晋の静公は晋の最後の君主です。
春秋時代には超大国だった晋も、静公の時代には弱小勢力となっていました。
過去には臣下だった韓、魏、趙の勢力に頭が上がらない状態でもあります。
史記では晋の静公は韓、魏、趙により庶民に落された事になっていますが、近年の研究では韓の昭侯に殺害されたのではないかとも考えられる様になってきました。
趙世家や韓世家の記述を見ると、晋世家とは全く違った形の晋の滅亡が見えて来る事になります。
今回の記事は吉本通雅氏の「中国先秦史の研究」をベースに記事を書いております。
史記における晋の静公
晋世家の静公
史記における晋の静公には、次の記述が存在しています。
※史記 晋世家より
晋の孝公はその17年に亡くなり、子の静公倶酒が即位した。
この年は斉の威王の元年である。
晋の静公の二年に魏の武侯、韓の哀侯、趙の敬侯の三人により、晋室の子孫を滅ぼし、その土地を三分した。
静公は庶民となった。
こうして晋は滅び、その祭祀は耐えたのである。
史記の記述だけでは、魏、韓、趙が結託して、晋を滅ぼした位しか分かりません。
後述しますが、史記の晋世家の記述では魏の武侯、韓の哀侯、趙の敬侯が晋の公室を滅ぼした様な記述がありますが、実際には韓の昭侯が晋の静公を誅した事で、晋が滅びたのが事実なのでしょう。
趙世家の記述
晋の公室は魏、韓、趙により滅ぼされた事になっていますが、趙世家には次の記述が存在しています。
※史記趙世家より
趙の成侯16年。魏・韓と共に晋を分割し、晋君を端氏に封じた。
この記述から三晋の国々が晋君(晋の孝公)を端氏に移した事が分かるはずです。
晋の孝公は静公の一代前の晋君であり、父親となります。
趙世家の記述を見る限りでは、晋の孝公の時代から晋の公室は端氏にいた事になります。
さらに、趙世家には、次の記述が存在しています。
※史記 趙世家より
粛侯の元年(紀元前349年)。晋君の封邑端氏を奪い、晋君を移して屯留におらせた。
この記述を普通に読めば、趙の粛侯が晋公の領地である端氏を奪い、屯留に遷したとみる事が出来るはずです。
しかし、史記索隠や竹書紀年から、晋の公室は魏の恵王が即位した年である紀元前369年に、屯留に遷ったとする記録もあります。
どの様な経緯になるのかは不明ですが、紀元前349年までには晋の静公が屯留に遷った事だけは間違いないのでしょう。
韓世家の記述
韓世家には、次の記述が存在しています。
※史記 韓世家より
韓の昭侯の10年(紀元前349年)。韓姫が主君の悼公を誅した。
紀元前349年に晋の静公が庶民にされた以外に、他の国々で君主が変わったと言う話しは現在の所ありません。
そうなると、韓姫が殺害したとする悼公というのは、晋の静公の可能性も出て来るはずです。
韓姫が誰なのかという事ですが、韓の昭侯の事ではないかとも考えられています。
史記から見えて来る晋の静公
史記は紀伝体を採用しており、あちこちの情報を収集して来なければいけません。
先の情報を繋げると、晋の公室は趙により端氏に移され、紀元前349年に趙が晋の静公を屯留に遷し、韓の昭侯が晋の静公を誅殺してしまった事になるでしょう。
これを考えれば、晋の滅亡は紀元前349年に、晋の静公が誅殺された事で、晋は滅亡した事になります。
晋の静公が殺害された理由
晋の静公が殺害される前の、紀元前351年は魏と趙の講和が成立し、魏は邯鄲を趙に返還した年でもあります。
この時の趙は魏に邯鄲を奪われるなどし、苦しい立場だった事でしょう。
趙の成侯が亡くなると公子緤と太子語が後継者争いをし、勝利した太子語が趙の粛侯となりました。
争いに敗れた公子緤は韓に亡命した事が分かっています。
この時点で、趙は韓とは対立していたと予想されます。
こうした中で晋の静公は趙の端氏にいましたが、端氏を趙に奪われてしまい韓の屯留に遷る事になったのでしょう。
この時の趙は弱小であり晋の正卿となり、権威を背景に勢力拡大は望めなかったはずです。
さらに、韓の方でも趙や魏と対立しており、晋の正卿となるわけにも行かず、晋の静公を用済みと判断し殺害してしまったと考える事が出来ます。
魏の文侯や武侯などは晋の公室の権威を利用し、勢力を拡大させてきましたが、権威の力が使えなくなった時点で、晋の静公は邪魔な存在でしかなかった事でしょう。
晋の静公が最期の晋君となります。
先代:孝公 | 晋の静公 | 次代:滅亡 |