
陳の荘公は春秋時代の陳の君主です。
陳の荘公は史記では即位した事と亡くなったこと位の記述しかありませんが、春秋左氏伝には宋に味方し鄭を攻撃した話などが記載されています。
陳の荘公に子がいたのかは不明ですが、亡くなると弟の陳の宣公が即位しました。
史記の記述
史記の陳杞世家によると、兄の陳の利公が亡くなると次の記述があります。
※史記 陳杞世家より
中弟の林が立った。
これが荘公である。
荘公はその7年に亡くなり、末弟の杵臼が立った。
これが宣公である。
史記の陳の荘公の記述は簡略であり、実績が何も書かれておらず、陳の荘公が亡くなると、陳の宣公が即位した事位しか記述がないわけです。
しかし、叔父の陳公他の排斥に兄や弟と共に協力して行った事が分かっています。
春秋左氏伝の記述
春秋に魯の桓公の14年(紀元前698年)に、宋が諸侯と共に鄭を討った話があります。
この時は、宋の荘公が中心となりますが、春秋に斉、蔡、衛、陳も宋に協力した事が書かれています。
春秋の記録を見る限りでは、陳の荘公も宋に味方し兵を出した事になるのでしょう。
鄭では祭仲と主君の鄭の厲公の仲が上手く行かず、鄭の厲公は出奔しました。
諸侯は袲で鄭の厲公を鄭に入れる為の相談をしています。
袲の会では魯の桓公・宋の荘公・衛の恵公・陳の荘公が集まり、鄭の厲公を鄭に入れる事に決まりました。
陳の荘公は前年に宋と共に戦っており、宋は鄭の厲公を鄭の君主にしたいと考えており、宋の荘公の事を考えて、陳の荘公は宋に味方したのでしょう。
春秋には諸侯が鄭を討ったとありますが、鄭の昭公や祭中が良く守り、事は成就しませんでした。
翌年にも魯の桓公・宋の荘公・蔡の桓侯・衛の恵公は宋で会合を行っており、鄭を攻撃した記録があります。
陳の荘公の最後
春秋の魯の荘公の元年(紀元前693年)に次の記述があります。
※春秋より
冬十月乙、陳侯林、卒す。
上記の記述から紀元前693年に、陳の荘公が亡くなった事が分かります。
陳の荘公が亡くなると、弟の陳の宣公が即位しました。
陳の荘公の最後ですが、史記には描写が無く、春秋左氏伝では亡くなった事だけが記録されており、最後の描写は伝わっていません。
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