも多くありました。

アメンホテプ3世はアテン信仰を強めつつも、ルクソール神殿の造営、アメン神殿の拡張など、アメン神官団の要請にも応じています。

これは、アメン神官団を牽制しつつ、王国の安定を保つための政治的バランスであったと考えられます。

アメンホテプ3世はアクエンアテンのように急激な改革を行わず、慎重に均衡を保とうとした王だったと言えます。

アメンホテプ3世晩年とアメンホテプ4世との共同統治の可能性

アメンホテプ3世は治世の終わり頃、アメンホテプ4世(アクエンアテン)と共同統治を行ったという説がありますが、これは確証がなく、現在も議論が続いています。

ただし、後継者と目されていたトトメス王子が早世したため、彼がアメンホテプ4世を後継者に選んだ可能性は十分にあります。

アメンホテプ3世の最後の記録は、治世38年のマルカタ王宮出土のワイン壺の銘文であり、この直後に亡くなったと考えられています。

彼の王墓は第18王朝でも最大級の規模を誇り、その治世の繁栄を象徴しています。

アメンホテプ4世の外交姿勢とミタンニ王国の衰退

アメンホテプ3世の時代、ミタンニ王国はエジプトとの友好関係を生命線としていたと言えます。

しかし、アメンホテプ4世(アクエンアテン)はアテン信仰の改革に全力を注いだため、シリアの属領やミタンニへの支援をほとんど行わなくなりました。

その結果、シリアのエジプト植民地は離反し、ミタンニ王国はヒッタイトとアッシリアの圧迫を受け、弱体化するという流れが生まれます。

ミタンニ王国は王女をエジプトに嫁がせることで同盟を維持していましたが、アメンホテプ4世の時代にはエジプト側の反応が鈍くなり、外交関係は急速に冷え込みました。

また、エジプトは他国とも婚姻を結ぼうとしましたが、エジプト王女を国外に出さない慣習が障害となり、長続きしなかったと考えられています。

アメンホテプ4世は宗教改革(アマルナ革命)に全精力を注いだため、外交や軍事への関与が著しく低下しました。

その結果、シリアの属領が次々と離脱し、ミタンニ王国が支援を失い、ヒッタイトに屈服することになりました。

さらにエジプトの国際的地位が低下という、新王国の外交的後退が起こります。

アメンホテプ3世の時代に築かれた国際秩序は、アメンホテプ4世の宗教改革によって大きく揺らいだと言えます。

次代:トトメス4世アメンホテプ3世次代:アメンホテプ4世(アクエンアテン)

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