周(西周、東周) 春秋戦国時代

周の桓王は精力的に動くも周の権威は失墜した

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宮下悠史

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名前周の桓王
姓・諱姫林
生年不明
在位紀元前719年ー紀元前697年
時代春秋時代
一族父:洩父 配偶者:季姜 子:荘王
年表紀元前707年 繻葛の戦い
コメント周王朝の再興を目指したが頓挫した。

周の桓王は東周王朝の二代目の君主です。

鄭との間で土地に関わる問題が起きたり、虢公林父を卿士にした事で対立するに至りました。

周の桓王は繻葛の戦いでは蔡、陳、衛と共に鄭を攻撃しますが大敗し、東周王朝の権威は失墜する事になります。

繻葛の戦いでは中軍を率いるなど、東周王朝の再興の為に精力的に動きはしましたが、思った様にはいかなかったと言えるでしょう。

東周王朝の脆弱さを世間に知らしめてしまったのが、周の桓王となります。

周の桓王が即位

紀元前720年に周の平王が亡くなると、孫の桓王が立つ事になります。

周の平王は周の幽王が殺害され西周王朝が崩壊した翌年を元年として計算すると、51年が経過しており、既に太子の洩父が亡くなっており、洩父の子の桓王が即位する事になったのでしょう。

周の平王は卿士の鄭の荘公に言い訳をし気を遣う記述もあり、周の桓王としては「周王としての威厳を取り戻したい」と強く思ったのかも知れません。

春秋左氏伝によると、周の桓王は即位すると虢公に卿士の座を与えようとし、鄭の大夫の祭足が周の温や成周の穀物を刈り取っており、東周と鄭の関係は険悪になったとあります。

ただし、個人的には周の桓王が即位した紀元前720年に、鄭は衛の州吁が率いる宋・陳・蔡の四カ国の軍に攻められており、兵粮が不足した鄭は仕方なく、東周の穀物を刈り取り調達した可能性もあると感じました。

周の桓王が鄭の荘公を冷遇

春秋左氏伝によると、紀元前717年に鄭の荘公東周王朝に行き朝見を行ったとあります。

周の桓王が即位してから、既に数年が経過していましたが、鄭の荘公は初の朝見を行いました。

しかし、周の桓王は鄭の荘公を礼遇せず、周公黒肩は「この様な扱いをしては鄭は朝見しなくなる」と諫めた話があります。

周の桓王は鄭が過去に東周の領内にある穀物を鄭が刈り取った事に対し、怒りが冷めたわけでは無かったのかも知れません。

鄭の荘公が東周王朝に朝見をしなかったのは、外交的に孤立しており連年に渡り衛や宋と戦っており、朝見するだけの余裕がなかった可能性もあるはずです。

しかし、周の桓王は王朝内で幅を利かせようとする鄭の荘公をよくは思っておらず、冷遇したのでしょう。

この10年後に周の桓王と鄭の荘公は、繻葛で一戦交える事になります。

凡伯が戎の捕虜となる

春秋左氏伝によると紀元前716年に、周の桓王の記述があります。

過去に戎が東周王朝に朝見を行い、礼物を公卿らに贈りますが、凡伯は返答をしなかったとあります。

戎は凡伯の態度が尊大とみたのか、気分を害したのでしょう。

紀元前716年に周の桓王が凡伯を使者として魯に派遣しますが、帰還途中で事件が起き戎は楚丘で凡伯を攻撃し連れ去ったとあります。

この後に凡伯がどうなったのかは不明ですが、人の恨みを買ってはいけないという事例にもなるはずです。

東周と鄭の微妙な関係

紀元前715年に周の桓王は虢公忌父を卿士に任命していますが、鄭の荘公の権勢を削ごうとする政策の一環でもあったのでしょう。

東周王朝の卿士は鄭の荘公と虢公忌父の二人体制に移行しました。

勿論、周の桓王のこうした政策は、鄭の荘公にとってみれば気分を害す行動だったはずです。

それでも、鄭の荘公の方でも宋を攻めたいと考えていた様であり、虢公忌父の卿士就任を認めないわけにもいかなかったのでしょう。

同年に鄭の荘公は斉の僖公を東周王朝に朝見させており、功績を挙げました。

紀元前714年には、鄭の荘公は宋の殤公が朝見を怠っているとし、王命を奉じて咎めたとあります。

鄭の荘公は周の桓王に対する宋の態度が悪い事を問題視し、斉、鄭、魯の連合軍は宋にまで攻め込んでいます。

鄭の荘公は周の桓王を最大限利用しようとしている事が分かるはずです。

周の桓王は鄭の荘公を警戒していたはずであり、微妙な空気が流れつつも協力していたと言うのが現状なのでしょう。

東周と鄭の関係に亀裂が入る

春秋左氏伝によると紀元前712年に、周の桓王は鄔、劉、蔿、邘の地を鄭から取り上げ、蘇忿生の領地だった温・原・絺・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・隤・懐を鄭に与えたと言います。

領地の数だけを見ると、鄭の方が得をしかたに思うかも知れませんが、春秋左氏伝には、次の記述が存在します。

※春秋左氏伝より

君子はこの事で、鄭が周の桓王から離れていく事を察知した。

相手の気持ちを考えて行う事が出来ておらず、礼や徳から外れている。

自分が保有する事が出来ないからと言って、相手に与えるのであれば、人が寄って来なくなるのは当然の事である。

春秋左氏伝の君子は周の桓王を批判しました。

それと同時に周の桓王が鄭に与えた土地は、東周王朝がどうにか出来る様な土地でもなく、結果として鄭から恨みを買う結果になると考えたのでしょう。

翌年の紀元前711年に鄭は周公旦を祀りたいと述べて、魯と土地の交換を行っていますが、鄭は周からの祭祀用の土地を交換してしまっており、周の桓王に対する嫌がらせだとみる事が出来ます。

周の桓王と鄭の荘公の関係は悪化しました。

魯への使者

紀元前708年に、次の記述があります。

※春秋より

夏、天王(周の桓王)、宰の渠伯糾が来聘した。

周の桓王が宰相の渠伯糾を魯に派遣した事が分かる記述でもあります。

周の桓王が渠伯糾を派遣した理由は書かれていませんが、翌年に東周と鄭の間で繻葛の戦いが勃発していますが、魯の桓公に「鄭に味方しない様に」と釘を刺す為だったのではないでしょうか。

当時の鄭と魯の関係は良好であり、周の桓王は「魯が出てくれば厄介」と考えて、使者を派遣したのかも知れません。

尚、春秋左氏伝には同年に東周王朝の軍と軍が魏を攻撃し、芮から出奔中だった芮伯を連れ去った話があります。

紀元前707年にも周の桓王は魯に伋叔の子を派遣した話があります。

春秋左氏伝を見ると伋叔の子と記載されたのは、幼かったからだと記録されています。

運命の繻葛の戦い

紀元前707年に周の桓王は鄭の荘公の卿士の位を剥奪しました。

これにより東周王朝と鄭の関係は完全に破綻したと言えます。

さらに、周の桓王は蔡、衛、陳と共に鄭に攻撃を仕掛けたわけです。

東周王朝と鄭の間で、繻葛の戦いが勃発しました。

繻葛の戦いでは周の桓王自ら中軍の将となり戦場に出向き、卿士の虢公林父が蔡、衛の軍を率いて、重臣の周公黒肩が陳軍を率いました。

戦いが始まりますが、やる気があったのが周の桓王だけだったのか、蔡、衛、陳の軍は呆気なく敗れる事になります。

周の桓王自身も負傷するなど、繻葛の戦いは大敗北に終わったと言えるでしょう。

周の桓王は初陣であり戦争経験もなかったのに対し、鄭は連年の様に戦争をしており、太子忽、公子突、祭足などの人材が揃っていました。

周の桓王に味方した蔡、衛、陳も士気が低く、戦いに敗れてしまったのでしょう。

それでも、周の桓王は祝聃の矢を受け負傷しながらも、態勢を立て直すなどの意地も見せました。

鄭の荘公の方でも周の桓王に対し、祭仲を派遣するなど気を遣った話があります。

尚、周王が自ら中軍の将となり戦場に赴いたのは、歴代の東周王朝の君主の中でも、周の桓王だけであり、東周王朝としても自らの実力を思い知る結果になったのでしょう。

周の桓王と季姜の婚姻

春秋左氏伝によると、紀元前703年に紀国の公女である季姜が周の桓王に嫁いだとあります。

尚、春秋左氏伝には凡例として諸侯の公女の嫁入りに関しては、周王の后になった場合のみ記録するとあります。

当時の紀は斉により危機的な状況となっており、公女を周の桓王に嫁がせる事で、事態の打開を図ったのでしょう。

虢を攻撃

春秋左氏伝によると、紀元前702年に虢仲が大夫の詹父を周の桓王に讒言したとあります。

しかし、周の桓王は虢仲の言葉を信じず、詹父を立てました。

周の桓王は東周王朝の軍を出し、虢を攻撃し虢仲はに逃亡したとあります。

虢仲は東周の卿士だったと考えられますが、周の桓王との対立により、卿士の位は剥奪されてしまったはずです。

周の桓王が後任の卿士に誰を指名したのかは分かっていません。

周の桓王の最後

春秋の魯の桓公の15年(紀元前697年)に、周の桓王が家父を魯に派遣した話があります。

春秋左氏伝に詳細が書かれており、周の桓王は家父を魯に派遣したのは車の共出を命じたからだとあります。

周の桓王の行為を春秋左氏伝は礼に合致していないと批判しており、車、服は諸侯が貢納するものではなく、天子は非公式に物品を要求するものではないと記録しました。

同年に周の桓王が亡くなった記録があり、魯への行為は耄碌した周の桓王の姿に見えなくもありません。

春秋では「三月乙末、天王、崩ず」とあるだけで、詳しい描写はありません。

春秋左氏伝の魯の荘公の3年(紀元前691年)に、周の桓王を葬ったとあり、周の桓王が亡くなってから葬るまでに数年の歳月が流れた理由は不明です。

春秋左氏伝にも「遅すぎる」とは記録されていますが、なぜ遅くなってしまったのかは書かれていません。

先代:平王桓王次代:荘王

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