前漢

冒頓単于の史実【匈奴最強の男】劉邦軍32万も破る!

2021年4月20日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

冒頓単于は、匈奴の全盛期を築き上げた人物ですが、独特の人間観を持っていますし、非情の成功哲学を持っている様にも感じました。

漢の劉邦は、楚漢戦争で項羽を破った後に、韓信や彭越、黥布などの武断派を処罰していますが、冒頓単于にもかなり手を焼いています。

漢の統一後に劉邦を苦しめたのは、間違いなく冒頓単于ですし、勢力でも冒頓単于の方が上回っていた事は言うまでもありません。

劉邦も32万の軍勢を率いて自ら冒頓単于の討伐に行っていますが、大敗して命の危険にも脅かされて帰国しているほどです。

今回は、匈奴の英雄である冒頓単于が主人公のお話です。

尚、世界史の教科書にも出てくるような人物なので、覚えておいて損はないでしょう。

父親に殺されかける

冒頓の父親は頭曼単于と言います。

頭曼単于が即位した頃は、戦国七雄を滅亡させて統一した頃の時代です。

始皇帝は統一すると万里の長城を築き、蒙恬にオルドス地方などの北伐を命じています。

蒙恬率いる秦軍に敗れた、頭曼単于は北に逃亡し、匈奴は秦に押され気味になっています。

尚、「単于」というのは、匈奴の言葉で「王」を意味する言葉です。

つまり、父親が生きている間は、冒頓と呼ばれています。

冒頓は、頭曼の後継者に指名されていました。

しかし、頭曼の妻妾に子供が生まれると状況が一変し、頭曼は妻妾の子に跡継ぎにしたくなります。

そこで、邪魔になった冒頓を理由を付けて月氏という、他の部族に人質として預ける事にしました。

人質を預けておいて、月氏に頭曼単于は攻撃を掛けたわけです。

月氏は怒り冒頓を殺そうとしますが、冒頓は駿馬を盗み頭曼の元に帰ってきています。

頭曼は、冒頓を殺そうとしたわけですが、駿馬を奪い帰国したのを見ると、見所があると思ったのか1万騎の将軍に任命しています。

しかし、頭曼に殺されそうになった事で、冒頓は頭曼に対して恨みを抱くようになったわけです。

冒頓流の命令に逆らわない部下を作る方法

冒頓は能力が非常に高い人物で自信家でもあったのでしょう。

しかし、自分の言う事を聞いてくれる部下がいるか心配な所もあったようです。

そこで、選りすぐりの部下を選別するのですが、この方法が非常に過激です。

冒頓と部下は狩りに行きました。

冒頓は鏑矢という先端に目立つマークが付いている矢を持っていて、「自分が射たものを射よ。命令に背くものは斬る」と言明します。

そこで、獲物を射て見たところ、全員が獲物に弓を射たわけです。

別の日に、鏑矢を持って自分の愛馬を射たわけです。

するとこの時は、冒頓の愛馬と言う事で躊躇した者がでました。躊躇して射なかった者を冒頓は殺害しています。

また、別の日に冒頓は自分の愛妻を鏑矢で射てみました。

すると、また何人かの部下は弓矢を放つのを躊躇しました。

ここでもまた、弓矢を射なかった者を処刑しています。

さらに、別の日に、今度は父親である頭曼単于の愛馬を弓矢で打ってみました。

すると部下全員が頭曼単于の愛馬を射たわけです。

これを見て冒頓は自分の部下たちが忠実な部下になった事を確信しました。

頭曼と冒頓は共に狩りに行く時が来ました。

この時に、鏑矢で冒頓は頭曼を射たわけですが、もちろん部下全員が頭曼を射たわけです。

冒頓は父親を殺害すると、父親の妻妾や産ませた子などを殺害して、単于になっています。

ここにおいて、冒頓単于が誕生したわけです。

ちなみに、今の世の中で冒頓流の人心掌握術を使えば犯罪になるので、絶対にやってはいけません。

周辺諸国の油断を誘う

冒頓は単于になるわけですが、隣国には東胡や月氏など強大な勢力がいました。

隣接する東胡王は、冒頓単于の事を試すかのように、「冒頓の愛馬を欲しい」と使者を送ってきます。

匈奴は遊牧民族なわけで、馬は国の宝なわけです。

それを欲しいと言うのは失礼極まりない事となります。

臣下の武将たちは、「無法者の東胡王を攻めましょう」と言いますが、冒頓は「馬一匹で隣国との友好を壊したくない」といい東胡王に馬を与えています。

東胡王は気分がよくなり、冒頓の愛妻を貰い受けたいと使者を送ってきます。

群臣は「失礼極まりないから東胡を討ちましょう」といきり立ちますが、冒頓は「女一人で隣国との友好を壊したくない」といい愛妻を東胡王に届けています。

これにより東胡王は、冒頓単于を甘く見るように驕慢になったと言われています。

東胡王は、匈奴との境を接する荒地が欲しいと冒頓に使者を送ってきます。

冒頓は、群臣にどうするべきか相談をします。

するとある者は「草の生えない荒地は意味がないから与えるべき」と言いある者は、「土地は国の宝だから与えてはいけない」と言います。

冒頓単于は「土地は国の宝なのに与えてよいはずがない!無礼な東胡王を討つ!遅れる物は斬る」と言明して、突如として東胡を攻めています。

東胡王は冒頓単于を軽く見ていた事から、防備を怠っていました。

無防備の状態であった為に、冒頓単于が攻めてくると、対応できずに東胡は滅びています。

冒頓単于の快進撃

東胡を滅ぼすと、冒頓単于は休む間もなく月氏も攻めています。

月氏の事は、人質になっていた経緯があるので地形などにも詳しかったのでしょう。

当初から攻めたかったが、東胡に不意を衝かれるのを恐れて攻めなかったと思われます。

しかし、その東胡を征伐してしまった事で、背後を脅かされる心配が無くなったのではないかと感じます。

月氏は冒頓の攻勢に耐え切れずに、土地を奪われて月氏は中央アジアに民族移動する事になったわけです。

さらに、南の方では、楼煩(ろうはん)を討ち、白羊河南王を併合しています。

かつて匈奴は、秦の蒙恬の侵攻により南方の領土を失ったわけですが、冒頓単于が取り返しています。

ちなみに、この時は秦末期の混乱や項羽と劉邦が争った楚漢戦争の時代であり、中国の国々は冒頓単于にまで手が回らなかったのも幸運と言えます。

尚、匈奴の最初の部族長は淳維と言い、夏王朝の一族とされています。

その頃から、冒頓まで1000年以上の歴史があるとも言われていますが、冒頓単于の時代が最も強大だったと史書に書かれているほどです。

既に、精鋭の騎馬だけで30万あったとも後漢書匈奴伝に記録があります。

さらに、冒頓単于は役職も整備するようになり、左・右賢王などの位も設けています。

しかし、これに満足することなく、さらに周辺国の屈射などの国を服従させて勢力を拡大させています。

この時に、中国の方では楚漢戦争が終わり、劉邦が中国を安定させ始めています。

韓王信を降伏させる

劉邦は、韓王信を匈奴に近い代王にして馬邑を首都にさせています。

尚、韓王信と劉邦の元で趙・斉・燕などを下し楚王となり淮陰侯に格下げされた韓信とは別人です。

代は北方にあり匈奴と国境を接している事から、冒頓単于は目を付けます。

韓王信が治める代に冒頓単于は攻撃を掛けたわけです。

韓王信は都である馬邑を囲まれてしまい、窮地に陥り冒頓単于に休戦交渉をしようとします。

しかし、この行為を漢の皇帝である劉邦は裏切り行為とみなし激怒します。

この話が韓王信の元に届くと、仕方なく冒頓単于に降伏を申し出ています。

冒頓単于は降伏を申し入れて、これ以降は韓王信は匈奴の将軍となりました。

韓王信を配下にした冒頓単于は、さらに進撃して太原郡の晋陽にまで至っています。

ここにおいて、劉邦が自ら32万の大軍を率いて冒頓単于の討伐を行っています。

ただし、劉邦って項羽に負けてばかりいて、余り戦は上手くない印象です。

その劉邦が冒頓単于に戦いを挑んだわけです・・・。

冒頓単于が劉邦を破り包囲する

劉邦は冒頓単于を討つために北方に遠征しています。

しかし、この時は冬でさらに、極寒だったようで漢の兵士の中で凍傷で指を落とすものが、10人中2人か3人位いたそうです。

そのため、かなり苦しい遠征だったのでしょう。

冒頓単于と劉邦は戦いとなるのですが、冒頓単于は偽って敗走します。

劉邦は押していると勘違いして、兵を前進させて追撃させています。

さらに冒頓単于は精兵を隠して、弱い兵士のみを漢軍に見えるようにしました。

これを見た劉邦は「敵は弱し」と考えて、劉邦自ら積極的に追撃を行ったとされています。

しかし、追撃部隊と後続の部隊が伸びすぎてしまい、そこを冒頓単于は突く事になるわけです。

30万の隠してあった精鋭部隊に攻撃を下し、劉邦軍を前後に分断させる事に成功します。

これにより漢軍は前方と後方で連絡が取れなくなってしまいました。

さらに、冒頓単于は劉邦を囲み、劉邦は危機に陥ってしまうわけです。

やはり、劉邦では冒頓単于に戦では相手にならなかったようです。

この時期はまだ、韓信・彭越・黥布辺りは生きているので、その人たちが指揮を執った方がよかったのかも知れません・・・。

韓信であれば、突っ込みすぎる事は無く策を持って、冒頓単于に挑んだかと思います。

劉邦を白登に包囲した冒頓単于は補給を遮断していた為、劉邦はかなりの窮地に陥っています。

しかし、陳平の策で冒頓単于の閼氏(単于の妻の名称)に多額の賄賂を贈り、冒頓単于に包囲を解くようにお願いしています。。

閼氏は、冒頓単于に下記の様に言ったとされています。

「両国の君主は互いに苦しめ合うべきではない。現在、漢の地を得たとしても保つことは出来ない。さらに、漢王(劉邦)には神の助けがある。これを単于はさっするべきである」

閼氏のこの発言は、賄賂を貰って言った訳ですから、よくぬけぬけと言えたな~とか個人的には思ってしまったわけです。

尚、この時に陳平は策を他にも弄していたみたいですが、秘密にした為に世の中には伝わっていないようです。

人には言えないような変な策でも立てたのでしょうか・・・。

冒頓単于の方でも、韓王信の配下の王黄と趙利が期日までに来ませんでした。

2人が、漢と内通している事を疑い、冒頓単于は包囲を解き撤退しています。

劉邦も冒頓単于も互いに引き上げています。

劉邦としてみれば、猛将項羽を倒したと思ったのに、頭の痛い奴が出現したと思った事でしょう。

尚、この後、劉邦は劉敬を使者にして、冒頓単于と和約しています。

しかし、匈奴は和約を破り韓王信や王黄や趙利などは、代・雲中・雁門などを攻めて奪い取っています。

韓信(淮陰侯)と陳豨が結託して反乱を起こすと、劉邦は樊噲(はんかい)らと鎮圧しています。

さらに、樊噲は匈奴から代、雲中、雁門を取りかえしました。

しかし、そこからさらに進撃する事は出来ずに引き返しています。

匈奴が漢の優位に立つ

匈奴と漢が争う時代になると、常に匈奴が優先だったようで、匈奴に降伏する漢の将軍も多かったそうです。

そのため、冒頓単于は常に、漢との国境近くにいたとされています。

劉邦は冒頓単于の存在に悩み、宗室の娘を奉送させて、冒頓単于の妻にしています。

さらに、匈奴に対して毎年、決まった量の貢物を届けさせる事で和約しました。

この和約により少しの間は、冒頓単于は漢にちょっかいを出す事は控えています。

しかし、燕王盧綰(ろわん)が劉邦の猜疑心により命を狙われていると悟り、匈奴に1万人を引き連れて投降しました。

これを見た冒頓単于は再び、上谷以東を脅かす様になります。

劉邦が生きている間は、冒頓単于は北にいて、常に劉邦を悩まし続けたわけです。

後年の劉邦は部下を猜疑心から殺したり疑ったりする事も多く、悩みも多く寂しい晩年だった事でしょう・・。

冒頓単于って意外といい奴かも

劉邦が崩御すると、恵帝が即位しますが、実権は母親である呂后が握っていました。

史記には恵帝本紀はありませんが、代わりに呂后本紀があります。

劉邦が死んだ事を聞くと冒頓単于は漢に手紙を送っています。

内容は下記の通りです

「劉邦が死んだそうだな。俺が慰めてやろうか」

さらに、相手を侮辱するような言葉が並んでいたとされています。

子供だましのような手紙を送った事で、呂后は激怒して、群臣にどうするのか図ったとされています。

その時に、樊噲は自分に「10万の兵を与えてくれれば、匈奴の地を荒らしまくれる」と熱っぽく語ります。

しかし、季布は呂后に「高祖(劉邦)ですら32万の大軍を率いても勝てない相手に、樊噲が勝てるわけもない」と言います。

そして、は匈奴征伐に入れ込みすぎた為に、国が滅びたと直言したわけです。

これに呂后は納得して、冒頓単于に対して礼儀を持った恭しい文章を返答しました。

使者になったのは、張沢という人物です。

これを見た冒頓単于は次のように返書をしたとしています。

我は辺境の地にいる事から、礼儀を知らなかった。どうか許して欲しい

この様に礼儀のある返書をして、さらに和親を図ったそうです。

冒頓単于と言えば、過激な部分が多い気がしますが、「意外といい奴なのかな~」とも思ってしまうような返書をしたわけです。

漢は下手(したて)に出たわけですが、相手から下手に出られた時に、調子に乗らずに気を引き締めた所が冒頓単于の名君だと言える所以でしょう。

過去に東胡王などは、冒頓単于に下手に出られて、警戒を怠っています。

自分が罠に掛からない所は見事と言うべきです。

三国志関羽陸遜に下手に出られると、警戒を緩めて結局は、呂蒙に滅ぼされています。

それを考えると、下手に出られた時は、気を引き締めろという合図なのかも知れません。

冒頓単于の最後

その後、漢では呂后が死に、陳平や周勃が劉氏の為に立ち上がり、呂氏から権力を奪いさり孝文帝(劉恒)が即位しています。

匈奴側の、冒頓単于の最後ですが、漢の孝文帝の時代に死去したようです。

紀元前174年と伝わっているので、文帝の6年と言う事になります。

文帝の時代に、匈奴の右賢王が漢に侵入した記録があります。

漢では丞相である灌嬰が将軍となり迎え打ち、さらに孝文帝も行幸して対処しようとしますが、匈奴の右賢王は引き上げたとされています。

史記などでは、それから間もなく冒頓が死んだと記載があります。

どのように死んだかは書いてないので、病死か老衰のどちらかだと思います。

戦いに滅法強い男ではありましが、死んだのは畳の上だったのでしょう。

冒頓単于が死ぬと老上単于が即位するわけですが、流石に老上単于が鏑矢を冒頓単于に打ち、部下の全員が冒頓単于を射て射殺した事はないと思っております。

逆に、それがあれば「匈奴すげ~」ってなるんですけどね・・。

ちなみに、モンゴル語やテュルク語で勇者の意味は「バガトル」です。

「バガトル」という言葉の語源は、冒頓単于から来ているとも言われています。

冒頓単于は勇者に相応しい実績のある人物だと感じます。

その後の匈奴と漢

匈奴は冒頓単于の時代に全盛期となります。

しかし、段々と衰えていくわけです。

それに対して、漢の方は文帝・景帝・武帝と続き着実に国力を増しています。

武帝の時代になると、匈奴対策を180度変えて武力討伐する事になります。

この時に、活躍したのが李広や衛青、霍去病などです。

破れた匈奴は北方に逃れています。

その後は、内部分裂などもあり匈奴は漢に対抗できなくなります。

漢の方も王莽に簒奪されて「新」が起きたりもしましたが、赤眉の乱が起きて、混乱の時代を制した後漢を光武帝劉秀が確立させる事に成功しました。

後漢の後は、三国志の時代に入り、さらに西晋から南北朝時代に入っていきます。

その後の、五胡十六国で匈奴は前趙、後趙、夏、北涼などを建国しますが、北魏の傘下となります。

匈奴は目立ちませんが、細々と生き残ってはいましたが、いつの間にか姿を消しています。

一説によると南北朝時代の北魏の時代に姿を消したとも言われています。

ただし、ヨーロッパでフン族がゴート族を圧迫してゲルマン民族の大移動が起きています。

このフン族が匈奴だとする説があるわけです。

世界史の教科書にも載っているゲルマン民族の大移動は匈奴が原因になっている可能性もあります。

しかし、冒頓単于の後に、力強い単于が出なかったのは残念に感じました。

冒頓単于は、一代で広大な領土を手に入れた明君だと言えるでしょう。

楚漢戦争は項羽と劉邦ばかりが目立ちますが、すぐ北には強大な冒頓単于がいたわけです。

この時代の真の英雄は誰か?と問われたら自分は「冒頓単于」と答えたいほどです。

冒頓単于と項羽が戦ったら、どちらが勝ったのか?と考えると、色々な想像が出来て面白いと思いました。

個人的な予想としては、単発的な勝負では引き分けそうですが、長期戦になったら冒頓単于が勝つ様な気がしています。

項羽は単純な所が多いので、最終的に勝てるイメージが湧きませんでした。。。

尚、漫画キングダムでも、冒頓単于の登場を願っています。

蒙恬が頭曼単于を倒し、領土奪回を狙う冒頓単于が登場するシーンは見たい気がします。

流石に、そこまではやらないとは思いますけどね・・。

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