
| 名前 | ウマル2世 |
| 生没年 | 682年ー720年 |
| 在位 | 717年ー720年 |
| 国 | ウマイヤ朝 |
| 一族 | 父:アブド・アルアズィーズ |
| コメント | アラブ人の優遇政策を止めようとした人物 |
ウマル2世はウマイヤ朝の第8代のカリフです。
ウマイヤ朝では代々に渡りアラブ人を優遇してきましたが、ウマル2世は他民族にも恩恵が行くように改革を志したとされています。
しかし、ウマル2世の在位期間は3年ほどしかなく、志半ばで倒れる事になります。
アラブ人の優遇政策を改めようとした事で考えれば、ウマル2世はウマイヤ朝の中でも異端の君主になるのでしょう。
尚、ウマル2世の時代の出来事としては、イベリア半島で西ゴート王国が滅びた事が上げられます。
ウマル2世の戦線縮小
ウマイヤ朝の前カリフのスレイマンは、ビザンツ帝国の遠征の最中に亡くなっています。
後を継いでカリフとなったウマル2世は、戦線縮小を決断し、ビザンツ遠征軍に全面撤退を命じました。
ウマイヤ朝軍は撤退を開始しましたが、ギリシア水軍の追撃や嵐に遭い、多くの損害を受けたと伝えられています。
イベリア半島の情勢も安定せず、ウマル2世はイベリア半島からの撤退を検討していたという説もあります。
この時にはアブデルアジーズは世を去っていましたが、結局はウマイヤ朝のイベリア半島統治は継続される事になります。
尚、この時にウマル2世がイベリア半島を放棄していたら、後ウマイヤ朝は誕生しなかったのかも知れません。
ウマル2世の改革とウマイヤ朝の変質
ウマル2世は敬虔なイスラム教徒として知られ、征服や享楽よりも学問や宗教的理想を重視したとされています。
また、ウマル2世は、いわゆる「聖戦(ジハード)」が、必ずしも宗教的理念だけに基づくものではないと考えていたとされています。
彼は、理念と現実の乖離を理解していた人物であったという評価もあります。
ウマル2世はカリフに即位すると、積極的な征服政策を抑え、平和的な方針へ転換しました。
ウマイヤ朝では代々に渡りアラブ人優遇政策が取られていましたが、イスラム教の教えとも矛盾があり、ウマル2世はアラブ人の優遇政策を止め、他の民族にも恩恵が行くように改革しようとしたとされています。
しかし、在位はわずか3年で、病により死去したため、彼の政策が十分に実行される前に政権は再び転換することになりました。
ウマル2世の治世は短期間でしたが、その思想や政策は後世に一定の影響を与えたとされています。
ただし、ウマイヤ朝はウマル2世が亡くなると再びアラブ人優遇政策を行いました。
ウマイヤ朝は後にアッバース朝に取って代わられますが、アッバース朝の時代になってもウマル2世の墓だけは暴かれなかったと伝えられています。
西ゴート王国はウマル2世の時代に滅亡し、ウマイヤ朝の侵攻開始から約7年で崩壊したことが注目されることが多いです。
しかし、西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝側も、内部で常に統一されていたわけではなく、ターリクがジブラルタル海峡を渡って以降、指揮系統や権力関係に混乱が生じていたとされています。
| 先代:スレイマン | ウマル2世 | 次代:ヤズィード2世 |