
目夷は春秋時代の人物であり、宋の襄公の庶兄でもあります。
子魚の名前でも有名な人物です。
宋の桓公が亡くなる時には、宋の襄公と目夷で君主の座を譲り合った話があります。
宋の襄公は覇者として立つために、行動しますが、目夷は現実主義であり危ぶんでいました。
楚の成王により宋の襄公が捕虜になってしまうと、機転を利かせ宋の国を守る事になります。
泓水の戦いでは、楚の戦闘準備が整っていた事で機先を制す様に、宋の襄公に進言しますが、聴き入られる事はありませんでした。
宋の襄公は大敗北を喫する事になります。
目夷は史記や春秋左氏伝では現実主義で、宋の襄公の失敗を予言する存在でもあります。
宋の宰相となる
父親である宋の桓公が最期を悟った時に、太子の茲父(宋の襄公)は目夷に後継者を譲ろうとしました。
しかし、目夷は「国を人に譲ろうとする程の仁は、この世にない」と述べ、辞退しています。
宋の桓公は茲父の言っている事は義理立てとし、後継者になる様に命じました。
茲父が受けた事で、宋の襄公が誕生したわけです。
宋の襄公は即位すると、直ぐに目夷を宰相としました。
目夷は斉の襄公を補佐する立場となったわけです。
目夷と生贄
斉の桓公が亡くなると、斉では後継者争いが勃発します。
宋の襄公は管仲の言葉もあり、公子昭(斉の孝公)の後見人となっていました。
宋の襄公は諸侯に協力を要請し、公子昭を擁立する為に斉に進軍しました。
この時の宋の襄公の信義に多くの諸侯が協力的だったのか、無事に公子昭を斉の君主にする事に成功しています。
宋の襄公は気を良くしたのか、諸侯同盟の平和を守る為なのか、鄶子や滕の宣公を捕らえ生贄としてしまいました。
1年のうちで二度も他国の君主を生贄にしてしまった事で、目夷は次の様に述べています。
目夷「神への生贄と言うのは、用途に応じて「馬、牛、豚」などの家畜と決まっており、人を生贄にする事はなかった。
生贄というのは、人の為に行うものであり、民は神の祀り手である。
人を生贄にしてしまっても、受ける神がいるとは思えない。
斉の桓公は滅びた、衛、刑、魯などの国を復興させている。
その斉の桓公であっても、義人たちからは、徳が薄いと言われた事がある。
しかし、宋の襄公様は、既に二人の君主を生贄としてしまった。
宋の襄公様は覇者になろうとしているが、これでは到底無理であろう。
まともに死ねれば、マシな位だ」
目夷は宋の襄公の行動に嘆きました。
この頃から、宋の宰相である目夷は、宋の襄公の行動を懐疑的に見る様になったのではないでしょうか。
目夷の進言も聞き入れられなくなっていったのかも知れません。
宋の襄公を諫める
紀元前641年に宋の襄公は、曹の都を囲みました。
しかし、宋の襄公は苦戦し、曹を屈服させる事が出来なかったわけです。
ここで、目夷は次の様に進言しました。
目夷「周の文王は、崇候虎の悪政を聞き攻撃しましたが、30日経っても攻略する事が出来ませんでした。
そこで、国に戻り教化につとめてから、再び、崇候虎に戦いを挑みました。
すると、以前の場所に戻っただけで、崇は服従したそうです。
今の宋の襄公様は、徳が足りておりません。
これが上手くいかない理由です。
暫くは、徳を磨き欠陥を無くしてから、再度、攻めるべきではありませんか」
目夷は周の文王や崇侯虎の名前を出し、徳が足りていないと述べ、撤退を進言したわけです。
成人の代表格である周の文王の名前を出すなど、宋の襄公には響く言葉だったのではないでしょうか。
目夷の優秀さが分かる説得術でもあると感じました。
宋の襄公の会盟と目夷の見解
鹿上の会
宋の襄公は覇者を目指し、紀元前639年に鹿上の会を主催する事になります。
宋の襄公が覇者として名乗り出ますが、目夷は「宋の如き弱小国が盟主になろうとするのは、禍の元である。宋は滅亡するやも知れぬ。敗戦で済めばマシなところだ」と述べています。
目夷が宋の転落を予言しました。
中程度の国力しかない宋が、諸侯の盟主になろうとするのは、災いを招き寄せると考えたのでしょう。
宋の襄公は理想主義な面が強いのですが、庶兄の目夷は現実主義な部分が強いとみる事も出来ます。
鹿上の会では、楚の成王は出席しませんでしたが、宋の襄公は無事に終えました。
盂の会
目夷の予言
同年に再び、宋の襄公は盂で会盟を開く事になります。
ここで、目夷は次の様に述べました。
目夷「禍はきっとここで起きるであろう。
我が君の野望も、ここまで来れば酷いものだ。
諸侯はとても耐える事が出来ないはずだ。
この会盟で不測の事態が起こっても不思議ではない」
目夷は宋の襄公の禍を予言する事になります。
目夷は宋の襄公を酷評しながらも、自分も孟の会盟に欠席する事もなく、参加しました。
禍がある事が分かっていれば、行かないのも選択の一つではありますが、目夷は参加したという事です。
宋の襄公は他国の君主を生贄にするなどの行為はあっても、臣下に対しては、恩徳があり見捨てられない何かがあったのかも知れません。
宋の襄公にも、不思議な魅力を持っていた可能性もあるはずです。
宋の襄公は臣下に対しては、礼を尽くした仁君であったのでしょう。
目夷にしても、危険だと分かっていても、逃げたりしないのは忠臣だとみる事が出来ます。
目夷の機転
盂の会で楚の成王は宋の襄公に、非武装の乗車の会を望みました。
宋の襄公は臣下たちの反対がありながらも、受けてしまう事になります。
楚の成王のだまし討ちにより、宋の襄公は捕虜となってしまいました。
春秋公羊伝によると、宋の襄公は裏切られたと悟ると、目夷に「宋の国は最初から宰相のものだ。急いで国に帰って防備を固めてくれ」と叫んだとあります。
目夷は、このまま国に帰ったら宋の襄公は殺害されてしまうと考え「そんな事を言わなくても、宋の国は最初から私のものです」と素っ気なく告げ、宋に国に帰ってしまいました。
宋の襄公を人質にして、楚の成王は宋に進撃する事になります。
楚の成王は宋の襄公の身柄を拘束しており、脅迫しますが目夷は「社稷の神霊により、私が宋の国君となりました。あなた達が殺そうとしているのは、宋の君主ではありません」と徹底抗戦の構えを見せます。
目夷はここで弱みを見せれば、宋は楚に蹂躙されてしまうと考え、強がった発言をしたのでしょう。
楚の成王は守りを固めた宋を倒す事は出来ぬと考え、薄の地で会盟を開き宋の襄公を釈放しました。
目夷は宋の君主の座を、宋の襄公に返しています。
機転を利かせた目夷により、宋は救われたと言えそうです。
目夷の諫言
鄭の文公が楚に味方したと考えた宋の襄公は、衛、許、滕ら諸侯の軍を率いて鄭への侵攻を決めました。
楚は鄭の救援に入りますが、宋を攻撃しています。
諸侯の軍が宋軍に入って来た記録がなく、宋は楚と単独で戦う事になったのかも知れません。
目夷は宋の襄公を諫めました。
目夷は「天が殷を見捨ててから、長い年月が経っています。
今更、殷を復興しようとしても、天が許すはずがありません。
楚と戦ってはなりませぬ」
しかし、宋の襄公は進言を聞かず、楚との決戦を決断しました。
尚、史記では目夷が諫めた事になっていますが、春秋左氏伝では公孫固が諫めた事になっています。
宋襄の仁
目夷は諫めましたが、宋の襄公は楚の成王と泓水で戦う事になります。
この戦いで、楚軍は隊列が整っていなかったり、無防備に川を渡るなど、配慮が足りない行動が見受けられました。
目夷は宋の兵数が劣っていた事で、準備が整わぬうちに攻撃する様に、宋の襄公に進言しますが、宋の襄公は「卑怯な真似は出来ない」と言わんばかりに、却下しています。
宋軍は数が劣っていた事もあり、楚に大敗北を喫し、宋の襄公までもが負傷し、傷が元で亡くなっています。
目夷は宋の襄公の戦い方を見て「戦いというものが分かっていない」と評しました。
これが有名な宋襄の仁の話ですが、詳細は「宋襄の仁」の記事の方で書いたので読んでみてください。
目夷は宋の成公の時代まで生きたとは感じていますが、どの様な最後を迎えたのかは不明です。