遊牧民族

遊牧民の発展と遊牧帝国の誕生

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宮下悠史

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名前遊牧民
地域草原
コメント遊牧民は時には大帝国を築いた

遊牧民と言えばモンゴル帝国が有名ですが、この記事ではモンゴル帝国の事は少ししか扱っておらず、メインはモンゴル帝国以前の遊牧民の帝国となっています。

遊牧帝国はユーラシアステップから誕生しますが、ユーラシアステップとは、中国の東北地方である満州から、モンゴル高原、パミール高原、キプチャク草原、ウクライナ、モルドバ、ハンガリーに至る広大な乾燥地帯を指します。

また、トルコも遊牧民と大きく関わっているとされます。

今回が如何にして帝国を築く事が出来たのか解説です。

遊牧民とユーラシアステップ

ステップというのはロシア語で「平らな乾燥した土地」という意味があります。

ユーラシア大陸にある平らな乾燥した土地で、「ユーラシアステップ」という事です。

乾燥した土地というと、砂漠を連想する人も多いのではないでしょうか。

しかし、ユーラシアステップは砂漠ではなく、短いイネ科の食物が延々と生えている草原地帯です。

森林が出来ずに草原地帯になってしまう理由としては、次のようなものが挙げられます。

①水条件・降水量が少なく、樹木が生活できない場合(ステップあるいはステップ気候)。

②気温・低温が極端な場合。植物が地表から離れにくくなるため(ツンドラ・高山帯など)。

③風・極端に強い風が吹き付ける場所では、植物は背が高くなれないので、草原になる(風衝地)。

④土壌・特殊な土質の地域では、樹木の生長が悪くて草原になる例がある。カルストなどがその例。同様に湿地では土中の水分が多くて根が深くは入れないので、樹木は生長しにくく、草原となる。

※ウィキペディアより

ユーラシアステップとは、地平線まで草原が続くような光景を思い浮かべるとわかりやすいかと思います。

大草原と言えば、遊牧民がテントのようなもので暮らすイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。

遊牧民が使っている「テントのようなもの」は正式には「ゲル」(モンゴル語で「家」という意味)や「パオ」(中国語)と呼ばれているそうです。

このユーラシアステップでは大帝国が何度も勃興し、世界に影響を与えました。

ユーラシアステップからほとんど影響を受けなかったのは日本くらいではないか、という意見もあります。

牧畜と農耕

例えば、ユーラシア大陸の宦官は遊牧民の去勢技術を人間に用いたものですが、日本には制度的に宦官は存在しませんでした。

また、ユーラシア大陸の人々が牧畜によりタンパク質を摂取したのに対し、日本人は海の恵からタンパク質を摂取しています。

日本人は海産物から、ユーラシアの人々は、牛や山羊、羊などから栄養を摂取する歴史を積み重ねました。

これがユーラシアの人々と日本人の決定的な違いではないかと思います。

古代の人々の暮らしと言えば、農耕と牧畜を思い浮かべる人は多いでしょう。

牧畜に関する歴史は古く、古代メソポタミアや古代エジプトで、既に始まっていたとも言われています。

牧畜は、農耕を行っていた人々が後に始めたものなのか、それとも農耕とは別に、突如として牧畜が始まったのかについては、いまだに明確には分かっていません。

農業も牧畜も無かった時代に、人間が狩猟生活をしていたという事は間違いないでしょう。

しかし、その後に農耕民として定着し牧畜を始めたのか、狩猟生活から牧畜に移ったのかはよく分かっていないようです。

草原地帯では農業が難しいため、最初から牧畜を始めたとしても不思議ではありません。

また、ユーラシアステップは雨が少なく、水田を作ることは不可能なので、農耕を経ずに牧畜に移行した可能性も高いでしょう。

遊牧民たちの争い

ユーラシアステップに暮らす人にとって最も重要だったのは、辺り一帯に生えている草でした。

遊牧民たちは草を動物に食べさせて動物を育て、乳製品や動物性たんぱく質を得ていたわけです。

ここで注目すべきなのは、遊牧民同士での草の奪い合いが頻繁に起こっていたという点です。

草地を譲っていたら、自分達の一族が餓死してしまうためです。

そのため、遊牧民の間では戦闘が日常的に行われており、遊牧民は戦闘民族となりました。

さらに、遊牧民たちは草地を求めて家畜を移動させなければならず、動物たちをコントロールする高度な管理技術が必要でした。

遊牧民と去勢技術

遊牧民たちが乗る馬は去勢された牡馬でした。

これは、去勢されると性格が大人しくなり、人間がコントロールしやすくなるためです。

遊牧民は家畜を支配して暮らしていたため、人間を支配するという奴隷の発想も、彼らの文化に由来するものだと言われることがあります。

反対に、日本も律令制を導入した際に奴婢制度が出来たのですが、根付く事はありませんでした。

律令制が瓦解すると共に、10世紀には奴婢廃止令も出ています。

また、後ほど説明しますが、全ての遊牧民が牧畜だけを行って生活していたわけではなかった事が分かっています。

ひとくちに遊牧民と言っても、気候に合わせて様々な生き方があったようです。

中国と欧州の外側にある世界

古代から歴史を語る上で、中心となるのは中国と欧州でしょう。

逆に、中央アジアといった地域の歴史は、語られることが少ないように感じます。

厳密にいえばアメリカ大陸にもアステカ文明やマヤ文明、インカ帝国があり、古くから歴史がありました。

中国やヨーロッパ以外の歴史は、あまり話題にされることがありません。

その理由のひとつは、文献が残っていないことです。

マヤ文明などは文献を持っていたようですが、スペイン人によって滅ぼされてしまいました。

残酷なコンキスタドールの侵略によって文明は破壊され、住民は奴隷にされてしまったのです。

国家以前の世界と遊牧帝国の誕生

歴史を本当の初期から考えてみると、最初は国というものは存在しませんでした。

集落や集団と呼べるものは存在していたものの、国家と呼べるほどの体制は無かったと思われます。

その後、人々が何らかの目的で共同体を形成し、国家が誕生しました。

国家は人々の集合によって成り立つものであるため、人が集まらなければ国家は成立しません。

今回のテーマは「遊牧民と遊牧帝国の誕生」ですが、元々は遊牧民たちも国家は無く、それぞれで牧畜を営み、農耕地帯の人々との交易も行っていたと考えられています。

当初は関税もなく自由に売買し、取引(物々交換)をしていたとされています。

また、まだ国家が存在していなかったため、個人個人で取引を行っていました。

ちなみに、国が無かった時代の「遊牧民や農耕民が取引をした」といった内容の話は、歴史書にはあまり書かれなかったようです。

例えば、司馬遷の『史記』における「本紀」は、五帝の時代から記述を開始しており、国家が成立していなかった時代については言及されていません。

歴史書の役割

歴史書に関して考えてみると「何の為に書かれているのか」という事を考えた方がいいのかもしれません。

一般的に、歴史書は単なる過去の記録ではなく、国家の正統性を担保するために編纂されることが多いとされます。

たとえば中国では、「悪辣な王が現れ、聖王がこれを討伐した」といった物語や、「王が徳を失ったため、有徳の者が禅譲を受けて皇帝となった」といった記述が典型的です。

こうした物語は、王朝交代の正当性を説明するための枠組みとして機能していると考えられます。

国家というものは、統治の正当性を社会に示すための「理由付け」を必要とします。

日本の場合、長く同じ王統が続いているため、こうした「理由付け」について意識する機会は少ないかもしれません。

それでも、日本には『古事記』や『日本書紀』といった歴史書が存在し、神話の時代から現在に至るまでの連続性を語ることで、天皇制の正統性を担保していると見ることもできます。

実際には、国家が無かった時代にも人は存在していたので、歴史はあったはずなのですが、歴史=国家という見方もまた出来ると言えるでしょう。

蛮族とされた遊牧民 ― 中心から外れた歴史

胡麻、胡椒、胡瓜という言葉は皆さんご存じだと思います。

ここで注目したいのが、胡麻、胡椒、胡瓜を全て「胡」の文字が入っているという事です。

胡に関して、ウィキペディアには、次のように書かれていました。

胡(こ)は、古代中国の北方・西方民族に対する蔑称。「胡瓜」、「胡弓」、「胡姫」のように、これらの異民族由来のものである事を示す用法がある。

もともとの意味は、「あごひげ」が長い人である。

※ウィキペディより

胡麻はアフリカのスーダンの辺りが原産だと考えられており、胡椒はインド原産、胡瓜はインド北部のヒマラヤが原産だと言われています。

胡麻はエジプトに伝わり、クレオパトラが非常に気に入っていたという話もあります。

胡麻、胡椒、胡瓜に「胡」の文字が入っているのは、中国から見て西北から伝わったものだとされているためです。

ユーラシアステップ地帯の遊牧民は、中国において「胡」と呼ばれていました。

彼らが中国に様々な文化や物品を伝えたことにより、それらに「胡」の字が冠されるようになったと考えられます。

胡椒、胡麻、胡瓜などの言葉は、中国から見たものの見方と言えるでしょう。

歴史とは、多くの場合、ある特定の「中心」を定め、その中心から世界を語る構造を持っています。

中国の匈奴などは有名ですが、匈奴自身は歴史書を作っていませんから、歴史書に残っているのは、あくまでも「中国から見た匈奴」です。

しかし、ここで注意しておきたいのは、地球儀を一目見れば分かるように、中国やヨーロッパよりも、それ以外の地域(たとえば中央アジア、アフリカ、シベリア、東南アジア、さらにはアメリカ大陸やオセアニアなど)の方が、面積的には圧倒的に広大であるという事実です。

ユーラシアステップ地帯は、満州から中央アジアを経て、モルドバやハンガリーに至るまで広がる、非常に広大な地域です。

にもかかわらず十分な注目が払われてこなかったという点で、「広大であるにもかかわらず見過ごされがちな地域」の典型例といえるでしょう。

遊牧民にも歴史はあったはずなのですが、記録を残しておらず、中国などの歴史書では、敵国として描かれます。

遊牧民は歴史書の中心から外れている事で、蛮族扱いされているわけです。

中国は北方の遊牧民を匈奴などと呼んでいましたが、ギリシア人も「バーバリアン」といった呼称を使用しています。

ちなみに「バーバリアン(barbarian)」という語をインターネットで調べてみたところ、「1. 野蛮人・未開人」「2. 無教養で野蛮な人」といった意味が表示されました。

非常に侮辱的な意味合いの強い言葉ですが、これはあくまでもギリシャやペルシアなどから見た言葉であり、本人達は自分達がバーバリアンだとは名乗っていませんでした。

ここで注目すべきなのは、「蛮族」として扱われていた人々の中にも、実際には高度な文化を有していた場合があるという点です。

たとえば、ユーラシアステップ地帯の遊牧民たちは、広範囲にわたって移動を繰り返す生活様式を持っていたため、さまざまな民族や文明と接触し、交易や文化交流を通じて独自の高度な文明を築いていた可能性があると言われています。

ユーラシアステップの文明の方が、ギリシャや中国よりもレベルが高かったと言われているほどです。

それでも、ユーラシアステップの遊牧民たちは、文字を残さなかったために蛮族扱いされてしまいました。

突厥の時代に入ると、文字が使用されていたことが分かっています。

しかしながら、突厥が活躍したのは中国史で言えば唐の時代にあたるため、彼らが文字を導入したのは比較的遅い時期だったのではないかとも考えられます。

中国ではすでに紀元前から甲骨文や金文などの文字体系が存在していました。

それに対して、中央アジアの遊牧民たちは、移動生活を基盤とする社会構造のためか、文字の定着が遅れた傾向があります。

もし中央アジアにおいても紀元前から文字文化が発達していたならば、彼らの文明に対する評価や歴史的な見え方は、現在とは大きく異なっていたかもしれません。

司馬遷とヘロドトスが与えた影響

「歴史と言えば中国か欧州」という考え方になってしまうのは、司馬遷とヘロドトスが原因だと言えます。

司馬遷は前漢の武帝の時代の人物です。

司馬遷は宮刑を受けてしまった悲劇の歴史家です。

遊牧民と関係があり、匈奴に敗れてしまった将軍の李陵を弁護した事で武帝の怒りを買い、去勢されてしまいました(宮刑)。

司馬遷が生きた時代は、漢と匈奴の転換期でもありました。

漢帝国の初代皇帝・劉邦が匈奴の冒頓単于に敗れてから数十年が経っており、漢は匈奴に貢物や公主を贈っていました。

漢からすれば「貧しい匈奴を援助していた」「金で平和を買った」など、色々な言い分があるかとは思いますが、実質的に漢が匈奴の属国であったとも言えます。

武帝の時代に漢と匈奴は全面戦争となり、匈奴に大打撃を与えています。

当時の漢には霍去病や衛青、李広といった名将が現れました。

武帝に関して少し述べておくと、気に入らない人間をすぐに処刑してしまうなど、かなり怖い君主だと言えます。

ヘロドトスは「歴史の父」と呼ばれる、歴史書を書いた人物です。

ヘロドトスの著書には、ギリシャとペルシアの戦争などを中心とした記述が非常に細かくなされています。

ヘロドトスは古代ギリシアの歴史家なのですが、ギリシアだけに留まらず、バビロニア、エジプト、アナトリア、クリミア、ペルシアの事も記録しています。

古代の歴史家と言えば、ヘロドトスと司馬遷が二大大家となるでしょう。

そのため、現在だと教養の上で歴史を学ぶとすれば、司馬遷の『史記』とヘロドトスの『歴史』だ、という話になってしまいます。

中央アジアは『史記』の中国やヘロドトスの欧州から見ての世界観が語られます。

中国史観と欧州史観が中心という事です。

中央アジアは非常に広大な地域であるにもかかわらず、文字文化の発展が比較的遅れたため、歴史叙述の中ではしばしば「歴史の外」に置かれてしまう傾向があります。

また、中央アジアだけではなく、インドやアフリカの南部といった地域も文字が無かったと言われています。

インドに関しては、インダス文明のインダス文字があったとも言われていますが、インダス文字は文字ではなく記号だとする説もあり、未だに解読出来ていません。

文字の発展が遅かった事で、中央アジアには歴史が無かったかの様に受け取られがちですが、ユーラシアステップの文明は、間違いなく世界を動かしていました。

実際、歴史の大きな転換点の多くは、遊牧民の動きによって引き起こされた側面があります。

それでも、ギリシア人やペルシア人や中国人にとってみれば、ユーラシアステップの人々は、先にも述べた様に「蛮族」扱いされてしまうのですが…。

遊牧民とは

遊牧民の特徴として、ヘロドトスは次のものを挙げています。

①マッサゲタイ人の服装はスキタイ人のものによく似ており、その生活様式も同様である。

②農耕は全くせず、家畜と魚を食料として生活している。魚はアラクセス河からいくらでも採れる。また飲み物には専ら乳を用いる。

③マッサゲタイにおいて男は一人ずつ妻を娶るが、男たちは妻を共同に使用すると記録しているが真実ではない。

④マッサゲタイの男は婚姻をするために女の住む馬車の前に自分の箙(えびら)を懸け、婚姻を申し込む。

⑤神として崇敬するのは太陽だけで、馬を犠牲に供える。

ウィキペディアより

このマッサゲタイ人が世界で最初の遊牧帝国を作ったと考えられています。

マッサゲタイ人は紀元前6世紀から紀元前1世紀頃まで存在の確認が取れます。

遊牧とは「乾燥地帯において集合本能を持つ家畜の飼養を主な経済手段とする生活様式を持っている」という事です。

しかし、遊牧には色々な種類があり、一概には言えない部分も存在します。

牛などは大量の水が必要であるため、ステップ地帯で牛を飼うのは非常に難しいとされます。

牛を飼うならステップ地帯よりも、もう少し北にあるシベリアに近い方がいいでしょう。

乾燥地帯で遊牧を行うなら草を食べるだけでかなり長生きできる羊、山羊、馬などが最適です。

この遊牧民たちが満州から、モンゴル草原、カザフスタン平原、ハンガリーの辺りを右に左にと家畜と共に動いていくことになります。

今回の題材は「遊牧帝国」ですが、遊牧帝国と言えば、遊牧民だけの帝国だと思われることが多いです。

遊牧帝国といえば、真っ先に思い浮かぶのはモンゴル帝国ではないでしょうか。

そのため、遊牧民というと馬に乗って草原を駆ける「騎馬民族」というイメージが強くなりがちです。

しかし、実際には遊牧民と言っても、様々な生活様式があったとされています。

草原地帯は乾いた気候ですが、所々にオアシスがあります。

オアシスには定住している遊牧民もいます。

他にも、春になったら放牧し、冬になったら決まった冬営地に戻ってくるなどの生活をする遊牧民もいます。

農耕をしながら遊牧をしている人もいたという話もあります。

ユーラシアステップ地帯は非常に広大であるため、地域ごとに気候や地形、資源の分布が異なり、それに応じて生活様式も大きく異なっていたと考えられます。

このような環境では、単一の生活様式に頼ることは、生存の危機を招きかねません。

だからこそ、遊牧民たちは柔軟に生活様式を変化させ、状況に応じて適応する力を養ってきたのです。

「強い者が生き残るのではなく、状況に適応できた者が生き残るのだ」という言葉があるように、ステップ地帯の遊牧民はその適応力によって長く存続してきました。

遊牧民にとっての交易 ― 生存のための戦略

遊牧民を考える上で欠点となるのが、「絶対に自給自足が出来ない事」だと言われています。

穀倉地帯は比較的自給自足が可能ですが、遊牧民は自給自足が出来ないと考えられています。

遊牧地帯の欠点として、糖類が取れない事が挙げられます。

人間は生きていくためにタンパク質だけではなく糖類も必要です。

しかし、乾燥地帯では穀物を栽培する事が困難です。

また、遊牧民であっても絹製品やインドの綿製品を欲しがったという話があります。

遊牧民は動物の毛皮などから服を作っていたのですが、流石にそれだけでは不便だったようです。

しかし、遊牧民は絹製品や綿製品などの布類の生産が出来ないため、穀倉地帯から買うしかありませんでした。

こうした事情から、草原地帯と穀倉地帯で交易を行う事になります。

草原地帯の乳製品、革製品、塩、馬などと穀倉地帯の穀物、衣類、日用雑貨が取引されていました。

草原地帯の代表者が穀倉地帯の代表者と直接取引する場合もあれば、草原地帯と穀倉地帯を仲立ちする仲介人を介して、取引される場合もあったとされています。

遊牧民というのは基本的に一族で暮らし、好きな場所に行って交易し、自由な生活を送っていました。

遊牧民を指す言葉として「ノマド(nomad)」がありますが、この語は現代においても使われており、たとえば「ノマドワーカー」という表現で見られます。

これは、特定のオフィスや居住地に縛られず、好きな場所で生活しながら働く人々を指す言葉です。

初期の頃の世界は国もなく人々が自由に生活し、商売していた事から「市場原理主義」の世界だったと言われています。

農耕民族と遊牧民族の間での取引は、物々交換が基本だったと考えられています。

モンゴルの時代の銀本位制といった制度が出来るのは、かなり先の話になります。

ここで強調しておきたいのは、遊牧民たちにとって穀物の確保がまさに「死活問題」であったという点です。

彼らは自ら穀物を大量に生産することができなかったため、周辺の穀倉地帯との交易によって穀物を入手していました。

この交易が成立しなければ、遊牧社会は飢餓に直面し、存続そのものが危うくなるのです。

穀物が手に入らない場合には、略奪をしなければなりませんでした。

したがって、遊牧民にとって交易は単なる経済活動ではなく、生存戦略の中核をなしていたと言えるでしょう。

国家の誕生と遊牧帝国の形成

遊牧民側で食料が不足すると、略奪なども頻繁に起きるようになりますが、農耕民族側にも変化が起きます。

農耕民族側で、国家が誕生したのです。

これには、大量生産を行う為の灌漑設備が大きく関係していると言われています。

現在でも雨水を頼りにした天水農業というものがあるのですが、大きな灌漑設備を作る為には、多くの人が協力する必要がありました。

文明は黄河、長江、ナイル川、チグリスユーフラテス川の近辺から始まったと言われているとされており、そこでは灌漑設備を皆で協力して作っていました。

灌漑施設を作る為のリーダーがいて、多くの人を動員していたようです。

古代国家では灌漑設備を上手く作った人がリーダーであり、王となって絶賛されたとも考えられています。

例えば、夏王朝の禹は治水工事に成功して、王となった記録があります。

農業の生産力を高める為には、灌漑設備を作る土木工事が必要であり、多くの人が共同体に属する必要がありました。

人が集まって集団を形成すれば、自然とその中で調整役や指導者が必要となります。

こうした「まとめ役」が登場することで、集団内には役割の分化が生じ、やがて階級や権力構造が形成されていきます。

こうした事情もあり、穀倉地帯で国家が誕生したと考えられています。

文明国家と呼ぶべきかもしれません。

しかし、穀倉地帯で国家が誕生した事で困ったのが、草原地帯にいる遊牧民たちです。

国家が誕生する以前の社会では、経済活動は基本的に市場原理に基づいて自由に行われていたと考えられます。

国家という統制機構が存在しないため、誰もが好きな場所で商売を行うことができ、価格や取引の内容に対する規制もほとんど存在しませんでした。

しかし、穀倉地帯などで国家が成立すると、状況は一変します。

国家は食料供給の安定や税収の確保を目的として、価格統制や流通の管理を行うようになり、市場の自由は次第に制限されていきました。

国家が誕生した事で、国家内で不作によって穀物が少量になってしまった地域があった場合に、豊作だった地域から食料を分け与えるなどの対策を講じる様にもなっていきました。

国家の内部で人々が互いに助け合い、共通の利益や価値を意識するようになることは、ナショナリズムの目覚めと捉えることもできるでしょう。

市場原理主義の観点からすれば、「他者を助ける義務はない」「不作で苦しむのは自己責任である」といった考え方も成立します。

しかし、国家が成立すると、単なる市場原理とは異なる論理が登場します。

たとえば、穀物の価格統制、備蓄制度、救荒政策、課税と再分配など、市場の自由を制限してでも共同体の安定を優先する仕組みが整えられていきました。

つまり、国家の誕生は、市場原理主義に対するカウンターとしても理解できるのです。

しかし、穀倉地帯側で国家が誕生し、価格統制が行われた結果、遊牧民は何処に行っても同じ価格で取引するしか無くなってしまいました。

遊牧民が持つ革や馬の価格が買いたたかれることは珍しくありませんでした。

さらに、物資を奪おうとして穀倉地帯を攻撃したものの、逆に返り討ちに遭うといった事態も起こるようになりました。

遊牧民は馬の扱いにも慣れており、部族同士の草地の奪い合いも経験しているため戦闘は極めて強かったのですが、遊牧民の小さな一部族対穀倉地帯の国家であれば、当然戦力には大きな差が生まれます。

穀倉地帯側は国家であるため動員できる人数も格段に増えており、組織だった軍隊も存在していました。

穀倉地帯の側が分裂していれば、遊牧民たちは容易に略奪できました。

しかし、統一された国家を相手にすると歯が立ちませんでした。

遊牧民たちも生きて行くために団結するようになっていき、その結果遊牧帝国が誕生したと考えられています。

遊牧国家として有名な匈奴も、最初は小さな部族だったそうです。

スキタイ人の遊牧帝国

遊牧帝国の誕生については、実際には不明な点が多いです。

「牧畜自体が農業よりも前にあった」「ユーラシアステップではいきなり牧畜が始まった」など、様々な言説があります。

ただし、歴史的に見ると最初の遊国家は、現在のウクライナ南部、キプチャク草原で勢力を誇ったキンメリア人だと言われています。

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが、自著の「ヒストリア」で、次のように記しています。

スキタイ人をはじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、ボルガ川を渡りキンメリア地方に移ったという。

現在のスキタイ人の居住する地域は、古くはキンメリア人の所属であったと言われるからである。

前述したように、マッサゲタイ人は中央アジアにいる遊牧民です。

マッサゲタイ人に攻められたスキタイ人がボルガ川を越えて西に進み、キンメリア人が住んでいた地域に移動したとされています。

遊牧帝国を考える上で、スキタイは覚えておくといいでしょう。

スキタイは紀元前8世紀頃から紀元前3世紀頃まで、ウクライナの辺りを中心に活動していたイラン系の遊牧国家です。

スキタイはアケメネス朝ペルシアと戦った事もありました。

アケメネス朝ペルシアは、紀元前五世紀から6世紀頃に最盛期を迎え、西は現在のエジプトから東はインダス川にいたる広大な地域を支配下とした、非常に大きな帝国です。

地図を見ると、アケメネス朝ペルシアの北にはスキタイが存在しており、両者は戦争に発展しやすい位置関係にあったことが分かります。

ギリシアとアケメネス朝ペルシアの戦争は有名です。

当サイトでも過去にテルモピュライの戦いを題材にした事がありますが、これもギリシア連合とアケメネス朝ペルシアの戦いです。

ギリシアとアケメネス朝ペルシアの戦いの前には、スキタイとダレイオス1世のアケメネス朝ペルシアが戦っていました。

ダレイオス1世は自ら軍隊を指揮したわけではなく、軍隊をスキタイに派遣したと言われています。

ダレイオス1世は、一般的にはキュロス二世から数えて第三代とされているのですが、ダレイオス1世自身の発言によれば、第九代の王であるそうです。

彼は国内に「王の道」と呼ばれる街道網や港湾を整備しました。

さらに、度量衡を統一し、貨幣制度も整備するなど、その後の文明に大きな影響を与え大帝国を築き上げました。

アケメネス朝ペルシアがスキタイを攻撃した際、スキタイは「騎馬隊が一定の距離を保ちつつ近づいては後退する」というヒットアンドアウェイ戦法でペルシア軍を内陸部に引き込む作戦に出ます。

ペルシア軍はスキタイ人の挑発により、気が付いた時には奥地の方まで引きずられており、兵站も伸び切っていました。

アケメネス朝ペルシアの軍はスキタイの軍の速度に翻弄され、次第に疲弊していきました。

スキタイ軍は焦土作戦を実行しており、アケメネス朝ペルシアの軍は膨大な数の軍隊を養う食料も枯渇したという話があります。

勢いを失くしたペルシア軍に対し、スキタイの騎兵が攻撃を仕掛け、雨の様な矢を浴びせ勝利しました。

この時のペルシア軍の損害は8万に上ったとも伝わっています。

騎馬の機動力と、奥地に誘導するというスキタイがペルシアに勝利したこのやり方は、ペルシアの重装歩兵軍団を、全く寄せ付けずに勝利したとも言われており、騎馬民族の伝統とも呼べる戦いのスタイルになっています。

スキタイなどの遊牧民が強い理由として、先にも述べたように日常的に戦争が行われており、軍隊が強かったという事が挙げられます。

遊牧民は成人男性であれば大半は馬に乗ることができたことや、馬に乗りながら弓を射る騎射が出来たことも大きいと言われています。

こうした遊牧国家が強大な軍事国家となる事は必然だったと言えるでしょう。

さらに、遊牧民は戦いに敗れたとしても、ユーラシアステップの奥地に馬で延々と逃げることが出来ました。

スキタイに関してさらに述べておくと、全てのスキタイ人が遊牧をしていたわけではありませんでした。

強力なスキタイであっても、一つの生活方式で全てを賄う事は出来ませんでした。

王族スキタイ農耕スキタイ、農民スキタイ、遊牧スキタイ、別種スキタイなど様々な生き方が存在していたと考えられています。

(画像:ウィキペディア

農耕スキタイと農民スキタイは、似ていますが少し異なります。

つまり、農耕をしていたスキタイ人も、遊牧をしていたスキタイ人もいたということです。

他にも、「交易スキタイ」と呼ばれている人々もいました。

交易スキタイはギリシア系のスキタイ人であると伝わっています。

スキタイは黒海の北側におり、最初の頃から多民族国家でした。

黒海の北岸にいた様々な民族を取り込んで行ったのです。

スキタイの戦い方や様々な生活様式が東に伝わっていき、匈奴帝国が誕生したのではないか、とも考えられています。

次に、代表的な遊牧帝国を紹介します。

代表的な遊牧帝国

匈奴

遊牧帝国と言えば、匈奴を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

匈奴は一時、漢を凌ぐほどの実力があったのですが、分裂などが原因で、最後は匈奴というアイデンティティが無くなり終わりを迎えたとされています。

匈奴も周囲の遊牧民と戦いを繰り返し、次第に強大になっていったのではないかと考えられています。

先述の通り、匈奴も最初から中華側を圧倒するような勢力ではなく、弱小だったと言われています。

匈奴の南進を止める為に、秦の始皇帝は万里の長城を建設しました。

万里の長城はあまり役に立たなかったと指摘されることがあり、万里の長城建設の指揮をした蒙恬も「人民の乱費」などと批判されています。

秦の始皇帝が亡くなると、陳勝呉広の乱が勃発するなど中華は大混乱に陥り、項羽との楚漢戦争を制した劉邦が皇帝になりました(漢帝国の誕生)。

中華を統一した劉邦は自ら兵を率いて匈奴を攻撃するのですが、冒頓単于の軍に大敗してしまいます。

ここから漢は匈奴に貢物を差し出し、属国のような形になりました。

しかし、漢の武帝の時代になると、漢は属国状態から脱し、匈奴と漢の全面戦争の時代に突入していく事になります。

匈奴側は文字が無く記録が残っていないものの、漢よりも匈奴の方が大国であり豊だったとする見解も多くあります。

私は、遊牧帝国と言えば匈奴と突厥、鮮卑が三大遊牧帝国であるというイメージがあります。

また、匈奴は十進法を使っていた事が明らかになっています。

匈奴の軍事・政治・社会組織には、十進法が広く用いられていたと考えられています。

軍事面では、十人を集めて小隊を編成し、その小隊を十組まとめて中隊とする、といった具合に軍隊を組織していました。

他にも、匈奴の特徴の一つに「三大分割体制」というものがあります。

これは南を正面として、左・中・右の三つに分ける体制です。

三大分割体制は真ん中に主がおり、左右に部下を置く体制とも言えます。

十進法と三大分割体制は遊牧民の伝統的な体制と言えるでしょう。

後の時代のモンゴル帝国も十進法や分割体制を使っていました。

匈奴は紀元前の段階から存在していた事が確認されており、かなり長く十進法や分割体制が使われていたことが分かります。

「分割したら弱体化してしまうのでは」と考える人も多いと思います。

しかし、勢力範囲が広くなりすぎてしまうと、一人の人間では処理が追い付かなくなるため、分割体制にする理由はきちんとあるのです。

前述のアケメネス朝ペルシアは、広大な領土をダレイオス1世が単独で統治していました。

しかし、もしアケメネス朝ペルシアがギリシアを征服していたなら、ギリシアの統治は他の人物に委ねられていたのではないか、とも考えられています。

鮮卑

匈奴の勢力が衰えて来ると、周りの遊牧民は力をつけて独立していきました。

遊牧民たちは力の論理によって匈奴に従っているにすぎず、匈奴が弱まればただちに独立へと転じました。

後漢の時代には、中国の北方に鮮卑がいました。

当時の匈奴は南北に分裂し、南匈奴が長城の内側にいる状態になっています。

また、鮮卑という名前には卑しいという文字が入っており、この辺りも中国史観で語っている事が分かります。

鮮卑は、匈奴が東胡を滅ぼした際に、生き残りが鮮卑山に逃れたことが始まりであるとされています。

鮮卑は匈奴が南北に分裂した後に強大になり、中国の北方に大帝国を建国しました。

しかし、鮮卑の場合は単なる遊牧民では終わりませんでした。

中国の歴史は、前漢から王莽の新、後漢、三国時代、西晋へと移り変わっていきました。三国時代の動乱などによって人口が大きく減少し国力が弱まると、遊牧民たちは次々と中華の地へ侵入するようになりました。

中国の北方では異民族が争う五胡十六国の時代に入る事になります。

中国は南北朝時代に突入するのですが、再び中国を統一したのが隋です。

隋や後継となる唐は鮮卑拓跋部の出身であると伝わっています。

つまり、鮮卑の人々が隋や唐を建国したということになります。

ただし、キングダムで有名な李信の子孫が唐の李淵だとする説もあるようです。

唐の二代皇帝である李世民は貞観政要で有名ですが、一般的には鮮卑族の出身と考えられています。

隋や唐の王朝は漢人ではないということです。

ここで注目すべきは、中国側が鮮卑を卑しい民族として扱っていたにもかかわらず、唐が建国された際には「お前たちも鮮卑の出身ではないか」と指摘される状況に至ったことです。

それと同時に、隋や唐が中国を統一した時には、鮮卑の勢力が中国の南方にあるベトナム近辺まで勢力範囲になりました。

鮮卑も唐も元は同じ民族ですからね。

しかし、中国としてはそれらは不都合な事実であったため、鮮卑と唐は分けられる事になりました。

突厥

隋や唐の時代になると、中国の北方にいたのは突厥でした。

突厥は現在でも非常に重要な存在です。

突厥はトルコのことだと思った方がいいかもしれません。

現在のトルコの位置と、中国の北方にあった突厥の位置は大きく離れており、疑問を持つ方もいるかもしれませんが、それについては後述します。

日本の教科書などでは、トルコと書いてしまうと現在のトルコ共和国と区別がつかなくなるという問題があり、テュルクと呼ぶことがあるそうです。

中国には新疆ウイグル自治区と呼ばれる地域があります。

新疆とは「新しい土地」という意味であり、またしても中国側の史観が入っていることが分かります。

元々新疆ウイグル自治区に住んでいた人にとってみれば、新しい土地でも何でもありません。

トルファン盆地は、中国新疆ウイグル自治区の天山山脈の東端の南面にあり、ボゴダ山と覚羅塔山の間の南側に当たる地域です。

突厥はトルファン盆地の遊牧民が552年に柔然から独立したことから始まり、北方に大帝国を築く事になります。

突厥の前に、柔然に関して少し説明しましょう。

柔然という名前は「柔らかい」「自然」など、柔よく剛を制すといったイメージがありますが、北魏の時代に中国の北で大勢力を誇っているのです。

北魏の太武帝は柔然に大いに苦しめられたと言われています。

彼は非常に苦戦したため、柔然という穏便な呼び方を嫌い、卑しい文字である「蠕蠕(ぜんぜん)」というものに変更したという話があります。

その柔然から552年に独立したのが、突厥でした。

552年に柔然から突厥が独立したのは、重要な年となりますが、これも後ほど説明します。

ただし、突厥は582年に内紛により東西に分裂しています。

少し話が横道に逸れるのですが、三蔵法師としても知られる玄奘は旅の途中で西突厥に保護され、楽々と西トルキスタンの諸国を通過したという説があります。

彼は仏典を正しく学び翻訳するためにインドへ赴きました。

苦しく辛い苦難の旅だったように思うかもしれませんが、実際に彼が大きな困難を経験したのはトルファン盆地の高昌国までであり、その後は西突厥の保護を受けて、西トルキスタンの諸国を比較的容易に通過したとする説もあります。

玄奘の頃の西突厥は全盛期と言ってもよく、途中からは苦難も少なく道中を進む事が出来たと考えられています。

トルコ人の起源と広がり

現在のトルコがアナトリア半島にある事を考えると、突厥がトルコだと言われても違和感を覚える人が多いと思います。

実際、突厥とトルコは全く別の場所にあるように見えます。

トルコの人々は突厥滅亡後もユーラシアステップで活躍し、幾つもの遊牧民の帝国を打ち立てました。

ウイグル、キルギス、カラハン朝などはトルコ系に属するとされます。

トルコの人々は、もともとユーラシアステップを起源とする遊牧民であったと考えられています。

トルコ人たちは、西へ西へと進み、モンゴル帝国とも融合しつつ最後にはアナトリア半島に到達し、トルコ系のオスマン家の子孫を皇帝とする多民族国家・オスマン帝国を築いたと言われています。

オスマン帝国は、昔はオスマントルコと呼ばれていました。

オスマン帝国時代、トルコは「遊牧民」という意味であったため「オスマントルコ」という言葉は正確にいえば間違いです。

「トルコ」という呼称は、単に遊牧民を指すだけでなく「田舎者」という意味合いでも用いられていたとされます。

オスマン帝国の支配下にあった人々にとって、「トルコ人」とは遊牧民を意味する言葉であり、同時に蔑称としての響きも伴っていたのです。

そうなると、オスマン帝国の後継がトルコ共和国なのかという疑問が浮かびます。

そこで、オスマン帝国とトルコ共和国の関係を見てみましょう。

初めに、オスマン帝国が第一次世界大戦で解体され、ケマルパシャを中心とした若手軍人たちがトルコ共和国を建国しました。

この時に「トルコ共和国」というナショナリズムを作る為の何らかの核が必要だったのです。

トルコ共和国では「トルコ民族主義」という思想基盤が打ち出される事になりました。

「この国は如何なる事情でこういう国家であるのか」という説明的な基盤を作り出すことになります。

オスマン帝国という大帝国が解体され出来たトルコ共和国では「自分たちはどういう国の国民なのか」と、自分たちを納得させる理屈が必要だったとされます。

トルコ共和国の建国は、552年に定められました。

トルコ共和国が建国されたとする552年は、柔然から突厥が独立した年です。

これだけでは、本当に突厥と関係があるのかという疑問が残りますが、突厥は遊牧民でユーラシアステップを東に西にと移動しており、「トルコ人の先祖が突厥ではない」ということは誰にも証明出来ません(当然、トルコ人の祖先が絶対に突厥であると証明することも不可能ですが)。

つまり、トルコ共和国と突厥は何の関係もない可能性もあるということになります。

ただ、個人的には関係している可能性は高いと思います。

カザフスタン、キルギス、トルクメニスタン、ウズベキスタン、中国共産党が新疆ウイグル自治区と呼んでいる場所などはトルコ系です。

また、黒海とカスピ海の間にあるコーカサスのアゼルバイジャンもトルコ系です。

こうしたことを考えると、トルコ系の人々はかなり広範囲に渡って居住しているように思えます。

ちなみに、トルコ系の人々が暮らす中央アジアの一帯を「トルキスタン」と呼ぶことがあるそうです。

国名の最後につく「スタン」とは、●●の土地という意味です。

カザフスタンなら「カザフ人の土地」、アフガニスタンなら「アフガン人の土地」といった意味になります。

つまり、トルキスタンは「トルコ人の土地」ということです。

ウイグル帝国

遊牧民の国と言えば、東突厥を滅ぼしたウイグル帝国も有名です。

ウイグル人もトルコ系です。

ウイグルは元々カザフステップからモンゴルに掛けて暮らしていた遊牧民でした。

現在のカザフスタンの辺りにいたということになります。

ウイグルの人々が唐と組んで、745年に東突厥を滅ぼし、モンゴル高原の覇者になったとされています。

地図を見ると、東突厥の勢力範囲が、そのままウイグルに組み込まれたことが分かります。

ウイグル商人の交易に関して、興味深い話があります。

シルクロードを交易路として使っていたイラン系のソグド人という民族がいました。

ソグド人とウイグルの人々は、非常に友好的な関係を築いていたと伝えられています。

当時の中央アジアの交易は、ソグド人が大半を占めていました。

ウイグルの人々は、ソグド人と協力して唐の絹製品を売るようになり、莫大な利益を得る事に成功しました。

ウイグルの人々は、ソグド人から交易のノウハウを多く学ぶ事になります。

そのため、元々は単なる遊牧民だったウイグル人達が交易もするようになりました。

後にソグド人は衰えてしまうのですが、代わりにウイグル人達が商人として中央アジアの交易を一手に担うようになります。

今までの遊牧民は農耕地帯と取引はしていたものの、あくまでも自分たちの商品を売るだけでした。

それが、商品を右から左に移動して儲けるように変化していったのです。

モンゴル帝国

最強の遊牧民と言えば、世界帝国と言われることもあるモンゴル帝国を思い浮かべる人が多いと思います。

モンゴル帝国がユーラシアの地で誕生した時に、商人として活躍したのがムスリムと呼ばれるイスラム商人とウイグル人です。

しかし、ウイグル人にとってみれば、ユーラシアステップに多数の民族がいたのは、国境を超えるたびに通行税を取られるなどといった点で、非常に都合が悪かったと言われています。

ウイグル人達はチンギスハンの時代から、モンゴルに協力的な姿勢を取っていました。

当時のウイグル王がチンギスの娘を妻として貰い、モンゴルに婿入りしたという話もあります。

モンゴル帝国は、クビライハンの時代に朝鮮半島からポーランドまでを支配下に置き、通過税を撤廃しています。

モンゴル帝国が巨大になりユーラシアステップを制した事で、ウイグル商人は非常に商売を行いやすくなりました。

モンゴル人自体はそれほど数が多くなかったため、モンゴル帝国ではウイグル人以外でも、様々な人種、民族が活躍する事になります。

遊牧民は移動する事もあり、農耕民族と比べると、様々な人々と交流する機会が多かったとされています。

こうした事から、モンゴル人は異なる民族であっても「イルモンゴル」(モンゴルの身内)として受け入れていました。

ウイグルだけでなく、トルコ系の人々は続々とモンゴルの身内となっていきました。

「イルモンゴル」と聞くと理想的な統合のように響くかもしれません。

しかし実際には、力の論理に基づき、ユーラシアの諸民族が最強のモンゴル軍に服従していただけでした。

モンゴル帝国に関して述べておくと、モンゴル帝国が誕生するまでに幾つかのステップがあった事が分かります。

彼らは元々遊牧民の生活があり、穀倉地帯との交易を行い、そこから国が誕生し、商売も行う様になった、という段階を踏んでいました。

また、遊牧民の帝国を見ていくと、力が衰えるとすぐに他の遊牧民に取って代わられるため、長く続く帝国はほとんど存在しないということも分かります。

それでも、モンゴル帝国というのは、遊牧民の歴史が積みあがった上で誕生しています。

おわりに:遊牧民の存在と未解明の歴史

遊牧民の歴史は中国や欧州といった「外側」からの記録に依存している部分が多く、不明な部分も多いのですが、内側から知る事が出来ればより彼らの生活に対する理解が深まるのではないかと思います。

モンゴル帝国などに関する文献は豊富なのですが、漢語とペルシア語で書かれているものが多く、調べるには両方を覚える必要があります。

ユーラシアの歴史は遊牧民によって動かされた部分もあります。

文明の生態史観で有名な梅棹忠夫は、ユーラシアステップを「悪魔の巣」と呼んでいます。

彼はユーラシアステップを次のように描写しています。

乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯のまんなかからあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力をしめすことができるのであろうか。

とにかく、むかしから、なんべんでも、もの凄く無茶苦茶な連中が、この乾燥地帯からでてきて、文明の世界を嵐のようにふきぬけていった。

そのあと、文明はしばしばいやすことの難しい打撃をうける。

ユーラシアステップに住む遊牧民の危険性がよく伝わってきます。

ユーラシアステップは、本来きわめて興味深い地域であるにも関わらず、歴史研究の中であまり取り上げられることのないテーマであると言えるでしょう。

今後の研究の進展に大いに期待したい所です。

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宮下悠史

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