韓姫は史記に登場する人物であり、韓世家の韓の昭侯の10年の1回しか登場しません。
しかし、韓姫は主君である悼公を殺害しており、かなりの大それた事をしたとみる事も出来ます。
韓姫の名前から女性ではないかと、思った人もいるのかも知れません。
吉本道雅氏は韓姫の正体は韓の昭侯ではないかと考えました。
実際に韓姫が登場する年は、紀元前349年であり、晋が滅亡する年でもあります。
それを考えると、韓姫が韓の昭侯であり、主君の悼公が晋の静公とした方がしっくりとくるはずです。
今回は吉本道雅氏の『中国先秦史の研究』をベースに記事にしました。
史記における韓姫の記述
史記の韓世家の昭侯10年に、次の記述が存在しています。
※ちくま学芸文庫 史記4 38頁より
昭侯の10年(紀元前349年)。韓姫が主君の悼公(晋の静公か)を誅した。
上記の記述を見ると、韓姫なる人物が主君である悼公の命を奪った事が分かるはずです。
ちくま学芸文庫の訳者である小竹文夫氏や小竹武夫氏らは悼公というのが、晋の静公の可能性がある事を示唆する言葉を残しています。
なぜ、韓姫が殺害した悼公が晋の静公になるかと言えば、紀元前349年に主君が交代した国は晋しかないからです。
ただし、史記の晋世家では、晋の静公は殺害されたのではなく、庶民に落された事になっています。
しかし、吉本道雅氏は『中国先秦史の研究の中』で、韓姫の正体は韓の昭侯ではないかと考えました。
韓姫が韓の昭侯になる理由
韓姫が主君の悼公を殺害した記述は、春秋経の書き方と同じではないかとされており、悼公のすぐ下の家臣が殺害した場合は「誅」の文字が使われると考えられます。
韓の昭侯の部下である大臣などが悼公を殺害した場合は「盗」の文字が使われるというわけです。
実際に楚の声王が殺害された時は「盗殺声王」の文字が使われています。
こうした事情から、韓姫の正体は韓の昭王とした方が、しっくりと来ると吉本道雅氏は考えたのでしょう。
先にも述べた様に、史記の晋世家では晋の静公は庶民に落されて晋は滅亡した事になっていますが、実際には晋の昭侯により殺害されたとする方が信憑性は高そうです。
尚、韓姫(韓の昭侯)が晋の静公を殺害してしまった理由ですが、もはや韓の昭侯が晋の正卿になるわけにも行かず、晋の静公を権威として立てる事も出来ず、用なしになってしまったからでしょう。
個人的な恨みなどはなく、必要なくなったから誅したと言うのが実情だと考えられます。