春秋戦国時代

衆仲は魯の賢臣

2026年3月5日

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宮下悠史

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名前衆仲
生没年不明
コメント魯の隠公に仕えた大夫

衆仲は春秋左氏伝に登場する魯の大夫です。

魯の隠公の4年(紀元前719年)に記載があります。

当時は庶子の州吁が衛の桓公を誅して君主となり、宋などの協力を得て鄭を攻撃するなどしていました。

こうした状況の中で魯の隠公が衆仲に「州吁は上手くいくのか」と問いますが、衆仲は「乱で国を纏めようとしても上手くいかない」と述べ、失敗を予見しています。

衆仲の予想は的中し、州吁は石碏陳の桓公により最後を迎えました。

春秋左氏伝には僅かしか登場しませんが、衆仲は魯の賢大夫だと言えそうです。

州吁の乱

衆仲と予見

衛の州吁は紀元前719年に、衛の桓公を誅し、宋の殤公の協力を得て衛、宋、陳、蔡で鄭を攻めるなど活発に活動していました。

こうした状況を見て、魯の隠公は大夫の衆仲に「衛の州吁は国を安定させる事が出来るだろうか」と問う事になります。

これに対し、衆仲は次の様に応えました。

※春秋左氏伝より

衆仲「私は徳により民を安定させるとは聞いていますが、戦いを利用するとは聞いた事がありません。

戦を利用しようとすれば、糸を整えようとしても、余計にこんがらがってしまうものです。

州吁は武を頼みとし、民には平気で残虐な事をします。

武を頼みとすれば人望を失い、残忍な事を行えば人が離れます。

州吁はとても国を纏める事は出来ないでしょう。

戦は火の様なものであり、上手くやらないと自らが火傷してしまうものです。

州吁は衛の桓公を誅しただけではなく、民に対しては残忍な行いをしています。

徳を高めるどころか、戦争を行って国を纏めようとしては、自らが禍すら逃れられないでしょう」

衆仲は州吁が上手くいかないと予言したと言えるでしょう。

衆仲の予想が的中

州吁は再び鄭に侵攻しようと考えますが、この時に宋の殤公は魯の隠公にも出兵を依頼しました。

しかし、魯の隠公は宋の殤公の要請を断っており、衆仲の言葉を考えて断ったのでしょう。

ただし、魯の羽父は魯の隠公の意向に反して、勝手に出兵しています。

州吁の方では鄭の軍を破り戦果を挙げていますが、国を安定させるには程遠い状態であり、政権は1年も持たず石碏陳の桓公の策謀により命を落としました。

衆仲の予言が的中したと言えるでしょう。

初めて六羽を献ず

紀元前718年に魯の桓公の母親である仲子の廟が完成しました。

ここで万舞を納める事になります。

魯の隠公が羽を持った舞人の数を衆仲に訪ねると、次の様な答えが返ってきました。

※春秋左氏伝より

天子は八人八列(64人)、諸侯は六列(48人)、大夫は四列(32人)、士は2列(16人)で行います。

舞は八種の楽器の音色と共に八方の風を広めるので、八列以下の数になるのです。

魯の隠公は衆仲の言葉に従い実行しました。

春秋には「初めて六羽を献ず」とありますが、衆仲の言葉から出たものなのでしょう。

主君に代わり対応

紀元前715年に斉の僖公が斉、宋、衛、鄭の諸侯同盟を成し、これを魯に通告してきました。

斉の使者に対し、魯の隠公は衆仲に対応させています。

衆仲は次の様に応えました。

※春秋左氏伝より

斉が三国の疑念を解き、民を安堵したのは、有難き事です。

我が君は仰せのままにいたす事でしょう。

貴君の明徳をお受けになりました。

衆仲も斉の僖公の手腕を高く評価したのでしょう。

ただし、翌年には鄭と宋が対立し戦争が勃発し、斉の同盟は短期間で終焉を迎えたと言えるでしょう。

展氏の族名

紀元前715年に魯の恵公の兄弟である無駭が亡くなりました。

羽父は諡と族名を決める事になり、魯の隠公は衆仲に相談する事になります。

ここで衆仲は見事な回答を示し、無駭の祖父の公子展の字により展氏に決まった話があります。

衆仲の見識の高さが分かる話でもあります。

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