春秋戦国時代 秦末期・楚漢戦争

蒙恬の史実・秦の歴代トップ3に入る名将だけど人民の力を乱費をした

2021年3月12日

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宮下悠史

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蒙恬と言えば、の武将の中でも歴代トップ3に入る名将だと自分は考えています。

実際に、始皇帝(政)の天下統一後には、北方の匈奴討伐で功績を挙げています。

キングダムでは、「かわいい」とか「イケメン」とか、そういうイメージがありますが、実際の史実の蒙恬がどのような人物であったのか紹介します。

ちなみに、蒙恬の祖父は蒙驁(もうごう)ですし、父親も武将として活躍した蒙武です。

完全な武将の家系である蒙恬ですが、キャリアのスタートは文官だったようです。

司馬遷が書いた史記にも、「蒙恬は刑法を学んだ事があり、裁判文書を取り扱う役目だった」とあります。

蒙恬の弟を蒙毅と言いますが、蒙毅が文官を続け秦の政策の立案に関わり続けたのに対して、後に蒙恬は兵を率いる将軍となっています。

蒙恬は将軍としては、有能でありましたが、司馬遷の書いた史記には「人民の力の乱費」とも手厳しい事も書かれているわけです。

その辺りも含めて、史実の蒙恬を解説します。

尚、残念に感じるかも知れませんが、史記などの書物を見ても蒙恬が「容姿端麗」とか「美男子だった」とする記述は一切ありません。

李信と共に項燕に敗れる

蒙恬が初めて戦場に出た記録ですが、李信の副将としてを攻めた時の事です。

李信は、を攻撃した時に、大功を立てています。

燕の太子丹は、荊軻という刺客をに送り付けてきますが、燕征伐では李信が太子丹を斬ったともされています。

この若くて武勇に優れる李信を政は大そう気に入っていたわけです。

嬴政は、楚を討伐するのにどれだけの兵力が必要か?という問いに、王翦は60万と答えたのに対して、李信は20万で十分だと答えています。

これにより政は、李信を総大将として、楚を攻めさせる事にしました。

副将を蒙恬にしたわけですが、父親である蒙武や秦の宿老のような将軍たちよりも、若い蒙恬の方が李信も命令しやすいと考えての任命だったのかも知れません。

流石に、若い李信であれば、古参の武将などは扱いにくいはずです。

李信と蒙恬は、順調に楚を打ち破りますが、楚の項燕に急襲されてしまうと呆気なく敗れています。

蒙恬は、副将ではありましたが苦杯を嘗めさせられています。

その後、王翦が父親である蒙武を副将として60万の大軍で楚を攻めて滅亡させています。

項燕は、秦から移って来た昌平君を楚王にしますが、抵抗する力にはならなかったようです。

楚を滅ぼすと勢いに乗り百越の部族を滅ぼしたりして、東の海の方まで秦は進軍しています。

斉を滅ぼして天下統一する

楚を滅ぼした秦は、次のターゲットを遼東に逃亡した燕に定めます。

秦は李信と王賁(おうほん)に燕を攻撃させて、燕王喜を捕らえる事に成功し残すはだけとなりました。

史実の斉王建は、宰相である后勝の策に従い他国()を助ける事をしませんでした。

それ故に、即位してからほとんど斉は平和だったのですが、政は最後のターゲットである斉に侵攻します。

李信、王賁、蒙恬の3人で斉に侵攻すると、戦わずに斉王建は降伏しています。

これにより天下統一が達成されたわけです。

尚、秦が天下統一すると、秦の将軍であった王翦、王賁、李信、蒙武などは、どうなったのか記録がなく分からなくなります。

多分ですが、始皇帝(政)が崩御する頃までには、既に亡くなっていたのではないかと思われます。

しかし、蒙恬だけは統一後も活躍した事が分かっているわけです。

尚、司馬遷が書いた史記の蒙恬列伝には、斉を滅ぼすと蒙恬を内史(都の長官)に任命したとあります。

内史と言えば「」になるわけですが、蒙恬も内史に任命された事が分かっています。

は左遷されたような説もあるわけですが、統一前に死亡するか引退していたのかも知れません。

30万の軍勢を率いて匈奴を破る

天下統一されると始皇帝は、蒙恬に命令して北伐を開始させます。

始皇本紀によると、始皇帝は不老不死を目指していた話しがあり、方士の盧生は「秦を滅ぼす者は胡なり」という予言めいた書物を発見しました。

これにより始皇帝は蒙恬に30万の軍勢を率いさせて、匈奴征伐を行わせる決断をする事になります。

尚、「秦を滅ぼす者は胡なり」の言葉を始皇帝は匈奴だと解釈しましたが、実際には胡亥だった事になります。

蒙恬は30万の軍勢を率いて、匈奴を打ち破りました。

これにより匈奴の王である頭曼単于は北に移る事になります。

蒙恬は、匈奴に大勝したようで、匈奴の人々は蒙恬の事を大そう恐れたとされています。

秦は、匈奴の勢力圏であった、黄河の南(現在の内モンゴル)を手に入れたと史記に記録があるわけです。

匈奴が大敗したのは、春秋戦国時代の名将である李牧以来ではないかと考えられています。

尚、蒙恬が北伐を行った理由は、秦の始皇帝は統一戦争の為に、膨大な兵力を準備しており、統一後に膨れ上がった兵士達を養わねばならず、結果として蒙恬に北伐を行わせたとする説があります。

世界史を見ると、強大な勢力となった時に、膨大な兵力を何とかせねばならず、海外遠征を決行する例は多いです。

蒙恬が毛筆を開発した?

蒙恬が毛筆を開発したとする説が残っています。

蒙恬が北方に遠征した時に、北方にいる動物たちの毛を取りまとめて、筆にしたというわけです。

それを始皇帝に献上したのが、毛筆の始まりだとされています。

始皇帝も使いやすいと思ったのか、普及させたのかも知れません。

しかし、実像で考えれば蒙恬の部下が考え出して、蒙恬に献上し、蒙恬が始皇帝に送ったとするのが妥当かなと思いました。

これは諸説であり本当に、蒙恬が毛筆を開発したのかは、分からない部分でもあります。

万里の長城を築く

その後、蒙恬は万里の長城を築く事になります。

始皇帝は、北方の遊牧民への備えとして、戦国時代の長城を繋げて万里の長城を作りあげたわけです。

万里の長城は険阻な場所に砦があり、臨洮(りんとう)から遼東まで距離は1万余里あったと記録があります。

他にも、始皇帝は、巡幸を何度か行っていますが、甘泉宮(秦の離宮)から九原郡までを直行出来る道が欲しいと考えて、蒙恬に作らせています。

この道に関しては、完成しなかったようですが、始皇帝の様々な土木工事にも蒙恬は関与していたようです。

ただし、阿房宮の建設のような、宮殿系の増築には関わっていなかったのではないかと思います。

扶蘇を蒙恬を預かる

北伐の成功や万里の長城などの功績により、始皇帝から蒙恬は絶大なる信任を得る事になります。

内政面でも、蒙恬の弟である蒙毅が活躍した為、始皇帝は蒙家を非常に重用したようです。

ただし、この時期に弟の蒙毅は、始皇帝の寵愛する趙高が罪を犯した時に、死刑にしようとした為、恨みを買っています。

これが後の、蒙家に悲劇をもたらす一因となります。

始皇帝は、通貨を統一する度量衡を行ったりもしましたが、焚書坑儒のような過激な事もしているわけです。

長男である扶蘇は、始皇帝を諫めるわけですが、逆に遠ざけられて蒙恬の元に出されています。

扶蘇が蒙恬の所に行くように命令されたのは、一説によれば蒙恬を監視するためとも、修行を積むためとも言われています。

他にも、始皇帝は末子の胡亥を可愛がっていて、後を継がせたいと考えて扶蘇を遠ざけた説まであります。

近年発見された新資料である趙正書では、始皇帝が自らの意思で胡亥を後継者に指名した記述があり注目を集めています。

しかし、史記にも書かれている代表的な説としては、始皇帝や李斯の行き過ぎた法治主義を諫めた事で遠ざけられたとする説です。

ただし、遠ざけると言っても、廃嫡するわけではなく修行の意味も存分に入っていたのでしょう。

始皇帝は後継者を変えるつもりはなかったとする説が有力です。

始皇帝崩御で風向きが変わる

始皇帝は不老不死を目指していたわけですが、体調が悪くなり占わせてみると、巡幸に出ると吉と出たわけです。

始皇帝は、李斯、蒙毅、趙高、胡亥(始皇帝の末子)も同行させています。

これにより始皇帝は巡幸の旅に出ますが、体調は回復しません。

そこで、始皇帝は蒙毅をの首都である咸陽に帰らせて山川の神に祈祷を行わせる事にしました。

蒙毅が帰ってくる前に、始皇帝は崩御してしまいます。

始皇帝は、長男である扶蘇に自分の葬儀を行い後継者に指名したと言われています。

しかし、趙高が遺言を変え、李斯を抱き込み、胡亥を説得して2世皇帝に即位させます。

蒙家にしてみれば、扶蘇が後継者になってくれた方が助かったはずなのですが、蒙毅が始皇帝崩御の時にいなかった事で蒙家の風向きが変わります。

扶蘇が自刃する

胡亥は、2世皇帝に即位しますが、元後継者であった扶蘇が邪魔な存在に感じたわけです。

趙高が始皇帝の命令だとして、扶蘇に対して自刃するように手紙を出しています。

さらに、蒙恬にも死を命じています。

蒙恬は、扶蘇に対して「何かの間違いだ」として、思いとどまる様に言いますが、扶蘇は「父親(始皇帝)の命令に背くのは孝の精神に背く」と自刃して果てたわけです。

蒙恬は疑念を持っていた為、「沙汰」を願う事にしました。

蒙恬を陽周の牢に入れて、蒙毅も罪に落とされ、代の牢に入れてしまいます。

扶蘇が死んだ事で、胡亥はホッとしたのか、蒙恬や蒙毅については、許そうと考えたようです。

しかし、趙高は以前に蒙毅が罪を軽減してくれなかった事などを恨んでいて、さらに、蒙恬や蒙毅が胡亥に気に入られると都合が悪いと考え、蒙恬らを殺害するように進言しています。

後に秦王となる子嬰は、胡亥に「忠臣(蒙恬、蒙毅)を退けて、邪悪な者(趙高を指す)を取り立てると身の破滅を招く」と諫言します。

しかし、胡亥は子嬰の言葉を聞き入れませんでした。

これにより蒙家の滅亡が決定的となります。

蒙恬の最後

蒙毅が、最初に罪を問われて殺害されています。

さらに、2世皇帝は陽周の牢にいる蒙恬に使者を出します。

使者は蒙恬に「汝の過ちは多い、蒙毅は大罪を犯した。罪は内史(蒙恬)にも及ぶぞ!」と言い、取り調べを始めたわけです。

蒙恬は、自分が30万の軍勢を保有していながら、謀反を起こさずに牢に繋がれたのは、秦に大恩を感じているからだと言い。

さらに、周王朝の初期に成王と周公旦の事を語り、夏の傑王は諫めた関龍逢を殺し、殷の紂王は王子比干を殺害して国を滅ぼした事を説明します。

そして、蒙恬は自分は命が惜しいから言っているわけではなく、諫めて死なんとする為だと使者に言ったわけです。

しかし、使者は胡亥や趙高の意図が分かっていたので、上書するつもりはないと言い、蒙恬に死を迫る事になります。

これを受けて蒙恬は、次のように語っています。

「天に対して自分はどのような罪があって、過ちも無いのに死ななければならないのか」

この言葉からすると、かなり無念さが滲んでいるわけです。

しかし、蒙恬はふと気が付いたのように次のように語っています。

「いや、私は死んで当然だ。万里の長城を建設する為に、万余里も築いたり埋めたりした。その間に、地脈を断ち切らなかった事はありえない。地脈を絶った事こそが蒙恬の罪なのだ」

このように言い残し、自刃しました。

尚、蒙恬は、地脈を絶ったから災いが身に振り掛かったと言っていますが、これは春秋戦国時代の中国の独特な考え方だと思いました。

例えば、今の日本人の土木工事の責任者の人に悪い事が起きても、「日本中の道路工事をして地脈を絶ったから自分に災いが降りかかった」とは言わないはずです。

当時の思想が分かる一環ともいえるでしょう。

しかし、蒙恬は自分の中では名将だと考えているので、残念な人物を亡くしたと思っています。

蒙恬の死は万里の長城を自ら壊す行為

蒙恬は、趙高に殺されたようなものですが、これが秦の滅亡を呼び込んだと言えなくもありません。

二世皇帝の時代は、公子や大臣、武将などが大量粛清された時代でもあります。

陳勝呉広の乱が起き社会不安の時代に突入します。

蒙恬が率いる30万の秦の精鋭ですが、王離(王賁の子)に引き継がれました。

項梁などの反乱軍に対して、章邯も鎮圧に向かっていますが、章邯が率いたのは、囚人兵であり精鋭部隊ではありません。

秦の最強の部隊は王離が指揮していたわけですが、趙の趙歇と張耳が守る鉅鹿の城を落とす事が出来ませんでした。

ここに楚の項羽が到着すると、圧倒的に有利な状況にも関わらず、散々に打ち破られているわけです。

最強の秦軍を率いていたのが、蒙恬であったならば結果は変わっていたのかも知れません。

項羽も蒙恬が相手であれば、苦戦していた事も十分に考えられるでしょう。

他にも、項羽が到着する前に、鉅鹿の戦いを終わらせていた可能性もあります。

それを考えれば、秦の首脳陣が蒙恬を殺す行為は、自ら万里の長城を破壊する行為だったようにも思えるわけです。

戦国時代からの将軍で、経験値も高い蒙恬が反乱軍の鎮圧に行けないのは、秦にとっては手痛い事だった事でしょう。

尚、楚漢戦争の時代では項羽の他にも名将韓信もいますし、蒙恬が生き残って韓信や項羽と戦ったらどうなったのか?は歴史ファンであれば気になる所だと感じています。

司馬遷は蒙恬を人民の力の乱費と批判

司馬遷が書いた史記の蒙恬列伝を見ると、斉から秦に移動して仕えた蒙驁をはじめ3代の事が書かれています。

司馬遷の書き方だと、本編では趙高に殺されてしまった事への同情的とも取れる様な書き方をしているわけです。

しかし、太史公曰くの部分になると、統一後の民衆は、戦乱の傷も癒えていないのに、土木工事を多発させたことを非難しています。

蒙恬に対しても、民を慈しみ守るために、将軍として始皇帝を諫言すべきであるのに、さらに助長するような行為があったと非難しているのです。

蒙恬が行った道路の開通や万里の長城を見事だとも記載していますが、「人民の力の乱費」だと非難しています。

蒙恬が死んだのは、「地脈を絶ったからではなく万民を上下和合させなかったからだ」と非難しているわけです。

それを考えれば、蒙恬や蒙毅の兄弟が処刑されたのは、当たり前だと批判しているのです。

確かに、蒙恬は悲劇の名将ではあるかと思いますが、始皇帝の御機嫌取りに徹した部分もあると言えます。

秦が統一後に、わずか15年で滅亡してしまった責任の一環は蒙恬にあるのかも知れません。

蒙恬は秦の歴代トップ3に入る名将だと思う。

私が過大評価だと言われてしまうかも知れませんが、蒙恬は秦の歴代の武将の中でもトップ3に入るような名将ではないかと考えています。

絶対に入れなければならないのは、白起でしょう。

白起に関しては、中国の歴代全部の武将の中でも、トップ5に入る逸材ではないかと感じています。

他に、秦の名将と言えば趙やを滅ぼした王翦ではないでしょうか?

最後の一人が自分の中では、蒙恬を挙げたいと思っています。

李信王賁、王騎や他の6将はどうした?

父親の蒙武だっているぞ!と言う人がいるかも知れません。

他にも、春秋戦国時代張唐麃公など、様々な将軍が秦で頑張っている印象があります。

しかし、私は蒙恬を挙げたいと思います。

春秋戦国時代の末期は、圧倒的に秦が強く他の6国を国力で圧倒していたわけです。

それらを考慮すると、圧倒的な戦力を持って少数の敵に勝利しても名将と呼べるのか?という疑問が湧いてきてしまうわけです。

蒙恬ですが、を滅ぼす秦の統一戦争においては、王翦ほどの功績を挙げる事は出来ませんでした。

しかし、統一後の戦争において、匈奴を破り震撼させたと言うのは、名将と呼べるのではないかと思います。

私は、蒙恬の匈奴征伐を非常に評価しているわけです。

歴代の中国王朝を見てみると、北方の異民族には非常に手を焼いているわけです。

秦が滅びると、項羽と劉邦の楚漢戦争に入りますが、勝利した劉邦と匈奴の王である冒頓単于が対決しています。

劉邦は32万の大軍を擁していたにも関わらず、冒頓単于に敗退しているわけです。

これにより漢は武帝の時代に、衛青や霍去病が現れるまで、匈奴に対して貢物を献上しています。

三国志の世界は、晋(西晋)が統一して終わりを迎えますが、八王の乱の時に北方の異民族も大量に入ってきてしまい、中原の地は大混乱に陥るわけです。

他にも、北宋の時代は、北にある金(国名)に首都である開封を陥落させられていますし、明王朝は北方の満州族に占拠されています。

中国には、北虜南倭という言葉がありますが、北方のいる遊牧民などの異民族国家は、中国王朝に取って危険な存在だったわけです。

蒙恬が匈奴を破り震撼させたと言うのは、秦が北方の脅威を取り払ったと言えるでしょう。

それを考えれば、蒙恬は秦の歴代トップ3に入る名将だと言えるのではないでしょうか?

ただし、春秋戦国時代の全体でトップ3に入る事が出来るのか?と考えると難しいと思っています。

やっぱり、合従軍を結成して全盛期の斉を滅亡寸前まで追い込んだ楽毅や、斬首人数100万越えの白起、生涯において無敗だった呉起などがいるためです。

他にも、趙の北方にいて匈奴を散々に破った李牧や、5倍の燕軍を破った廉頗などもいます。

そのため春秋戦国時代の武将の中では、トップ3に入るのは難しいと思いました。

しかし、蒙恬はの歴代将軍の中でもトップ3に入る人物だと感じています。

始皇帝に意見する事は出来なかったかも知れませんが、有能な将軍であった事は間違いないでしょう。

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