呉(春秋) 春秋戦国時代

伍子胥は最後まで苛烈な性格を貫いた

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前伍子胥
本名伍員
生没年生年不明ー紀元前484年
主君楚の平王ー闔閭ー夫差
一族父ー伍奢 兄:伍尚
コメント苛烈な性格だが忠臣でもある。

伍子胥は春秋時代の末期に活躍した人物で、呉王闔閭や夫差に仕えました。

最初は楚の平王に仕えましたが、費無忌の讒言により父の伍奢と兄の伍尚を殺害され、呉に亡命する事になります。

呉では伍子胥が推薦した専諸が呉王僚を暗殺し、呉王闔閭が王として立つのに協力しました。

呉王闔閭は伍子胥や孫武の助けもあり、の首都の郢を陥落させた時には、父と兄を殺害した楚の平王の遺体を引きずり出し300回鞭打ったと言います。

この話は「死体に鞭打つ」の語源にもなっており、伍子胥の苛烈な性格を表す逸話となっています。

申包胥に非難された時は「日暮れて道遠し」の言葉を述べた事でも有名です。

伍子胥の後半生は呉王夫差に仕え、越王句践の危険さを諫言する者となります。

しかし、呉王夫差は伯嚭の言葉を信じ、伍子胥には属鏤の剣で自害させました。

伍子胥は自害するにあたり「自分の目を呉の東門にかけよ。呉が越に滅ぼされるのを見届けてやる」とも述べており、最後まで苛烈さを崩さず最後を迎えたと言えるでしょう。

伍子胥は呉越春秋の重要人物でもあります。

伍子胥の出奔

伍子胥の父親の伍奢はの太子建に費無忌と共に仕えていました。

楚の平王は太子建の為に、から妻を娶らせようとしますが、費無忌の言葉もあり自分で娶る事になります。

費無忌は太子建に誅されるのではないかと考え、楚の平王に太子建を讒言しました。

伍奢は楚の平王を諌めますが、逆に伍奢と捕え、費無忌の言葉により子の伍尚と伍子胥を呼び寄せる事になります。

伍尚は父親想いであり、出頭しますが、伍子胥は亡命するために動き出しました。

楚の平王の兵は伍子胥を捕えようとしますが、伍子胥は弓矢で反撃し逃げ仰る事になります。

伍子胥は逃亡する時に、親友の申包胥に会いますが「楚を滅ぼす」と告げ、申包胥は「楚を存続させる」と告げ別れました。

伍子胥は太子建が宋にいると聞き、宋に向かいました。

楚の平王は伍奢と伍尚を殺害してしまい、伍子胥は楚の平王を恨む事になります。

この時から、伍子胥は復讐の鬼と化したと言えるでしょう。

宋では華氏の乱が勃発した事で、伍子胥は太子建と共に鄭に亡命しました。

鄭で太子建は晋のケイ公に通じますが発覚し、鄭の定公と子産は太子建を殺害しています。

伍子胥は鄭にいては、誅されると考え、太子建の子の勝と共に呉に亡命しました。

伍子胥の逃避行

昭関で伍子胥は捕えられそうになります。

ここで、伍子胥は勝と別れ、呉に向かったと史記にはあります。

しかし、史記の記述を見る限りでは、後に勝とは呉で合流した様です。

伍子胥は関の役人から逃げますが、一人の漁夫を見かけました。

漁夫は伍子胥を助けて、反対側の岸まで渡してくれ、伍子胥は感謝し持っていた百金の剣を与えようとしました。

しかし、漁夫は受け取らず「伍子胥を捕えたものは栗五万石と爵位が与えられると御触れが出ている。百金どころの値打ちではない」と受け取らなかった話があります。

伍子胥は呉に向かいますが、途中で病気となり物乞いをして前に進みました。

執念で伍子胥は呉に辿り着く事になります。

伍子胥と公子光

呉では呉王僚に野望があり、公子光が将軍となっていました。

伍子胥は公子光に接近する事になります。

その後、暫くするとの辺境の邑の鍾離と呉の辺境の邑の卑梁で、双方の女性が桑で争う事件が起きました。

小さな争いだったはずですが、両方の邑で全面戦争に突入したわけです。

この争いに楚の平王も首を突っ込み、楚の軍隊を動かしました。

呉王僚も公子光に命じて、楚を攻撃し鍾離と居巣を破り帰還する事になります。

このタイミングで伍子胥は呉王僚に「楚を破ることが出来ます。もう一度公子光に楚の攻撃命令を出すべき」と進言しました。

しかし、公子光は「伍子胥は父と兄を殺害された復讐したいが為に言っている」と反対しています。

伍子胥と専諸

伍子胥は公子光が反対した事で、公子光に野心があると悟りました。

伍子胥は公子光を高く評価していたのか、専諸という者を紹介し、自分は太子建の子の勝と共に、下野し田を耕しました。

今の段階では、呉はを討伐できないと考え、伍子胥は身を引いたわけです。

尚、伍子胥が公子光に専諸を推薦したのは、暗殺者を公子光に推薦した事になります。

楚の平王の死

紀元前516年に楚の平王が亡くなり、楚の昭王が立ちました。

楚の平王の死に伍子胥は深く感じ入る部分はあったかと思いますが、目標をを滅ぼす事に転換したと考えられます。

楚の平王が亡くなっても、伍子胥の恨みは消える事はなかったわけです。

呉王闔閭が立つ

呉王僚は弟二人にの喪中に乗じて攻撃しますが、楚の反撃もあり撤退が困難となりました。

このタイミングで公子光が呉王僚を宴会に誘い、専諸に暗殺させています。

専諸は命を落としますが、呉王僚の命を奪いました。

公子光は闔閭と名乗り呉王となります。

伍子胥は闔閭が立つと外交官として仕え、参謀となりました。

呉王闔閭には伍子胥だけではなく、孫武も仕えた話があります。

楚でもゲキエンとハクシュウリが殺害される事件があり、伯嚭が呉に亡命し、闔閭は伯嚭を大夫としました。

呉王僚の弟二人は行き場をなくし、楚に降伏する事になります。

楚を壊滅させる

小競り合いを制す

呉王闔閭は3年して兵を起こし、二公子捕虜とし、の郢まで侵攻しようとしますが、孫武が止めました。

呉は楚に侵攻を繰り返し六と潜を攻略しています。

さらに、越を破りました。

楚の昭王は囊瓦に呉を討たせますが、伍子胥が軍を率いて反撃し予章で大いに破る事になります。

伍子胥は居巣まで陥落させました。

郢の陥落

呉王闔閭は伍子胥と孫武に郢を攻撃すべきかと問いますが、二人はの将軍の囊瓦が強欲な事と、唐と蔡を味方にした上で討伐すべきと応えました。

呉は唐と蔡を味方とし、楚を攻撃する事になります。

呉王闔閭の弟の夫概が子常を破り呉軍は五度戦い勝利し、郢に迫りました。

伍子胥も従軍しており、楚の首都の郢の陥落が目前に迫ったわけです。

楚の昭王が逃亡した事で、呉軍は郢に入りました。

屍に鞭を打つ

伍子胥は郢に入ると楚の昭王が逃亡した事を知りました。

そこで、伍子胥は楚の平王の墓を暴き屍を取り出したわけです。

伍子胥は楚の平王の屍に三百回も鞭打ちを行い、これが「屍に鞭打つ」の語源となっています。

楚の平王の屍が鞭打たれた事を知った申包胥は隠れていましたが、伍子胥に人伝てに伝言し「やり方が酷すぎる」と告げました。

伍子胥は申包胥に対し「日暮れて道遠し」と述べ、道理に反した行いをしてしまったと伝えて貰っています。

復讐の終焉

申包胥はに向かい援軍を請いました。

申包胥は涙を流し援軍を願った事で、秦の哀公は派兵を決め、楚に兵を向ける事になります。

秦軍と共に申包胥は呉に攻撃を加え、呉軍を稷で破りました。

呉王闔閭は伍子胥の願いを叶えてあげたいと思ったのか、に残る構えを見せますが、弟の夫概が勝手に帰国し、呉王を名乗る事になります。

ここにおいて、呉王闔閭も帰国を決め、これが伍子胥の復讐劇の幕引きとなります。

伍子胥は楚を滅ぼす最大のチャンスを逃したとも言えるでしょう。

これ以降の呉が楚に深く攻め込む事はなかったわけです。

呉軍が撤退した事で、楚の昭王は郢に戻る事ができました。

楚の昭王は呉を恐れ、鄀に遷都しています。

尚、史記の伍子胥列伝では、この頃の呉は伍子胥と孫武の謀もあり、西は楚を破り、北は斉や晋を脅かし強大だったと記録しました。

呉王闔閭は春秋五覇の一人に数えられる事もあります。

呉王闔閭の死

紀元前496年に、呉王闔閭は越を打ちました。

即位したばかりの勾践を狙って呉は出兵したわけです。

呉と越の間で檇李の戦いが勃発しますが、呉軍は敗れ闔閭までもが負傷し、敗北しました。

呉王闔閭は傷が悪化し、伍子胥の推薦もあり夫差を後継者に指名し世を去りました。

伍子胥は夫差に仕える事になります。

呉王闔閭が生きていれば、再び楚に出兵した可能性がありますが、夫差は楚を攻撃する気はなく、伍子胥の楚を滅ぼす夢は完全に終焉した事になります。

夫差は伯嚭を太宰としました。

呉王夫差は越王勾践への復讐を誓い薪の上で寝た話があります。

これが臥薪嘗胆の臥薪の逸話となります。

尚、伍子胥と共に呉に亡命した太子建の子の勝は、呉王夫差の時代に楚に戻った話があります。

伍子胥と越王句践の人柄

紀元前494年に呉王夫差は越王句践を夫椒山に追い詰めました。

越王句践は文種を使者として伯嚭に賄賂を贈り、自ら呉王の臣下となり、妻は妾になる事で助命嘆願を願う事になります。

呉王夫差は許そうとしますが、伍子胥は「越王句践の人柄は忍耐強く、今のうちに滅ぼさなければ、後で後悔する事になります」と諫めました。

伍子胥は越王句践を生かしておくのは、禍を残すと考え、処刑する様に願ったと言えるでしょう。

しかし、呉王夫差は越王句践を破った事で満足しており、伯嚭の進言に従い越王句践を許しました。

伍子胥は呉王夫差の時代は、越は危険だと諫言するのが役割となっています。

越は腹心の病

紀元前490年に斉の景公が亡くなりました。

ここで呉王夫差は大臣らが争い、新たな君主は幼弱で国を纏める事が出来ないと耳にしました。

呉王夫差は斉を討とうとしますが、これを諫めたのが伍子胥です。

伍子胥は次の様に述べました。

※史記 伍子胥列伝より

伍子胥「句践は食事に二菜を重ねず、死んだ兵士の弔問を行い病兵には自ら慰問を行っています。

これは後の戦争での奮起を期待するからです。

この人(越王句践)が死なない限りは、呉の禍となります。

呉にとって越は腹心の病であり、呉王様が越を優先させず、斉を討つのは間違っております」

呉王夫差は伍子胥の進言を聞かず紀元前484年に斉を攻撃し、艾陵の戦いで大勝しました。

艾陵の戦いの勝利により魯や鄒は、呉を怖れた話があります。

艾陵の戦いで勝利した事で夫差は自信をつけ、伍子胥を疎んじる様になります。

伍子胥は越を危険視していた

史記によると越王句践は孔子の弟子の子貢の策を採用し、手勢を率いて呉軍に合流するだけではなく、伯嚭にも莫大な賄賂を贈りました。

伯嚭は越に買収され、呉王夫差に越の態度を褒め称える事になります。

呉王夫差は伯嚭を信頼しますが、伍子胥は次の様に夫差を諫めました。

※史記 伍子胥列伝より

伍子胥「越こそが腹心の病であり、越の態度は偽りであり、呉は斉を攻めておりますが、斉を幾ら破っても得るのは、石田の如く役には立ちません。

殷の盤庚の誥には『是非を罵倒し法度を超えた不謹慎な者には、鼻切りの刑にするか絶滅させよ。その子孫がはびこる事がない様に』とあります。

これこそが殷が興隆した由縁でもあるのです。

斉など捨てておけばよく、越を先に何とかしないと、後で後悔しても間に合いません」

伍子胥は越は恭順を示しているが、危険極まりない存在だと述べたわけです。

この後に、呉がどうなるのかを考えると、呉王夫差は越に対し、かなり警戒を解いていた事が分かります。

呉王夫差は中原進出を目指しており、や越など南方の国に対し、討とうなどとも思っていなかったと言えるでしょう。

我が子を斉の鮑牧に預ける

伍子胥の「越危険論」が全く頭に入らないのが、呉王夫差であり、「伍子胥がいては迷惑」と思ったのか、斉への使者としました。

伍子胥は斉に行きますが、我が子に「儂は何度も呉王を諫めたが聞き入れられなかった。儂が呉と運命を共にするのは仕方がないが、お前が呉に殉ずるのは無駄な事である」としました。

斉に行くと伍子胥は鮑牧に、その子を託し呉が滅亡しても、巻き込まれない様にしたわけです。

ただし、我が子を預けた鮑牧は、斉で乱を起こしており、伍子胥の子が最後はどうなったのかは不明ですが、斉の乱で巻き込まれた可能性があるのではないでしょうか。

伍子胥の最後

属鏤の剣

伍子胥と呉王夫差の間には溝が出来ており、これを機に伯嚭は伍子胥を讒言しました。

伯嚭は伍子胥の性格を問題視し、呉王夫差を恨んでいると告げたわけです。

呉王夫差は伯嚭の言葉は忠言だと思い、伍子胥に属鏤(しょくる)の剣を渡しました。

呉王夫差は名剣である属鏤の剣で、伍子胥に「自害せよ」と命じたわけです。

最後まで苛烈な伍子胥

伍子胥は属鏤の剣が届き使者が自殺を促すと、天を仰ぎ次の様に述べたと言います。

※史記 伍子胥列伝より

ああ、讒臣の伯嚭が乱を起こしているのに、呉王は私を誅しようとしている。

私は其方(夫差)の父を覇者とした。

其方がまだ太子に立てられなかった頃に、諸公子は争いお前が立つ見込みは殆ど無かったが、私は先王(闔閭)と争ってまで事を行った。

其方は呉を分けて私にくれると言ったが、私は断った。

しかし、今の其方はへつらい者の言葉を信じ、長者(伍子胥)を殺すとは何事だ」

伍子胥の言葉から、呉王闔閭は夫差を太子にしようとは考えておらず、伍子胥が夫差を太子に推薦しようとした事も分かるはずです。

それと同時に呉王闔閭を春秋五覇に押し上げたとする自負も感じられる言葉でもあります。

しかし、ここで怒りが込み上げて来たのか、次の様にも述べました。

伍子胥「我が墓の側に、必ず梓の木を植えよ。

それで、呉王の棺が造れる様に。

また、儂の目をえぐり、呉の東門にかけよ。

これで越が侵入し、呉を滅ぼすのが見られる様に」

そう言い終わると、伍子胥は自殺したとあります。

伍子胥は呉王夫差から渡された属鏤の剣で自刃したという事なのでしょう。

伍子胥は激情的な性格の持ち主であり、最後まで変わりませんでした。

最後まで苛烈な性格を曲げなかったと見る事も出来ます。

胥山

伍子胥の最後の言葉を聞いた呉王夫差は激怒し、伍子胥の遺骸を革袋に入れて長江に投げ捨ててしまったと言います。

過去に伍子胥はに攻め込んだ時に、楚の平王の死骸を300回鞭を打ち辱めを行いましたが、自らの死にあたっては遺骸が主君の夫差により辱めを受けてしまったと言えるでしょう。

ただし、伍子胥の死は同情する者も多かったのか、長江の畔に洞を立て胥山と呼び憐れんだと言います。

伍子胥は死後に神として祀られたという事なのでしょう。

伍子胥の諫言に耳を貸さなかった夫差ですが、黄池の会を主宰しと争い覇者になった話もありますが、越王句践に急襲され敗れました。

呉は越により滅ぼされ、伍子胥の言った通りの展開になったわけです。

因みに、呉王夫差は越に攻められ最後は自刃しますが「伍子胥に合わす顔がない」として、顔を布で包み自害した話があります。

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