
| 名前 | エサルハドン |
| 生没年 | 紀元前713年?ー紀元前669年 |
| 在位 | 紀元前681年ー紀元前669年 |
| 国 | アッシリア |
| 一族 | 父:センナケリブ 母:ナキア |
| 兄:アッシュル・ナディン・シュミ、アルダ・ムリッシ | |
| 子:シェルア・エテラト、シャマシュ・シュム・ウキン | |
| アッシュル・バニパルなど | |
| コメント | 病弱でありながら下エジプトまで征服した |
エサルハドンは新アッシリアの王であり、センナケリブの子でもあります。
母親のナキアの言葉でセンナケリブの後継者に指名され、兄のアルダ・ムリッシを制しアッシリア王となりました。
エサルハドンの時代のアッシリアは下エジプトまで制圧しており、アッシリアの最大版図を更新する事になります。
メソポタミア文明の勢力がエジプト文明の勢力の地を征服したのは、これが初めてだと言えるでしょう。
エサルハドンは実績はありますが、病弱であり迷信深く身代わり王の儀式を何度も行ったなどの話もあります。
大規模な粛清も行っており、評価が分かれる王でもあります。
血みどろの内戦とエサルハドンの王位奪還
エサルハドン(Esarhaddon)は母親のナキアの暗躍により、兄のアルダ・ムリッシが廃嫡され、アッシリアの後継者となりました。
しかし、首都のニネヴェには暗雲が立ち込めており、ナキアの進言によりエサルハドンは首都から出て地方に逃れる事になります。
後にアルダ・ムリッシは父親のセンナケリブを暗殺しました。
父親を暗殺したアルダ・ムリッシらでしたが、彼らのクーデター政権は長く持ちませんでした。
前述の「バビロンの祟り論」による民衆の激しい嫌悪感に加え、センナケリブ暗殺という大罪を犯した反乱勢力に対し、アッシリア軍の根幹をなす前線の正規軍(将兵たち)が猛反発したためです。
アルダ・ムリッシらは軍隊や主要都市の民衆から決定的な「支持(軍事的・政治的承認)」を獲得することに完全に失敗したのです。
この好機を見逃さず、西方の隠れ家から決起したエサルハドンは、自らを慕う忠誠度の高い精鋭部隊を引き連れて新首都ニネヴェへと電撃的に進軍を開始します。
エサルハドン率いる王道軍の圧倒的な進撃の前に、大義名分を失っていたアルダ・ムリッシらの反乱軍は戦う前から完全に瓦解しました。
エサルハドンは極めて短期間のうちに首都ニネヴェを完全奪還・制圧し、紀元前681年、新アッシリア帝国の絶対王座(国王)へと即位することに成功しました。
敗北した兄アルダ・ムリッシらは、北方のアッシリアの宿敵である「ウラルトゥ王国(Urartu)」へと亡命し、ここにサルゴン朝最大の王位継承内乱は、末子エサルハドンの完全大勝利によって幕を閉じたのです。
エサルハドンはアッシリア王に即位しました。
エサルハドンの四方国境防衛と王位継承戦略
兄たちによる王位継承内乱を制して即位したエサルハドンを待ち受けていたのは、帝国の全方位の国境線を脅かす、古代オリエント史上最も過酷な諸民族の反乱ネットワークでした。
彼は卓越した武力と、自らの凄惨な経験に基づく冷徹な王位継承の再編によって、帝国の絶頂期を死守することになります。
北方・東方国境の要衝
紀元前673年、東方の新興勢力であるメディア王国がアッシリアの支配に抗して反旗を翻しました。
この危機に呼応するように、アッシリアの北方に位置するザグロス山脈およびアルメニア高原の国境地帯一帯が、一斉にアッシリア包囲網へと結合します。
エサルハドンが現在のイラン西部ハマダン(Hamadan)の南方において激突したのは、メディア人だけでなく、周辺の山岳民族であるマンナイ人、
さらには黒海北岸から南下してきたユーラシア最強の広域遊牧民族「スキタイ人(Scythians)」や、先王たちの治世を脅かし続けた「キンメリア人(Cimmerians)」が結託した、史上類を見ない「広域遊牧民・反乱勢力連合軍」でした。
このユーラシア全域を震撼させる最強の騎馬軍団に対し、エサルハドンはアッシリア正規軍の圧倒的な戦略と重装歩兵・戦車部隊を投入して完全撃破。
北東国境の脅威をねじ伏せ、帝国の崩壊を水際で防ぐという極めて偉大な軍事的勝果を達成しました。
一度目のエジプト遠征とティルスの寝返り
北方の脅威を排除したエサルハドンは、次なる焦点を西方国境、すなわちパレスチナ地方の完全安定化へと定めます。
アッシリアがパレスチナの諸侯をいくら武力で従属させても、南方の超大国であるエジプト(クシュ人による第25王朝)が常に彼らの背後の供給源となり、反乱を扇動し続けていたためです。
紀元前673年、エサルハドンは根本的な決着をつけるべく「一度目のエジプト遠征」を敢行したものの、エジプト軍の頑強な防衛線と長距離遠征による兵站の過負荷により、この親征は失敗に終わりました。
アッシリアの敗北を察知した地中海東岸のフェニキア人の大貿易都市ティルス(Tyre)のバアル1世は、即座にアッシリアを裏切り、エジプト側へと寝返りました。
この全方位のドミノ倒し的な反乱連鎖の危機が、エサルハドンをさらなる強硬な軍事・政治改革へと駆り立てる構造的要因となりました。
「王位誓約儀礼(アディエ)」の締結
ティルスの裏切りとエジプトの脅威を前に、自らの余命と健康不安を自覚していたエサルハドンは、二度目のエジプト遠征に赴く直前、
アッシリア宮廷の中枢が最も恐れていた「第二の内生的な王位継承内乱」を未然に防ぐため、国家の根幹を揺るがす巨大な政策を実行します。
それが、紀元前672年に挙行された歴史名高い「王位誓約儀礼(アディエ / Adê)」の完全締結です。
エサルハドンは自らが兄たちに命を狙われ、凄惨な父親殺しの内戦を引き起こした経験を元に、権力をあらかじめ完全に分割・制度化する決断を下しました。
・アッシリア本国の王位:能力・識字力ともに群を抜いていた下の子(末子)「アッシュル・バニパル(Ashurbanipal)」を正式な次期アッシリア帝国皇帝(皇太子)に指名。
・バビロニアの王位:本来の年長者(長男)であった「シャマシュ・シュム・ウキン(Shamash-shum-ukin)」を、属国バビロニアの王として据え置く。
エサルハドンは宮廷の全貴族、属州の総督、さらには周辺諸国の王たちを一堂に招集し、「もし私の死後、この継承順位に不満を持ち、兄弟の間で反乱を起こす者がいれば、神々の恐ろしい呪いによって一族諸共滅ぼされる」という血の誓約(王位誓約儀礼)を強制的に結ばせ、国家規模で文書化して配布しました。
これは、年長者をあえて格下のバビロン王に据えるという、将来的な「兄弟間の骨肉の怨恨・内戦(大反乱)」のリスクを構造的に内包した、
極めて危うい大博打の統治システムでもありました。
しかしエサルハドンにとっては、アッシリアの統治をアッシュル・バニパルという最強の天才に引き継がせ、血みどろの暗殺クーデターを防ぐためには、これ以外に選択肢のない安全性の構築であったと言えるでしょう。
エサルハドンのエジプト征服と「身代わり王」
新アッシリア帝国の歴史において、エサルハドン(Esarhaddon)の治世は、メソポタミアとエジプトという古代オリエントの二大文明圏を史上初めて一つの主権の下に統合した、帝国最大版図の達成期として記憶されます。
しかし、その偉大な軍事的勝果の裏には、過酷な遠征と、絶対君主の精神を蝕んだ強烈な信仰の二面性が隠されていました。
メンフィス占領:シナイ半島横断とアッシュル・ナツィルの功績
紀元前671年、エサルハドンは一度目の失敗を糧に、二度目の「エジプト遠征」へと出陣しました。
この遠征における最大の障壁は、戦闘そのものよりも、エジプトへの侵入経路となる広大なシナイ半島の砂漠地帯における「水不足と兵站の問題」でした。
エサルハドン自身も行軍中に重い病に倒れ、軍全体の指揮機能が決壊しかける中、この未曾有の危機を救ったのが、王の絶大な信頼を集めていた政府高官である宦官の将軍「アッシュル・ナツィル(Assur-natsir)」です。
アッシュル・ナツィルは、周辺の遊牧民(アラブ諸部族)を外交工作によって巻き込み、大量のラクダを動員して軍水糧の補給経路を完全に維持。
アッシリア軍の強靭な機動力を死守して砂漠を横断し、エジプト第25王朝の拠点である名都メンフィスへと電撃的に突撃しました。
アッシリア軍はメンフィスを完全占拠し、ファラオ・タハルカ(Taharqa)を南方のテーベへと敗走させることに成功します。
ここに、メソポタミア文明の勢力がエジプトの中枢を物理的に支配するという、歴史上空前の最大版図(世界統一)が完成したのです。
ジンジルリ戦勝碑の嘘と真実
この偉業を記念して、現在のトルコ南部ジンジルリ(Zinjirli)に建立されたのが、歴史名高い『エサルハドンの戦勝碑(Victory Stele of Esarhaddon)』です。
この碑文において、中央に描かれたエサルハドンは周囲を圧倒する巨大な「絶対君主の神格」として表現されています。

(アッシリア全史・中公新書より)
その足元には、犬のように紐で首を繋がれた二人の極めて小さな捕虜の姿が彫り込まれており、これらは当時の帝国の絶対王権を誇示するためのプロパガンダでした。
・跪く小さな捕虜の正体:一人は、エサルハドンによって徹底的に鎮圧されたフェニキアの裏切り都市シドンの王アブディ・ミルクティ(Abdi-milkutti)。
そしてもう一人は、クシュ人のファラオ・タハルカ(あるいはその息子)です。
・碑文の虚偽(政治的デフォルメ):戦勝碑においてはタハルカがその場で捕縛されたかのように描かれていますが、実際にはアッシリア軍はタハルカ本人を直接捕縛することはできず、彼はエジプト南部へと逃亡を続けていました。
しかし、エサルハドンはこのプロパガンダを通じて、地中海貿易の支配者とエジプトの神聖王(ファラオ)の双方を完璧に従属させたという
国家の絶対的勝利を世界にアピールしたのです。
その後、逃げ遅れていた反アッシリアの首謀者、ティルスのバアル1世もアッシリアの圧倒的な軍事威圧の前に降伏へと追い込まれました。
「身代わり王の儀式」とバビロン復興の政治背景
紀元前669年、エジプトで三度目の反乱が勃発すると、病を圧して親征に出陣したエサルハドンは、途上のハラン(Harran)の地でついに病死(崩御)を遂げます。
彼の実績は英雄そのものであった一方、その内政の裏側には、常に死の恐怖と猜疑心に怯える陰鬱な「光と影」が同居していました。
エサルハドンは生まれつき極めて病弱であり、日食や月食などの天体現象(不吉な予兆)を国家の防衛危機とみなす強烈な迷信深さを抱えていました。
そのため、彼はアッシリアの古いオカルトである「身代わり王の儀式(シャル・プーヒー / Shar pūhi)」を治世中に何度も強行しました。
これは、不吉な予兆が王の身に降りかかるのを防ぐため、一定期間だけ一般人や犯罪者を「身代わりの国王」として王座に据え置いて厄を身代わりに受けさせ、本当の王は影に隠れて潜伏し、予兆の期間が過ぎた後にその身代わり王を処刑して国家の安全を担保するという、極めて暗澹たる宗教安保でした。
さらに彼は猜疑心の強さから、治世末期に多くの有能な重臣たち(エジプト遠征の最大の立役者であった宦官アッシュル・ナツィルを含む)を
大規模に粛清するという苛烈な独裁政治へと傾斜していきました。
一方で、センナケリブが徹底破壊した聖都バビロンに対しては、壊滅的な破壊からの「バビロン復興・再興政策」を精力的に実行しました。
これは長年反乱を繰り返してきたバビロニアの宗教階級や有力市民の怨恨を鎮め、南方の治安を安定させるための極めて冷徹かつ高度な「融和策」の一環でした。
この復興政策が功を奏し、エサルハドンの治世における南部バビロニアは沈黙を維持し、帝国のエジプト二大文明統合という偉業を背後から支える基盤となったのです。
エサルハドンは極めて評価が分かれる王であると言えるでしょう。