
| 名前 | ヒシャーム |
| 本名 | ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク |
| 生没年 | 691年ー743年 |
| 在位 | 724年ー743年 |
| 国 | ウマイヤ朝 |
| 一族 | 父:アブドゥルマリク |
| 兄弟:ワリード1世、スレイマン、ヤズィード2世など | |
| コメント | ウマイヤ朝の最後の長命政権 |
ヒシャームはウマイヤ朝の第10代カリフとなった人物です。
正式な本名はヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクです。
ヒシャームは第5代カリフのアブドゥルマリクの子となります。
先代のスレイマン、ウマル2世、ヤズィード2世と短命政権が続きますが、ヒシャームの治世は19年もあります。
ヒシャームの時代にフランク王国との間で、トゥール・ポワティエ間の戦いが勃発しますが、敗退しました。
西ゴートのサラが助けを求めると、ヒシャームは快諾しており、これが後ウマイヤ朝の誕生と繋がる事になります。
ヒシャームの孫が後ウマイヤ朝の初代であるアブド・アッラフマーン1世です。
トゥール・ポワティエ間の戦い
ヒシャームの治世には、イベリア半島のウマイヤ朝軍が西ヨーロッパへ進出し、フランク王国と衝突しました。
カール・マルテル率いるフランク軍との間で、西暦732年にトゥール・ポワティエ間の戦いが起こり、この戦いが西欧史において重要な転換点とみなされることがあります。
もしフランク王国が敗れていれば、西欧の宗教的・政治的発展が大きく変わっていた可能性があるという見解もあります。
一方で、ウマイヤ朝内部の史料では、この遠征はイベリア半島総督が独断で行ったものであり、中央政府にとって必ずしも戦略的に重要な作戦ではなかったとする見方もあります。
トゥール・ポワティエ間の戦いはヒシャームが自ら計画したのかは不明です。
西ゴート王国のサラ
ヒシャームの治世には、もう一つ注目される出来事があります。
西ゴート王家の血を引くとされる女性サラが、叔父に相続地を奪われたとして訴え出た件です。
サラはセビージャ周辺の広い土地を相続するはずでしたが、コルドバに住む叔父が領地を占有したと伝えられています。
通常であれば、こうした土地問題は現地の官吏が処理するもので、カリフが直接介入する事案ではありません。
しかし、サラは地元で「ゴート王家の王女」として敬意を持って扱われており、ヒシャームが彼女の訴えを軽視すれば、セビージャ周辺の有力者層に不満が広がる可能性がありました。
ウマイヤ朝はイベリア半島の行政中心をセビージャからコルドバへ移しており、多くの支配階級がコルドバに移住しましたが、
先祖代々の土地に残った地主層の中には、中央政府への不信感を抱く者もいたとされています。
彼らはコルドバに移った同族を「中央に迎合した」と見なすこともあったようです。
こうした状況を踏まえ、ヒシャームはサラの訴えを重視し、奪われた領地を返還することを約束したと伝えられています。
地域の政治的空気を的確に読み、反乱の火種を抑えようとした判断であったと考えられています。
尚、後にアッバース革命によりウマイヤ朝は滅亡しますが、ヒシャームの孫のアブド・アッラフマーン1世が後ウマイヤ朝をイベリア半島で建国する事になります。
アブド・アッラフマーン1世の後ウマイヤ朝の建国を助けたのが、ゴートのサラであり、ヒシャームがサラを助けた事が、後ウマイヤ朝に繋がったとも言えるでしょう。
サラがヒシャームに助けを求めダマスクスにやって来た時に、サラとアブド・アッラフマーン1世は知り合ったのではないかと考えられています。
尚、ヒシャームの死後は超短命政権が続き、没後数年でウマイヤ朝は滅亡し、アッバース朝が興隆しました。
| 先代:ヤズィード2世 | ヒシャーム | 次代:ワリード2世 |