室町時代

上杉朝房は関東管領になるも短期間で辞意を申し出ていた

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宮下悠史

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名前上杉朝房(うえすぎともふさ)
生没年1335年ー1391年?
時代南北朝時代
一族父:上杉憲藤 母:上杉重顕の娘 弟:上杉朝宗
年表1368年 関東管領に就任
コメント上杉能憲と共に関東管領になった。

上杉朝房は南北朝時代の人物であり、上杉憲藤の子です。

犬懸上杉家に属する人物だと言えるでしょう。

父親の上杉憲藤は朝房が4歳の時に亡くなってしまいますが、弟の朝宗と共に石川覚道の元で成長しました。

観応の擾乱では足利直義に与しています。

上杉憲顕が亡くなると、上杉能憲と共に関東管領に就任しました。

しかし、短期間で辞任を申し出て、その後は政治とは遠ざかっています。

父の死

上杉朝房の父親である上杉憲藤は、暦応元年(1338年)に戦死しました。

この時に上杉朝房は僅か四歳であり、弟の朝宗は2歳だったわけです。

父親の死と子供たちが幼かった事で、犬懸上杉家に暗い影を落とすかに思われました。

しかし、石川覚道が上杉朝房と弟の朝宗を保護し、成長させる事になります。

尚、上杉朝房の後見人に上杉朝定がなったとも考えられています。

観応の擾乱

内談頭人

観応の擾乱において、足利直義高師直を解任しますが、この前後で上杉朝房を内談頭人に抜擢しました。

さらに、上杉朝房は同時期に小侍所頭人も務めた事が分かっています。

上杉朝房は直義派であり、高師直の失脚に伴い就任したと考えられています。

足利直義は自派閥の上杉朝房を内談頭人にして、勢力を伸長させたと言えるでしょう。

この後に、外にいた高師泰が兵を率いて京都に向かいますが、上杉朝房は同族の上杉重能らと共に直義の元に集まりました。

ただし、高師直の御所巻により足利尊氏は直義の引退と高師直の執事復帰を認めています。

高師直の御所巻が成功した事で、同族の上杉重能や畠山直宗は越前に配流され命を落としました。

但馬守護に就任

貞和五年(1349年)12月に上杉朝房が但馬守護に補任されていた事が分かっています。

直義派である上杉朝房を高師直らが、但馬守護にしたのは、自勢力に寝返らせる為だったと考えられています。

高師直は上杉朝房を但馬守護に就任させる事で、一本釣りを行い切り崩しを狙ったのでしょう。

高師直は上杉朝房が自派閥になれば、直義を支持していた者の多くを、自派閥に組み込めると考えたのかも知れません。

それと同時に、高師直は上杉朝房に対し、悪感情を持ってはいなかったとみる事も出来ます。

さらに言えば、上杉朝房はバリバリの直義派でも無かったのでしょう。

ただし、但馬守護は翌年の観応元年(1350年)七月までには、今川頼貞に代わっており、高師直の一本釣りは失敗したのでしょう。

直義を支持

足利直義は京都を脱出し、大和で挙兵しました。

直義が挙兵すると上杉憲顕桃井直常石塔頼房らは、直義支持を直ぐに鮮明にしています。

八幡に直義は入りますが、尊氏派の人物が続々と寝返りました。

最終的に上杉朝房も上杉朝定や今川範国らと共に京都を脱出し、八幡の直義に元に向かいました。

上杉朝房は直義の支持は鮮明にしましたが、時期はかなり遅く最後まで中々決断しなかったと言えるでしょう。

こうした事から、上杉朝房はバリバリの直義派ではなく、中間派だったとみる事も出来ます。

足利直義は打出浜の戦いで勝利し高師直を滅ぼしますが、後に足利義詮との対立があり越前に出奔しました。

この時に、上杉朝房も直義の共をしています。

守護に就任

観応の擾乱で最終的に上杉憲顕が没落するなどし、上杉氏は勢力を大きく後退しました。

足利義詮の時代になると、上杉憲顕が復帰し貞治三年(1363年)に関東管領となりますが、この時に上杉朝房も弟の朝宗と共に鎌倉にいたと考えられています。

この時に上杉朝房は29歳になっていました。

上杉憲顕が関東管領になると、上杉朝房は信濃と上総の守護に補任されています。

上杉朝房が上総守護になった時に、守護代として石川勘解由左衛門尉としました。

石川勘解由左衛門尉は過去に自分を育ててくれた石川覚道の子、もしくは一族の者ではないかと考えられています。

石川覚道の一族であれば、恩返しのつもりもあり、上杉朝房は上総の守護代にしたのでしょう。

関東管領に就任

1367年に足利基氏が亡くなると、河越直重らによる平一揆の乱が勃発しました。

上杉朝房は平一揆の乱を鎮圧しますが、上杉憲顕が世を去る事になります。

関東管領の上杉憲顕が亡くなった事で、1368年に上杉能憲と上杉朝房が関東管領に就任しました。

上杉憲顕死後は関東管領二人制が布かれますが、そのうちの一人に上杉朝房が選ばれたわけです。

鎌倉公方が足利氏満の時代に、上杉朝房は関東管領となりました。

上杉朝房は関東管領として結城直光に対し、安房国長田保の沙汰付命令を伝える奉書があります。

引退

応安三年(1370年)になると、上杉朝房は関東管領を辞任したいと足利氏満に伝えました。

上杉朝房がなぜ辞任を申し出たのか、正確な理由はよく分かっていません。

ここで、山田邦明氏は上杉朝房が関東管領の辞任を申し出たのは性格が原因だと考えました。

鎌倉の義堂周信を武蔵の反乱を平定した上杉朝房が訪れた話があります。

ここで、上杉朝房が戦場で多くの戦死者が出てしまい、悔み教えを乞いにきた話があります。

さらに、仏典の講義を熱心に求めた逸話も残っています。

この優しすぎるとも言うべき性格が、政治には不向きで隠遁生活を望んだと考えたわけです。

尚、関東管領の辞任が足利氏満に認められたのかは不明ですが、この頃に上京していた事も分かっています。

上杉朝房が関東を離れ引退に向かった事で、関東管領は実質的には上杉能憲の一人体制となりました。

さらに、弟の上杉朝宗も政治の表舞台に立つ事になります。

その後の上杉朝房

上杉朝房は上洛しましたが、直ぐに信濃に下向しました。

信濃では信濃栗田城を攻撃した記録があります。

この後は在京したり、鎌倉に行ったり、信濃に行ったりした記録があり、はっきりとしない部分が多いです。

それでも、上杉朝房は鎌倉と京都あたりを往来する事が多かったのでしょう。

最終的に上杉朝房は京都で没しました。

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