
| 名前 | 范蠡 |
| 別名 | 鴟夷子皮、陶朱公 |
| 生没年 | 不明 |
| コメント | 出処進退により余生を全うした |
范蠡は春秋戦国時代の越の名臣です。
越王句践に仕えて、文種と共に活躍しました。
范蠡は呉を討つタイミングを計っており、呉王夫差が黄池の会で呉の本国を空けた時に、攻撃する様に進言しています。
越王句践は呉を滅ぼし覇者として君臨しますが、范蠡は粛清される事を見越し出奔しました。
范蠡は逃亡先の斉では鴟夷子皮と名乗り、さらに陶に移っては陶朱公と呼ばれる様になり莫大な財産を築いています。
陶朱の富という言葉がありますが、范蠡から出た大金持ちを現わす言葉にもなっています。
史記は悲劇的な最後を迎えた人物も多いのですが、范蠡は出処進退を誤らず、余生を全うしました。
尚、范蠡は太平記で後醍醐天皇が隠岐に流された時に、児島高徳が「范蠡の様な忠臣が現れる」と伝え、励ました事でも有名です。
范蠡が越王句践に仕える
范蠡は南陽出身であり、出身地に関しては三戸、宛、徐と様々な説があります。
後年に越王句践に仕えるわけですが、范蠡は越出身の人間ではなく、他国の出身という事になるのでしょう。
范蠡が越に仕える様になった説としては、句践の父親である允常の時代からだとする説もあれば、史記や春秋左氏伝に檇李の戦いでの范蠡の名前がない事から、檇李の戦いの後だったのではないかとも考えられています。
仕えた時期は不明ですが、范蠡が越王句践に仕えたのは間違いなさそうです。
檇李の戦いで越王句践は勝利し、呉王闔閭は亡くなり、夫差が後継者になりました。
范蠡の諫め
呉王夫差は闔閭の仇を忘れぬために、薪の上で寝た話があり、臥薪嘗胆の「臥薪」を行い、句践への復讐に燃えていたわけです。
越王句践は呉の話を聞くと、先制攻撃を仕掛けようとしました。
ここで、范蠡が次の様に述べています。
范蠡「兵は凶器であり、戦は逆徳、争いは事の末のものです。
逆徳を行い好んで凶器を用いて、身の大事を最後に試みております。
これは、天帝が禁じる所であり、先に攻撃を仕掛けた方が不利です」
范蠡は句践を諫めました。
しかし、越王句践は天下最強と言われた呉軍を檇李の戦いで破り、自信があったのか「もう決めてしまった事だ」と述べ、出陣しました。
越と呉が戦いますが、夫椒山で越軍は大敗北を喫する事になります。
范蠡の策
越王句践は范蠡の諫めを聞かなかった事を後悔しますが、范蠡にどの様にすればいいのか問いました。
范蠡は「礼を厚くして、財宝を贈り、それでも許されなければ、わが身を差し出すしかない」と答える事になります。
越王句践は文種を使者として派遣し、呉王夫差に「句践が臣下になりたいと言っている」と伝えました。
呉王夫差は許そうとしますが、伍子胥の反対により文種は、句践の元に帰還する事になります。
しかし、文種は呉の太宰の伯嚭に賄賂を渡し、越に買収された伯嚭は呉王夫差を許す様に進言しました。
伍子胥は反対しますが、伯嚭の言葉で越王句践は許される事になったわけです。
越王句践は呉への恨みを忘れぬ為に、苦い胆を舐めた話があり、臥薪嘗胆の「嘗胆」の部分を行いました。
范蠡が文種を推薦
越王句践は越を復興させる為の努力を行い、范蠡に国政を任せようとしました。
しかし、范蠡は「軍事については文種は私に及びませんが、国家を鎮めるのに私は文種に及びません」と述べて、文種を推薦する事になります。
越王句践は文種に国政を任せ、范蠡と柘稽は呉に人質として向かいました。
范蠡の文種の推挙は、人を知り明がある事を指しているのでしょう。
史記の越王句践世家によると、范蠡は二年すると人質の役目を終え越に帰ったと言います。
伍子胥の最後
越王句践は会稽山に帰ってから7年が経つと再び、呉を討つと言いだしますが、今度は逢同が止めました。
呉王夫差の方は覇者になる為に、中原進出の為に伍子胥の反対を押し切って斉に出兵し、紀元前484年の艾陵の戦いで勝利しています。
この後に、伯嚭と逢同が結託し、紀元前484年に呉王夫差により伍子胥は自害しました。
越王句践を見ると謀臣と言えるのは、范蠡だけではなく、文種や逢同もいる事が分かる話でもあります。
伍子胥が世を去ってから、3年が経過すると句践は再び越に攻め込む相談を范蠡にしました。
しかし、范蠡は「まだ、機は熟していません」と述べ反対し、越王句践も従いました。
范蠡は呉に出兵し勝利出来る確実なタイミングを計っていたと言えるでしょう。
それと同時に、伍子胥の死は范蠡にとっても、感慨深いものがあったはずです。
黄池の会と越の北上
呉王夫差は北上し黄池の会を主催しました。
呉の精鋭は夫差と共に北上し、呉の本国には老幼婦女ばかりだったわけです。
呉王夫差は越に対する備えを怠ったと言えるでしょう。
越王句践は范蠡に呉を攻撃したいと述べますが、范蠡は「もうよろしいでしょう」と答えました。
范蠡としてみれば、このタイミングを待っていたとも言えるでしょう。
この時の越の軍は強く、呉の軍を破り、呉の太子までを殺害する大戦果を挙げました。
北方の黄池の会では呉王夫差と晋の定公が覇者の座を争っていましたが、呉王夫差の方では、それどころでは無くなってしまったわけです。
夫差の方でも越に対抗する事が出来ず、越と和睦する事になります。
范蠡の決断
呉を最初に急襲した時から、4年が経過すると越は再び呉を攻撃し、范蠡も従軍しました。
越の軍は呉の首都を包囲し、3年で破り呉王夫差を姑蘇山に追い詰めました。
呉王夫差は公孫雄を使者とし、許しを乞うと越王句践は過去に会稽山で夫差の温情に救われており、許そうとしたわけです。
しかし、ここで范蠡が次の様に諫言しました。
范蠡「会稽の時は天が越を呉に与えたのに、呉は受け取ろうとしなかったまでです。
今の状態をみるに、今度は天が越に呉を与えました。
越としては、天に逆らうべきではありません。
御主君は朝早くから夜遅くまで政務に励みましたが、全ては呉の為では無かったのですか。
謀を行い既に二十二年にもなりますが、一朝の気分で棄ててもよいのでしょうか。
天から与えられたものを取らなければ、禍を受けます。
斧の柄をつくるため木を伐る者は、現在の持っている斧の柄に合わせて伐ればよいのです。
我が君は会稽の恥を忘れてしまったのですか」
范蠡は呉との和睦に猛反対したと言えるでしょう。
それでも、越王句践は「忍びない」と思い決断できずにいると、范蠡は陣太鼓を打ち「王は既に政を執事(范蠡)に任せている。使者よ立ち去るのだ。さもなければ容赦なく撃ちますぞ」と脅しました。
范蠡の言葉を聞いた公孫雄は泣きながら去り、越王句践は呉王夫差に助命の条件を告げますが、夫差は呉の国が没収されると悟り自刃し、これが呉の滅亡となります。
范蠡の言葉により、呉の滅亡が決まったと言ってもよいでしょう。
項羽と劉邦の会見が行われた鴻門の会において、范増は劉邦を暗殺を企て、項荘にやらせようとしましたが、范蠡ほどは強制的に事を成そうとはしませんでした。
後に越王句践が覇を唱え、項羽が滅亡したのは、范蠡と范増の僅かな差があった様にも感じています。
尚、范蠡と范増は同じ「范氏」ではありますが、関係は不明です。
范蠡の越王句践評
呉を滅ぼした越王句践は北上し、斉や晋と徐州で会見を開き、周の元王からは覇者として認められる事になります。
越王句践は春秋五覇の一人に数えられる事もあります。
越王句践は覇者となり絶頂期にいましたが、范蠡は越を去り斉に向かいました。
斉から大夫種に范蠡は、次の様な書簡を届けました。
范蠡「『飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる』」と聞いております。
越王の人柄は首は長く口は鳥の様に尖っています。
お互いに苦難を共にする事は出来ても、喜びを分かち合う事が出来ません。
あなたは、なぜ越を去らないのですか」
范蠡は共に越を支えた戦友の文種に、越を去る様に勧めたわけです。
絶頂期にいる君主の近くに功臣がいれば禍があると考えたのでしょう。
文種も思う所があり、病と称して参朝しなくなり政治から遠ざかりますが、越王句践は文種を危険視しており、自害を命じました。
これにより文種は世を去る事になります。
文種は最後に范蠡の言葉に従わなかった事に、後悔した話も残っています。
尚、「狡兎死して走狗烹らる」の言葉は、楚漢戦争の英雄である韓信も述べていますが、范蠡の方が危機管理能力が高かったと言えそうです。
第二の人生
范蠡の方は鴟夷子皮と名乗り富を築きますが、斉では鴟夷子皮を宰相としました。
しかし、范蠡は斉を去り、陶朱公と呼ばれる様になり、大金持ちになった話があります。
范蠡は出処進退をわきまえており、第二の人生は商人として歩んだわけです。
後半生の人生は西施と共に暮らしたともされています。
史記の人物を見ると商鞅、李牧、李斯、蒙恬、伍子胥の様に、歴史に名を残す程の活躍もしましたが、最後は報われませんでした。
それに比べると、范蠡は出処進退を心得ており、さっさと権力を手放した事で生き残る事が出来たと言えそうです。
尚、范蠡の第二の人生である鴟夷子皮と陶朱公に関しては、別記事で書いており、そちらをお読みください。