
| 名前 | アッシュル・バニパル |
| 生没年 | 紀元前685年ー紀元前631年/627年? |
| 在位 | 紀元前668年ー紀元前631年/627年? |
| 国 | アッシリア |
| 一族 | 父:エサルハドン 姉:シェルア・エテラト |
| 兄:シャマシュ・シュム・ウキン | |
| 子:アッシュル・エティル・イラニ、シン・シャル・イシュクン | |
| ニヌルタ・シャル・ウツルなど | |
| コメント | アッシリアの全盛期の王 |
アッシュル・バニパルはアッシリアの全盛期の王です。
この時代にアッシリアは再びエジプトを征服しました。
さらに、兄のシャマシュ・シュム・ウキンとの戦いに勝利し、エラム王国も滅ぼしています。
アッシュル・バニパルはメソポタミア文明の王としては珍しく、文字も読めた事が分かっています。
粘土板を多く集めアッシュル・バニパルの図書館も建立しました。
戦争が嫌いで戦場に行きたがらなかったとも考えられていますが、アッシリアの長い歴史の中で最も輝いていたのが、アッシュル・バニパルの時代だったと言えるでしょう。
ただし、治世後半の10年程はよく分からず、この辺りからアッシリアは傾き出し、アッシュル・バニパルの死後20年ほどでアッシリアは滅亡しました。
アッシュル・バニパル王の即位とエラム戦役
紀元前668年、先王エサルハドンの崩御を受けて即位した「アッシュル・バニパル(Ashurbanipal)」は、新アッシリア帝国の歴代君主の中で最も高い知名度と、卓越した文化的・政治的実績を誇る「至高の学者王」です。
彼はエサルハドンが構築した王位継承誓約に則り、兄シャマシュ・シュム・ウキン(Shamash-shum-ukin)を属国バビロニアの王として正式に承認・擁立し、同時にセンナケリブが捕囚していた最高神マルドゥクの神像をバビロンへと返還しました。
この高度な宗教的融和策により、アッシリア本国とバビロニアによる「東西二重王権統治」が円滑に始動することになります。
最大版図の達成とエジプト統治の限界
アッシュル・バニパルは即位後、父の遺志を継いで即座にエジプトへの追加遠征を断行します。
下エジプトだけでなく、ナイル川上流の宗教的中枢である上エジプトの古都テーベをも完全に陥落させ、アッシリアの勢威をアフリカ深部にまで及ぼしました。
しかし、この超広大な帝国の版図は、同時に防衛・統治の限界を露呈させました。
アッシュル・バニパルは現地リビア系の有力者プサメティコス1世(Psammetichus I)をエジプトの総督に任命して間接統治を試みたものの、
紀元前664年にはプサメティコス1世の離反と独立(エジプト第26王朝の建国)を許すことになります。
この急速なエジプト喪失の要因は、帝国本土のアッシリア(現在のイラク北部)からエジプト中枢にいたる「兵站・通信網があまりにも長距離に及びすぎたこと」にあります。
属州で反乱が発生しても、本国から抑圧部隊を迅速に輸送・展開する機動力が追いつかず、距離の障壁が直接的な統治決壊をもたらしたのです。
エラム王国との覇権争いと大義名分
西方での戦線縮小を余儀なくされる中、アッシュル・バニパルの最大の対抗軸となったのが、東方に位置する伝統的な強国「エラム王国(Elam)」です。
当時のエラムでは、内紛を制して強引に王位へと就いた王テウマン(Teuman)が絶対的な軍事基盤を構築していました。
この政変の際、テウマンの粛清から逃れたエラムの王族や貴族たちが、アッシリアのアッシュル・バニパルの宮廷へと次々に亡命し、助けを求める事態が発生します。
アッシュル・バニパルはこの亡命貴族たちの保護を利用し、「正当な王位継承権者を守り、不法な簒奪者テウマンを罰する」という「軍事介入の大義名分」を手に入れることに成功したのです。
ティル・トゥーバの戦い:「最前線へ赴かない王」
紀元前653年、アッシリア軍とエラム軍はウライ川の辺り、歴史に名高い『ティル・トゥーバの戦い(Battle of Til-Tuba)』において正面から激突しました。
結果はアッシリア軍の圧倒的な戦略的勝果となり、エラム王テウマンは戦場で首をはねられ、その首級は首都ニネヴェへと送られました。
この大勝利のタイムラインにおいて、アッシュル・バニパルは歴代のアッシリア王とは全く異なる、極めて「異質な軍事体制」を展開していました。
彼は自ら最前線に立って剣を振るう親征を行わず、首都ニネヴェの王宮に留まり、前線の将軍たちに戦術命令を伝達する「後方指揮官」のスタイルを貫いたのです。
のちにニネヴェの王宮に飾られた華麗な浮彫(レリーフ)の碑文においては、アッシュル・バニパル王自らがエラム軍を蹂躙したかのような公式記録が刻まれていますが、
実際の浮彫の視覚的描写では、テウマン王の首を斬り落とし、それを運んでいるのは前線の一般兵士や将軍たち(正規軍)であり、王の非親征を示唆しています。
さらに、当時の公式文書には、遠征直前に宮廷占星術師や予言者を通じて下された「夢の神託」が記録されています。
その内容は、戦支度を整えた戦争の女神イシュタルが王に対し、「お前はニネヴェの神殿に留まり、私のために祈りを捧げよ。
戦いは私の軍勢(アッシリア軍)が代わりに引き受ける」と告げ、王の随行を拒んだというものです。
これは単なる前線拒否や臆病によるものではなく、識字力と学問に長けたアッシュル・バニパルが、高度な宗教的権威(神託)を意図的に構築し、
「王の本質は前線での肉体労働ではなく、中央で神々と対話し、官僚機構と国家のロジスティクスを統治することにある」とする、新時代の中央集権的なプロパガンダを確立するための極めて洗練された統治戦略であったと言えます。
従来の武力一辺倒の軍事基盤から、情報・宗教・官僚を中央から遠隔制御するスタイルへの大転換は、
前線の兵士や保守的な貴族層の間に「王の武勇」に対する静かな不満や猜疑心を潜在的に残すリスクを孕みつつも、新アッシリア帝国が高度な中央官僚制国家へと超進化したことの決定的な証明であったと言えるでしょう。
サルゴン朝最大の骨肉の内戦
アッシュル・バニパル王(Ashurbanipal)の治世中盤において、新アッシリア帝国は東方の宿敵エラム王国の解体(紀元前646年の王都スサ破壊、紀元前640年の完全滅亡)を推し進めましたが、
この地政学的覇権のタイムラインの裏側では、帝国の心臓部を真っ二つに叩き割るアッシリア史上最大の骨肉の内戦、すなわちバビロン王である兄「シャマシュ・シュム・ウキン(Shamash-shum-ukin)」による大反乱が進行していました。
カルデア・エラムを巻き込んだ大反乱包囲網
紀元前652年、属国バビロニアの王座に就いていた兄シャマシュ・シュム・ウキンは、自らを「本国から不当に格下げされた傀儡」とみなす長年の怨恨から、アッシリア本国に対する全面的な「大反乱」を決起しました。
彼はアッシリアの支配に不満を募らせる南部バビロニアのカルデア人諸部族、常に反乱の機会を伺っていた東方の宿敵エラム王国、さらにはアラビア半島の遊牧民(アラブ諸部族)や西方のパレスチナ諸侯をも強大に巻き込み、
アッシリア本国を東西から完全に包囲・孤立させる「巨大な反アッシリア国際包囲網」を結合したのです。
アッシュル・バニパルの情報心理戦
この未曾有の危機に対し、中央に留まる学者王アッシュル・バニパルは、単なる武力による力技ではなく、高度な官僚制国家ならではの「情報・心理戦」を展開しました。
アッシュル・バニパルは、反乱の主導権を握るバビロンやニップル、シッパルといったバビロニアの主要な歴史的「都市民(有力市民たち)」に対し、
「もし兄シャマシュ・シュム・ウキンの狂った反乱に味方せず、アッシリア帝国への忠誠を維持するならば、古くからの都市特権(免税権や自治権)を完全に永久保証する。
神々の加護は正当な王である私にある」とする公式な布告状を各地へ電撃的に伝達しました。
この綿密な心理分断工作は劇的な功を奏し、バビロニア内部の富裕層や宗教階級は「反乱による特権喪失」を恐れて動揺する事になります。
重要都市のいくつかがシャマシュ・シュム・ウキンへの軍事協力を拒絶し、反乱軍の足並みは開戦初頭において致命的に瓦解・機能停止することになったのです。
バビロン包囲戦と、絵画が遺した自害の衝撃
外交・心理戦によって孤立を深めた反乱軍に対し、アッシリアの正規軍は紀元前650年頃から聖都バビロンを完全に包囲しました。
数年に及ぶ苛烈な経済封鎖と包囲戦により、バビロンの市街地は凄惨な飢餓と疫病によって決壊します。
そして紀元前648年、アッシュル・バニパル王の軍隊がバビロンの城壁を陥落へと追い込みました。

(画像:ウィキペディアより)
このバビロン陥落のタイムラインにおけるシャマシュ・シュム・ウキンの悲劇的な最期は、後世の西洋美術史における最高峰のロマン主義画家
ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)に強烈なインスピレーションを与え、
現在は米国フィラデルフィア美術館に所蔵されている大名画『サールダナパロスの死(The Death of Sardanapalus)』の真のモデルになったと考えられています。
ドラクロワの油彩画において、絶対的王座の破滅に直面した王は、敵の手にかかって屈辱的な虜囚の身となることを拒絶。
最期の瞬間、自らの豪華絢爛な宮廷に自ら火を放ち、最愛の愛妾たちや財宝、駿馬たちをすべて道連れにして、巨大な紅蓮の炎の中に飛び込んで自害を遂げました。
古代ギリシアの伝説では、この自害した人物は「アッシュル・バニパル(ギリシア名:サールダナパロス)」そのものであると混同されて語り継がれていましたが、
近代の楔形文字粘土板の解読により、実際にバビロン陥落の絶望の中で王宮に火をかけて壮絶に崩御したのは、弟アッシュル・バニパルではなく、反乱に敗北した兄「シャマシュ・シュム・ウキン」その人であったとする説も出る様になっています。
アッシュル・バニパルはバビロン攻略後、首謀者たちを徹底的に処刑しつつも、かつて父エサルハドンが成し遂げたバビロン復興の枠組みを維持し、南方の治安を再編しました。
そして、この内戦の背後で最大の軍事支援を行い続けた東方の宿敵エラム王国に対し、帝国全土のリソースを投入した凄まじい報復・徹底解体遠征(紀元前646年〜640年の完全滅亡)へと突入していくことになるのです。
至高の学者王アッシュル・バニパル
新アッシリア帝国の皇帝アッシュル・バニパル(Ashurbanipal)が歴史上で極めて特異かつ不滅の存在とされる最大の理由は、
彼がアッシリアの歴代君主の中で突出した「識字力(リテラシー)」と高度な学問的教養を完全に掌握していた点にあります。
王自身が残した「楔形文字の書き取り粘土板」
メソポタミア文明の長い歴史において、ウル第三王朝のシュルギ王など極めてわずかな例外を除き、国王や王族の多くは自ら文字の読み書きをせず、実務はすべて専属の書記官(官僚機構)に任せるのが通例でした。
文字(楔形文字)の習得には、数百におよぶ複雑な記号やシュメール語・アッカド語の二重の知識が必要であり、膨大な時間と教育を要したためです。
しかし、ニネヴェの遺跡からは、アッシュル・バニパルが幼少期から青年期にかけて過酷なエリート教育を受け、
自ら文字の習得に励んでいたことを直接裏付ける驚くべき考古学的証拠(実物粘土板)が複数枚発見されています。
これらの粘土板には、通常の公文書よりも意図的に大きな文字で楔形文字の習字・書き取りが施されており、その文章の末尾には王自らの手で「私はアッシュル・バニパルである」という署名が残されています。
これは、大帝国の絶対君主が、自ら直接国家を統治するための学習プロセスを歩んでいたことの客観的証明なのです。
シュメール語解読から天文学・数学まで
アッシュル・バニパルの学問的教養は、単に「文字が読める」というレベルを遥かに凌駕していました。
当時の公式記録や宮廷の往復書簡からは、彼が古代の死語であり宗教・学問の最高峰言語であった「シュメール語」の難解な古文書を自ら解読し、さらには複雑な掛け算や割り算といった高等数学の計算能力をも完全にマスターしていたことが判明しています。
王は、当時の最高峰の知性である宮廷占星術師の「バラシ(Balasi)」を家庭教師(先生)として迎え、天体現象や国家の吉凶に関する
高度な学術的・ロジカルな議論を手紙(書簡)を通じて対等に行っていました。
この高度な知育は王一人に留まらず、アッシュル・バニパルの姉(または妹)と考えられる王女「シェルア・エテラト(Sherua-eterat)」もまた、高い識字力を有し、宮廷の女性社会や行政に影響力を行使していたことが記録されています。
「学者王」がもたらした新時代の王権
アッシュル・バニパルは、従来の「戦場で武力を誇示する戦車上の戦士」という伝統的なアッシリア王の姿を脱却し、
「国家の膨大な情報、法、歴史、科学を中央から完全に遠隔制御する官僚制国家の最高経営者」という、極めて近代的かつ画期的な王権を確立しました。
この絶対的な識字力と高度な知識への深いリスペクトこそが、彼を人類史上空前の国家プロジェクトである「全オリエントの叡智の集積」、
すなわち首都ニネヴェにおける超巨大な『大図書館』の設立という歴史的大偉業へとダイレクトに直結させていくことになるのです。
ニネヴェ大図書館の設立と知の安全保障
アッシュル・バニパル王(Ashurbanipal)が成し遂げた内政上最大の金字塔が、帝国の新首都ニネヴェ(Nineveh)に設立された、
人類史上初の国家規模の統合図書館「アッシュル・バニパルの大図書館」の構築です。
これは単なる王個人の趣味や蔵書コレクションの枠を超えた、帝国の永続的な統治と国家の安泰を担保するための、極めて高度な「知の安全保障」でした。
粘土板収集の国家命令
アッシュル・バニパルは王位に就くと即座に、帝国全土の総督、官僚、および学者たちに対し、メソポタミア全域に点在する学術的・宗教的な粘土板を余さず収集し、新首都ニネヴェへと送致するよう強力な国家命令(勅令)を発布しました。
特に「アッシリア本国にまだ存在しない、古く珍しい粘土板」の捜索とアーカイブ化が最優先として位置づけられたのです。
なお、この国家規模の知の集積には先駆者が存在していました。
はるか数百年先の中アッシリア時代(紀元前11世紀頃)において、名君ティグラト・ピレセル1世(Tiglath-Pileser I)が約1万点におよぶ粘土板を集積した
宮廷アーカイブを構築しており、アッシュル・バニパルはこの先駆けを構造的に引き継ぎ、それを4万点以上の規模へと劇的に拡張・進化させたのです。
これによって、現代に遺るアッシリア学研究の最も堅固な客観的考古学エビデンスの基礎が完成しました。
文字の思想的変遷
アッシュル・バニパルがこれほどまでに執拗な粘土板の集積にこだわった背景には、当時のメソポタミアにおける「文字そのものに対する強烈なオカルト的・宗教的な思想の変遷」がありました。
はるか紀元前3000年頃、楔形文字を世界で初めて考案・開発したシュメール人たちにとって、文字とは元来、農作物の収穫高や家畜の取引、法的契約を記録するための「極めて実用的な事務・会計ツール」に過ぎませんでした。
しかし、3000年の時空を経て新アッシリア時代にいたると、複雑な楔形文字を解読する行為そのものが神聖視され、過去に書かれた古い粘土板は、神々が人間に授けた「不滅の過去の叡智」として崇拝されるようになります。
アッシュル・バニパル王の時代、これらの膨大な粘土板、特に彼が熱心に収集を命じた「兵法書」や「呪術・占星術の神託書」の集積は、単なる知的好奇心の充足ではなく、「神々の意志と過去の叡智を物理的に王宮へ幽閉・結合させることで、あらゆる邪悪や反乱から
アッシリア帝国を永久に防衛する最強の国家の護符」として機能することが期待されていたのです。
絶頂期を迎えた帝国
このように、アッシュル・バニパルは自ら最前線に立たない代わりに、文字、学問、宗教、そして情報を中央のニネヴェ王宮から遠隔制御するという、
古代世界で最も洗練された有能な統治基盤の一つを完成させました。
ニネヴェの大図書館に世界中のあらゆる知識と護符を集積し、東方の伝統的な強国エラム王国をも完全に解体・滅亡(紀元前646年〜640年)へと追いやったアッシリア帝国は、まさに全オリエントの頂点に君臨する「大帝国としての絶対的絶頂期」を完全に確立したのです。
しかし、この圧倒的な知と武力の構築は、同時に帝国の内部に深刻な歪みをもたらし、次代において、歴史上最も劇的かつ急転直下な大崩壊の悲劇を引き寄せる構造的要因となっていきました。
アッシュル・バニパルの最晩年と史料の空白
アッシュル・バニパル王(Ashurbanipal)が確立した「最前線へ赴かない中央遠隔の統治」は、高度な官僚制国家の完成を象徴していた一方で、
帝国内の政治思想に対して潜在的なリスクをもたらしていました。
非親征システムが国内に遺した軍事的・政治的軋轢
連年のように国王自らが軍隊の先頭に立って親征を繰り返し、圧倒的な個人の武勇によって属州を平定してきた歴代のアッシリア王たち
(サルゴン2世やエサルハドンなど)の伝統的な統治スタイルに比べ、王宮に留まり続けるアッシュル・バニパルの姿は、極めて異質でした。
王がイシュタル女神の神託を背景にして最前線を将軍たちに委ねたことは、中央の行政を安定させた反面、武力による抑圧と王の絶対的恐怖によってのみ
従属を維持していた周辺諸国や前線の将兵たちの目には、「王の権威の変質(あるいは直接的な武威の衰退)」として映るリスクを常に孕んでいました。
アッシリアの絶対王権の根幹であった「戦う最強の戦士としての王」という姿の崩壊は、前線の軍閥の肥大化や属州の不穏な自立心を静かに刺激し、
軍事国家としてのアッシリアの統合を内部から緩やかに蝕む要因となったと考えられています。
最晩年10年間の「史料消失」:帝国行政機構の麻痺
アッシュル・バニパルの40年を超える長期治世(紀元前668年~紀元前627年)において、歴史学・考古学上最大の謎とされるのが、その治世の最後の約10年間に関する公式記録(粘土板史料)が、ほぼ完全に途絶・消失している点です。
この劇的な史料の空白は、単なる偶然や記録の忘却によるものではなく、当時の新アッシリア帝国の中枢において「国家の行政・公文書記録システムそのものが電撃的に機能麻痺(崩壊)を起こしていた事実」を物語っています。
アッシュル・バニパルが文字の練習に励み、世界中の粘土板を熱心に収集して「知の安全保障」を誇っていたあの壮麗なニネヴェの宮廷は、
彼の最晩年において、すでに次代の王位をめぐる激しい内部抗争、
あるいはカルデア人やメディア王国の台頭に伴う属州の連続的決壊によって、公文書を統制・記録する官僚機構のシステムそのものが完全に麻痺・崩壊を起こしていたと推測されています。
紀元前627年:絶対王座の終焉と暗黒時代への直撃
そして紀元前627年、40年以上にわたりオリエントの頂点に君臨し続けた絶対的君主アッシュル・バニパルは、ついにその座を退き、崩御を遂げたと考えられています。
国家の最大版図を達成し、世界最古の大図書館を設立した偉大な「学者王」の退場は、アッシリア帝国全史における繁栄の完全な終焉でした。
彼の死の瞬間に、それまで抑圧されていた王位継承の混沌と周辺諸国の怨恨のエネルギーが一気に国境線全域で大発火。
帝国はここから、史料すら残せないほどの凄惨な暗黒の滅亡へと突入していくことになります。
図書館の埋没と知の永久保存
ニネヴェを蹂躙した新バビロニアとメディアの連合軍は、アッシュル・バニパル王が設立したあの大図書館の存在や、そこに眠る数万枚の粘土板に対して、学術的な興味を一切持ち合わせていませんでした。
彼らにとって粘土板とは価値のない泥の塊に過ぎず、王宮の破壊とともに、図書館の棚ごと地下深くへと無造作に踏み荒らされ、埋もれることになりました。
しかし、ここに世界史上の極めて巨大な「歴史の皮肉(奇跡)」が起こります。
連合軍がニネヴェの王宮を焼き尽くした際の凄まじい大火災の「圧倒的な高熱」が、地下に埋もれたアッシュル・バニパル図書館の泥の粘土板たちを、まるで窯で焼いた頑丈な「陶器」のように硬固に焼き固める結果をもたらしたのです。
もし、連合軍が本に興味を持って略奪したり、あるいはこれらが紙やパピルスの本であったりすれば、この時の火災で残さず完全に焼失し、人類の記憶から消えていたでしょう。
しかし、彼らの「無関心な破壊と大火災の高熱」のおかげで、粘土板は数千年の腐食リスクを完璧に克服し、19世紀の考古学者たちによってほぼ無傷のまま発掘され、
現代の私たちが古代アッシリアの壮大な歴史、神話(ギルガメシュ叙事詩など)、科学の客観的事実を完璧な状態で読み解くことができる不滅の知の遺産となったのです。
ハランでの最終抵抗と帝国の完全消失
ニネヴェが崩壊したものの、アッシリアの生存は完全には絶たれていませんでした。
生き残ったアッシリア王族の将軍「アッシュル・ウバリト2世(Ashur-uballit II)」が、北西の要衝都市ハラン(Harran)へと逃れて王位を継承し、アッシリア最後の残存国家を樹立して死に物狂いの抵抗を継続しました。
紀元前610年頃、アッシリアが完全に消滅して新バビロニアがオリエントを独占することを危惧したエジプト(第26王朝の名君ネコ2世)が、国際的なパワーバランスを維持するためにアッシリアへの大規模な援軍をハランへと派遣しました。
しかし、台頭する新バビロニアとメディアの圧倒的な進撃の前に、この最後の抵抗も機能しませんでした。
ハランはわずか2ヶ月の包囲戦の末に完全陥落し、アッシュル・ウバリト2世も戦火の中で敗死を遂げました。
ハランが完全に大爆破・陥落した「紀元前609年」、新アッシリア帝国は北部メソポタミアの本拠地を完全に喪失し、国家として完全に終焉を迎えたのです。
アッシュルバニパルが亡くなってから、僅か20年ほどでアッシリアは滅亡したと言えるでしょう。
新アッシリア帝国の滅亡要因と民族の生存
紀元前609年、新アッシリア帝国は新バビロニアとメディア王国の猛攻の前に、その強大な国家基盤を喪失し、滅亡を迎えることになります。
しかし、このオリエントを震撼させた巨人の「滅亡の真因」と、国家瓦解後も連綿と生き残り続けた「アッシリア人」たちの足跡には、古代世界の地政学を覆す壮大な歴史的ロマンが隠されていました。
アッシュル・バニパルの後期から始まったアッシリアの崩壊の要因を解説します。
帝国の崩壊を招いた4つの要因
アッシリアの劇的な終滅については、歴史学・考古学の発展により、単なる軍事的な敗北だけでなく、以下のような「多角的な因果関係」が解明されています。
苛烈な軍事抑圧(恐怖政治)の限界:アッシリアは被征服民に対して凄惨な見せしめ、大量虐殺、および「国家規模の強制移住」を課す恐怖政治を展開しました。
これは一時的に反乱を抑え込んだものの、属州民の心に修復不可能な怨恨を植え付け、中央の中枢が揺らいだ瞬間に、全方位で一斉にアッシリア打倒の国際包囲網(寝返り)が作動する最大の要因となりました。
過度な領土拡大に伴う兵站の過負荷:メソポタミアからエジプトにいたる広大な最大版図は、当時の限界を超えていました。
国境の維持コストが急増し、本土のアッシリア人正規兵(将兵)のリソースが枯渇したことで、帝国は急速に脆さを露呈していったのです。
過密都市化と人口集中リスク:センナケリブやアッシュル・バニパルによる首都ニネヴェの急速な再開発は、人口12万人を超える世界最大級の都市を誕生させました。
しかし、この過度な中央都市への人口集中は、生活や食料供給システムに対して莫大な負担を強いることになりました。
気候変動による農業基盤の決壊:さらに紀元前7世紀中葉、オリエント全域を激しい「乾燥化(深刻な干ばつ)」が襲いました。
メガロポリス周辺の膨大な人口を支えていたアッシリアの高度な治水・農業は、気候変動による水源枯渇の前に機能麻痺を起こし、急激な経済的崩壊と社会不安を内部から引き起こしたと考えられています。
繰り返しますが、これらの要因はアッシュル・バニパルの治世の後半には噴出し出していたと考えられています。
アッシリア滅亡の直接的な原因はメディア王国や新バビロニアの侵攻にありますが、アッシュル・バニパルの時代からアッシリア崩壊の足音は響いていたのでしょう。