
| 名前 | ウマイヤ朝 |
| 建国と滅亡 | 661年ー750年 |
| コメント | イスラム初の世襲王朝でもある |
ウマイヤ朝はイスラムで初の世襲王朝です。
初代のムアーウィアから始まり、90年程続きました。
ウマイヤ朝の時代は既にムハンマドはこの世におらず、イスラム教も様々な解釈がされる様になり、スンニ派やシーア派に代表される様に多数の宗派が誕生した時代でもあります。
ウマイヤ朝は西ゴート王国を滅ぼすなどイベリア半島にまで勢力を伸ばしますが、アラブ人優遇政策への不満や税金の問題もあり、国は傾く事になります。
東方にアブー・ムスリムが現れウマイヤ朝に反旗を翻す事になります。
アブー・ムスリムに擁立されたサッファーフがアッバース朝を開き、ウマイヤ朝を滅ぼしました。
ウマイヤ朝からアッバース朝への王朝交代をアッバース革命と呼んだりもしています。
ウマイヤ朝は滅びますが、一族のアブド・アッラフマーン1世が後ウマイヤ朝を建国しました。
尚、ウマイヤ朝の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。
ウマイヤ朝の始まり
ウマイヤ朝に入る前段階として、それ以前のイスラム世界について簡単に解説します。
アラビア半島に預言者ムハンマドが現れ、神のお告げによりイスラム教が始まりました。
ムハンマドは将軍として軍隊を指揮するなど武勇にも優れ、さまざまな困難を乗り越えながらイスラム教を普及させていきました。
その結果、ムハンマドが亡くなる頃にはアラビア半島に一大勢力が形成されていました。
ムハンマドが亡くなると「正統カリフ」の時代に入ります。
この時代は血筋で後継者が決まる王朝制ではなく、共同体の合意によってカリフが選ばれていました。
正統カリフ時代には、東のササン朝ペルシアや西のビザンツ帝国を破るなど、イスラム帝国の領土が大きく拡大しました。
しかし内部では後継者争いが起こり、アリーとムアーウィアが対立します。
最終的に勝利したムアーウィアは後継者を自分の家系から選ぶ「世襲制」を導入し、ダマスクスを首都とするウマイヤ朝を開きました。
これにより正統カリフの時代は完全に終了し、イスラムの世界は新たなるステージに移行する事になります。
ムアーウィアがウマイヤ家の出身であったため、この王朝はウマイヤ朝と呼ばれます。
ただしウマイヤ家に対する反発は強く、各地で反乱が相次ぎました。
これを鎮圧するため軍を派遣した結果、第2代カリフ・ヤジードの時代にはカーバ神殿が焼けてしまうという大事件が発生します。
ヤジードはこの事件のわずか11日後に急死し、人々はこれを「カーバの呪い」と噂しました。
さらに第3代カリフ・ムアーウィア2世は在位2カ月で急死し、第4代カリフ・マルワーン1世も在位1年9カ月で亡くなっています。
短期間にカリフが3代続けて急死したことで、「カーバを焼いたことに対するアッラーの怒りではないか」という噂が広まりました。
ウマイヤ朝が混乱する中、イラクやエジプトなどの総督が次々に離反し、最終的にウマイヤ朝の支配地域はシリア周辺だけとなり、王朝は存亡の危機に陥りました。
アブド・アルマリクと「第二次内戦」
ウマイヤ朝は初代ムアーウィアが亡くなってから、わずか5年もしないうちに深刻な危機に陥りました。
しかし、ここで第5代カリフとなるアブド・アルマリクが登場します。
彼は先代マルワーン1世の子であり、この人物がいなければウマイヤ朝は短命王朝として終わっていたと考えられています。
アブド・アルマリクは、混乱するウマイヤ朝の状況を見て、「この危機を打開するには、メッカを手に入れるしかない」と判断しました。
また、これまでのウマイヤ朝が行ってきた“敵を徹底的に叩き潰す”という強硬策が、かえって各地の総督の反発と離反を招いたと分析していました。
そこでアブド・アルマリクはメッカ遠征を決断しますが、力攻めではなく包囲による兵糧攻めを選びます。
城を囲み、打って出てきた敵だけを確実に撃破するという戦法です。
この作戦を実行するため、彼はハッジャージという人物をメッカへ派遣しました。
ウマイヤ朝軍がメッカを包囲すると、半年で城内は飢餓状態に陥りました。
追い詰められたアブドゥッラーは、100歳になる母アスマーに相談したと伝えられています。
アスマーは「時には命よりも重要なものがある」と諭し、アブドゥッラーは最期の決戦を決意しました。
アブドゥッラーは玉砕覚悟でウマイヤ朝軍に突撃しますが、ウマイヤ軍はこれを迎撃し、戦いはウマイヤ朝の勝利に終わりました。
アブドゥッラーも投石機から放たれた石が顔面に直撃し、戦死しました。
この勝利によって、ウマイヤ朝は滅亡の危機を辛うじて回避したと言えます。
なお、このアブドゥッラーとの戦いは「第二次内戦」と呼ばれています。
第一次内戦は、4代目カリフにアリーが就任した際に起こった内乱を指します。
アブドゥッラーとの戦いで大きな功績を挙げたハッジャージは、その後イラク総督に任命されました。
ウマイヤ朝のアラブ人至上主義
内戦は収まったものの、ウマイヤ朝には新たな問題が生じました。
ウマイヤ家の人々がカリフに就任すると、高官の地位を独占し、特権を享受するようになったため、一族が権力を握り続けようとする傾向が強まったのです。
率直に言えば、支配階級が私腹を肥やすために形成された王朝という側面もありました。
アブド・アルマリクは強い「アラブ人優位」の思想を持っており、この状況を理解しつつも、特権を手放すつもりはありませんでした。
彼をはじめとするウマイヤ朝の上層部は、「支配階級であるアラブ人は特権階級であり、被支配民族からの徴税や労働負担は当然である」と考えていたとされています。
アラブ人が支配していた地域には、ペルシア人、シリア人、エジプト人などが含まれていました。
これらの民族は過去に大帝国を築いた歴史を持ち、誇りも強かったため、アラブ人による優位性の主張には強い反発があったと考えられます。
一方、クルアーンには「信者は神の前において皆平等である」という趣旨の教えがあり、イスラム教徒である限り、アラブ人・ペルシア人・シリア人・エジプト人は平等に扱われるべきとされています。
つまり、アラブ人至上主義はクルアーンの理念と矛盾していました。
イスラム教に聖職者(神父)の制度が存在しないのも、信者の平等性を重視するためだと説明されることがあります。
クルアーンの教えに従えば、異教徒からの徴税は認められても、同じイスラム教徒(ムスリム)であれば平等に扱わなければならないのです。
そのため、アラブ人に支配されていた非アラブ系の改宗者たちは、「我々はイスラムに改宗したのに、異教徒と同じ扱いを受けるのは神の教えに反している」と不満を募らせていきました。
アラブ人と非アラブ人の対立
ウマイヤ朝の時代になると、ムハンマドに関する伝承が整理され、「預言者の戦い」と題する伝承集がいくつも作られました。
ウマイヤ朝の支配者たちも、アラブ戦士たちとの関係を維持するため、ムハンマドの言行を熱心に学んだとされています。
また、イスラム教に改宗した非アラブ人は「マワーリー」と呼ばれました。
これはアラブ人と非アラブ人のムスリムを区別する呼称であり、結果として差別意識を強める要因にもなったと考えられています。
次第に、アラブ人によって支配されていた諸民族の間で、アラブ人支配への反発が強まっていきました。
ウマイヤ朝の支配下に入ったエジプト、シリア、ペルシアなどの地域は、古代から高度な都市文明・行政制度・学術文化を発展させてきた地域であり、独自の歴史的誇りを持っていました。
一方、アラブ人はもともと遊牧生活を基盤としており、定住都市文化とは異なる社会構造を持っていました。
アラブ人がウマイヤ朝の支配者層となったことで、「自分たちとは異なる文化背景を持つ人々が突然支配者になった」という感覚が、被支配側の不満につながったと考えられます。
また、生活様式の違いから生じる文化的摩擦もありました。
たとえば、遊牧民が用いるラクダは砂漠の生活に不可欠な存在でしたが、その独特の匂いや生活習慣の違いが、都市文明を持つ人々にとっては異質に映った可能性があります。
こうした文化的距離感が、アラブ人支配への反発を強める一因になったと考えられます。
複数の民族・文化を一つの帝国としてまとめることの難しさが、ここに表れています。
まとめると、ウマイヤ朝は次のような状況に置かれていたと言えます。
- 理念としては「信者は皆平等」というイスラム教の原則が存在する
- しかし政治の実態としては、アラブ人が特権階級となり、非アラブ系の改宗者や被支配民族からの徴税・労働負担が続いていた
- 現実には、アラブ人よりも支配された諸民族(エジプト・シリア・ペルシアなど)の方が、古代から高度な都市文明・行政制度・学術文化を持っていた
このように、「宗教理念と政治運営の間に大きな隔たりが生じていた」ことが、ウマイヤ朝の内部矛盾を深める要因となりました。
理念と現実の乖離は、ウマイヤ朝に特有の問題ではなく、現代を含む多くの国家や社会でも繰り返し見られる課題です。
そのため、こうした歴史的事例を「過去の特殊な出来事」として片付けず、現在の社会を理解する上でも重要な示唆を与えるものとして捉える必要があると考えられます。
アブド・アルマリクの文化事業
このような状況下でもアブド・アルマリクはアラブ人至上主義を改めるつもりはありませんでしたが、このままでは帝国が再び崩壊しかねないことも理解していました。
そこで彼は、「アラブ人の文明レベルをエジプト、ローマ、シリアなどの諸文明に劣らない水準へ引き上げる必要がある」と考えるようになります。
こうして、ウマイヤ朝では文化事業が活発化し、アブド・アルマリクの治世は中央集権化の始まりとも位置づけられています。
まず彼は、公用語をアラビア語に定めました。
これにより、行政文書は従来のギリシア語やペルシア語ではなく、アラビア語で統一されることになります。
これは行政の効率化だけでなく、アラブ人支配の正統性を強化する効果もありました。
さらにアブド・アルマリクは独自通貨の発行にも踏み切ります。
ディナール金貨はビザンツ帝国の金貨を、ディルハム銀貨はササン朝ペルシアの銀貨を模倣したと考えられていますが、いずれもイスラム的特徴を備えていました。
特に重要なのは、通貨に人間の肖像を刻まず、信仰告白文を刻んだことです。
これは偶像崇拝を禁じるイスラム教らしさを感じさせます。
軍事組織の整備
アラブ人は各地を征服していきましたが、征服後のアラブ・ムスリムは、イスラム教団が征服地に設置した軍営都市(ミスル)に駐屯することが多かったとされています。
アラブ戦士たちはミスル総督が管理する帳簿に登録され、そこには軍功に応じた年金(アター)の支給額も記録されていました。
総督が未征服地への遠征を呼びかけると、ミスルの戦士たちは参加するかどうかを各自で判断し、遠征に加わります。
遠征が成功し、新たに被征服者となった人々から税が徴収されると、その税収は遠征に参加した戦士たちの間で分配されました。
歴戦の戦士には多額の年金が支給される仕組みで、若者たちは年金獲得を目指して遠征に参加するという構造が形成されていました。
正統カリフ時代、カリフはアラブ征服集団全体の長として強大な権威を持っていましたが、カリフ個人には親衛隊や護衛兵といった常備の私兵は存在しませんでした。
そのため、第3代カリフ・ウスマーンの時代には、征服者集団内部の若者が決起した際、カリフはそれに対抗する軍事力を持たず、最終的にウスマーンは暗殺されてしまいました。
彼はウマイヤ家の人物でしたが、内部の不満を抑えきれなかったのです。
しかし時代が進むと、征服者集団内部の内戦を経て、有力者たちは身辺に置いていた戦争捕虜やその子孫である解放奴隷を私兵として組織するようになります。
こうして、アラブ戦士以外の人々が各有力者の護衛勢力として台頭していきました。
ウマイヤ朝の時代になると、カリフが身辺に護衛兵を置くことが一般化し、同時に行政運営のための官僚組織も整備されていきます。
これは、征服者集団の自律的な軍事組織から、より中央集権的な国家体制へと移行していく過程でもありました。
それでも、ウマイヤ朝の軍事力の中心は、各地のミスル(軍営都市)に住むアラブ戦士たちであったと考えられています。
行政制度の整備と中央集権化
ウマイヤ朝を維持するためには、強力な軍事力と、それを支える整った行政制度が不可欠でした。
アラブ戦士たちは帝国の軍事力を支えていましたが、問題は行政の側にありました。
正統カリフ時代や初代ムアーウィアの時代には、国家の主な役割は「被征服者の社会から税を徴収し、それをミスルに駐屯するアラブ戦士へ分配すること」でした。
つまり、行政の中心は 税の徴収と年金(アター)の分配 であり、制度そのものは征服地の旧体制をそのまま利用していました。
たとえば、「かつてローマ帝国だった地域ではギリシア語の帳簿に基づいて税が徴収される」
「ペルシア語圏ではペルシア語の帳簿が使われる」というように、イスラム帝国以前の行政制度がそのまま引き継がれていたのです。
しかしウマイヤ朝の時代になると、シリア・エジプト・イラクといった帝国の中心地域は征服からすでに数十年が経過していました。
その結果、人口の変動や経済発展の差によって、旧来の帳簿制度は現実と合わなくなっていきます。
この状況を改善するため、ウマイヤ朝政府は役人を派遣し、人口・農業生産力・土地の状況などを実地調査し、その結果に基づいて課税・徴税を行うようになりました。
先に述べたように、アブド・アルマリクが公用語をアラビア語に統一したのも、こうした行政改革の一環でした。
帳簿を征服地の言語(ギリシア語・ペルシア語)からアラビア語へ切り替えることで、帝国全体の行政を統一し、中央集権化を進めたのです。
この改革によって、中東世界における「アラビア語の時代」が本格的に始まったとされています。
アブド・アルマリクの政策によって、イラク地方もそれまで保持してきた独立的な地位を失うことになりました。
それまでイラクの主要都市といえばクーファとバスラの二つでしたが、新たに建設されたワースィトの都市が、ダマスクスから直接統治するための拠点として機能するようになります。
ウマイヤ朝の時代に始まった中央集権化の流れは、後のアッバース朝にも継承されました。
ウマイヤ朝は広大な領域を支配する帝国であったため、地方に大きな権限を与えたままでは統治が不安定になり、中央集権化を避けて通ることはできなかったのです。
また、地方が強い自治権を持つと、状況次第で容易に独立へと向かう危険性もありました。
そのため、アブド・アルマリクは改革を通じて、帝国全体を中央から管理できる体制を整えていったと考えられています。
岩のドーム
アブド・アルマリクの文化事業の中でも特に重要なのが、「岩のドーム」の建設です。
イスラム伝承によれば、ムハンマドはある夜、天馬ブラークに乗ってメッカからエルサレムへ赴き、そこから天界へ昇ったと語ったとされています。
この出来事は「夜の旅と昇天(イスラーとミウラージュ)」として知られ、ムハンマドは天国や地獄を見て、イエスやモーセなど過去の預言者と語り合い、アッラーの御前に至ったと伝えられています。
現代の感覚では「象徴的な夢の話」と受け取る人もいるかもしれませんが、
当時のイスラム共同体ではこれを重要な宗教的事実として受け止める人が多かったとされています。
特に初代カリフのアブー・バクルは、この話をすぐに信じたと伝えられています。
そのため、ムハンマドが昇天したとされる「岩」は、早い段階から神聖視されるようになりました。
ブラークについては、翼を持つ馬の姿で描かれ、馬の胴体に人間の顔、孔雀の尾を持つと伝えられています。
ムハンマドはこのブラークに乗り、メッカからエルサレムまでの1200km以上の長距離を移動したと語りました。
こうした背景があったため、第2代正統カリフ・ウマルがエルサレムを征服した際、ムハンマドが昇天したとされる「岩」を探すことが優先されました。
当時のエルサレムには岩が多く、特定は容易ではありませんでしたが、最終的に「これがミウラージュの岩である」と判断された岩が選ばれ、それが後に「奇跡の岩」と呼ばれるようになります。
アブド・アルマリクは、この神聖視された岩に着目し、その上に壮麗な建造物を建てることを決断しました。
こうして建設されたのが、現在もエルサレムに残る「岩のドーム」です。
この建物はイスラム建築史上きわめて重要な存在であり、宗教的象徴性と政治的意図の両面を兼ね備えた事業でした。
ウマイヤ朝とシズヤ・ハラージュ
ウマイヤ朝のアブド・アルマリクは文化事業を積極的に推進し、支配階級としての威信を保とうとしました。
しかし、ムハンマドは「ムスリムの富を浪費すべきではない」「富があるなら貧しい者に分配せよ」と説いており、豪華な建築物の建設を戒めていたと伝えられています。
イスラム教を国教としながら、ウマイヤ朝の政策は次第にムハンマドの教えから離れていく面が見られました。
宗教と政治が密接に結びつく社会では、こうした矛盾が生じやすいことが分かります。
アブド・アルマリクは文化事業に多額の支出を行っていましたが、一方で税収は年々減少していました。
当時と現代では貨幣価値の感覚が大きく異なる点は理解しておく必要がありますが、税収減少の背景には宗教的な要因が大きかったとされています。
イスラム社会では基本的に「信者(ムスリム)」と「非信者(異教徒)」の二つの区分があり、アラブ人以外の異民族はムスリムとズィンミー(保護民)に分けられました。
ムハンマドの死後、正統カリフ時代には「アッラーの御前においてムスリムは平等」という理念が貫かれており、
アラブ人であっても異民族であっても、イスラム教徒であればシズヤ(人頭税)やハラージュ(土地税)の支払い義務はありませんでした。
旧ビザンツ帝国領に課されていた税が「シズヤ」、旧ササン朝領に課されていた税が「ハラージュ」と呼ばれ、後の時代にはそれぞれ人頭税・土地税の意味を持つようになります。
しかし、これらの税はあくまで異教徒に課されるものであり、ムスリムは免除されていました。
そのため、ウマイヤ朝の国家財政は異教徒の税収に大きく依存する構造となっていました。
ところが、時代が進むにつれ状況は変化していきます。
イスラム帝国が成立した初期の頃、征服地の住民の多くは「税金を払ってでもイスラム教徒にはなりたくない」と考えていました。
イスラム帝国の税率はササン朝やビザンツ帝国よりも低かったため、税を支払いながら従来の宗教を維持するという選択が一般的だったのです。
異教徒の改宗と財政難
しかし、イスラム帝国の支配が半世紀ほど続くと状況は変化します。
征服当時を知る世代はすでに亡くなり、イスラム教は社会に広く浸透していました。
そのため、住民の間では次第に「イスラム教に改宗すれば税が免除される」という点が大きな魅力として受け止められるようになります。
現代の日本であっても、宗教を変えるだけで税が免除される制度があれば、多くの人が改宗を選ぶだろうと想像できます。
こうした背景から、ウマイヤ朝の領内でイスラム教への改宗者が急増し、異教徒(ズィンミー)の人口は急速に減少していきました。
当然ながら、異教徒からの税収に依存していたウマイヤ朝の財政は大きく圧迫されることになります。
税制に関する話として、中国には次のような寓話が伝わっています。
ある女性が泣いていたため理由を尋ねると、「父、夫、子どもがすべて虎に食べられ、私だけが残った」と答えました。
「それなら街へ移ればよいのでは」と問うと、女性は「街には重税があるから行けない」と返したといいます。
この逸話が示すのは、「苛政(過酷な税制)は虎よりも恐ろしい」という教訓です。
ムスリムにもザカートという宗教税があるため、改宗しても完全に無税になるわけではありません。
しかし、ズィンミーに課されるシズヤやハラージュと比べれば負担は大幅に軽くなります。
イスラム教が社会に浸透していた状況では、高い税を払い続けるよりも改宗した方が得策だと考える人が増えていったのは自然な流れでした。
宗教的観点から見れば、イスラム教徒が増えることは共同体にとって喜ばしいことでしたが、国家財政の観点では異教徒人口の減少は深刻な問題でした。
ズィンミーからの税収に依存していたため、改宗者の急増は国庫を圧迫し、財政は危機的状況に陥ります。
アブド・アルマリクの改革とイランの反発
ウマイヤ朝の財政難を立て直すため、アブド・アルマリクは改革に踏み切ります。
税逃れのために急増していたマワーリー(非アラブ系の改宗者)にも、ズィンミーと同様の税を課す方針を打ち出したのです。
しかしこれは、「アッラーの御前において信者は平等」というイスラムの基本理念から大きく逸脱するものでした。
ここで注目すべきなのは、「同じ政策に対してイラン人とエジプト人で全く異なる反応が起きた」という点です。
エジプトでは、多くの住民が「今さら抵抗しても状況は変わらない」と受け止め、税の支払いに応じたとされています。
エジプトはローマ帝国の支配下に700年以上置かれていた歴史があり、長期にわたる異民族支配に慣れていたため、外部権力の課税に対して比較的受容的だったと考えられます。
一方、イランでは強い反発が起きました。
イラン(ペルシア)はササン朝が滅亡するまで独自の帝国を維持しており、アレクサンドロス大王の時代を除けば、異民族支配をほとんど経験していませんでした。
そのため、「改宗したのに依然として税を課されるのは不当である」という強い不満が噴出したのです。
この反応の違いは、民族的性質ではなく、それぞれの地域が持つ歴史的経験の差によって生じたものと理解できます。
イスラム帝国の内部でイラン人が強い不満を抱いたことは、後にシーア派とスンナ派の対立へとつながる重要な要因の一つとなりました。
シーア派の形成
イスラム帝国は、初代ムハンマドの卓越したカリスマ性によって統合されていた側面が強くあります。
組織がカリスマ的指導者に依存している場合、その人物が亡くなると内部の求心力が弱まり、混乱が生じやすいという現象は歴史上しばしば見られます。
三国志で孫策が没した後の動揺や、秦で始皇帝が崩御した後に大混乱が起きたことなどが典型例です。
ただし、カリスマを直接知る世代が残っている間は、組織が急速に崩壊しないことも多いとされます。
ウマイヤ朝の創始者ムアーウィアも、ムハンマドと直接接した経験を持つ人物でした。
しかし、時代が進むにつれ、ムハンマドを知らない世代が増えていきます。
ウマイヤ朝第2代カリフのヤジードは、ムハンマドの死後に生まれた世代でした。
そのヤジードは、ムハンマドが生前に深く愛したとされるフサイン(アリーの子)をカルバラーの戦いで殺害してしまいます。
ムアーウィアのようにムハンマドを直接知る人物であれば避けたであろう行動が、ムハンマドを知らない世代によって実行されてしまったと考えられます。
その後もアブドゥッラーの乱、ムフタールの乱など、ウマイヤ朝に対する反乱が相次ぎました。
シーア派とスンナ派と聞くと、イスラム教が二つに分裂したように感じられるかもしれません。
しかし実際には、イスラム共同体の主流がスンナ派であり、そこからアリーとその子孫を正統な指導者とみなす人々が枝分かれして形成されたのがシーア派です。
「シーア」とは本来「アリーの党派(シーア・アリー)」の略称であり、便宜上「シーア派」と呼ばれていますが、厳密には「派・派」という重複表現になります。
ウマイヤ朝の税制改革に強く反発したイラン人の不満は、後にアリー家を支持する運動と結びつき、イランがシーア派の重要な拠点となる背景の一つになりました。
一部の人々は、イランが近世以降シーア派国家となったことから「シーア派はイラン人のための宗派」と説明することがありますが、
これはあくまで現代の状況を踏まえた解釈であり、宗派そのものの起源や本質を表すものではありません。
ファーティマ朝のように、支配者がアラブ系でありながら、住民の多くがベルベル人で、国教としてシーア派を採用した例もあります。
また、イラン人とイラク人は民族的には異なり、イランはペルシア人が多数派、イラクはアラブ人が多数派の社会です。
シーア派の特徴
このように、シーア派は特定の民族に限定された宗派ではなく、地域や王朝の政治的・宗教的選択によって広がり方が異なりました。
イスラム教では、ユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」として扱う伝統があります。
イスラム教の理解では、ユダヤ教のヤハウェ、キリスト教の神、イスラム教のアッラーは呼び方が異なるだけで同一の唯一神とされています。
そのため、ユダヤ教徒とキリスト教徒は多神教徒とは区別され、特別な地位が与えられてきました。
一部のシーア派の伝統では、歴史的背景からゾロアスター教徒やネストリウス派キリスト教徒を啓典の民に含める解釈が生まれたこともあります。
これは、イラン地域に多くの改宗者がいたことや、地域社会の宗教構成を反映した解釈と考えられます。
イスラム世界では、共同体の指導者は「カリフ」と呼ばれます。
スンナ派は、正統カリフ4人、ウマイヤ朝の歴代カリフ、アッバース朝の歴代カリフをすべて正統な指導者として認めています。
一方、シーア派はアリーとその子孫のみを正統な指導者とみなし、指導者を「イマーム」と呼びます。
ただし、時代や地域によって「カリフ」「イマーム」の意味は変化するため、ここでは大まかな区別として理解しておくのが適切です。
現代では、シーア派はイラン・イラク・アゼルバイジャンなどに多く分布しており、世界全体ではスンナ派が多数派、シーア派は少数派です。
カイサーン派の形成とムフタールの乱
イスラムの分派について触れておきたいと思います。
第4代正統カリフ・アリーには、ムハンマドの娘ファーティマという妻がいました。
ファーティマ朝という王朝名をご存じの方もいるでしょう。
ファーティマはムハンマドの直系であったため、血統を重視するシーア派にとって、彼女の子孫は最も正統性の高い後継者とみなされました。
しかし、ファーティマの長男ハサンは政治的野心が薄く、次男フサインはカルバラーの戦いで殺害されてしまいます。
そこで注目されたのが、アリーの別の妻ハウラの子孫でした。
ここから「カイサーン派」と呼ばれる一派が形成されます。
名称の由来には諸説ありますが、確定した説はありません。
メッカでアブドゥッラーが反乱を起こした時期、クーファではカイサーン派がムフタールの指導のもと蜂起しました。
これが「ムフタールの乱」です。
ウマイヤ朝の混乱の中で、カイサーン派は一時イラク周辺に独自政権を築くほど勢力を伸ばしましたが、最終的にはウマイヤ朝第5代カリフ・アブドゥルマリクによって鎮圧されます。
しかし、彼らの思想は後にアッバース革命の中で再び重要な役割を果たすことになります。
ザイド派の形成
カルバラーでフサインが殺害された後、シーア派の後継者として支持を集めたのが、アリーの孫にあたるアリー2世(アリー・イブン・フサイン)でした。
彼は父方の祖父がアリー、祖母がムハンマドの娘ファーティマであり、曽祖父がムハンマドという血統に生まれています。
さらに、母はササン朝最後の王ヤズデギルド3世の娘とされ、アラブとペルシア双方の名門の血を引く人物でした。
このため、シーア派の多くが彼を正統な後継者として支持しました。
アリー2世の系統はその後も第5代・第6代イマームへと継承され、ウマイヤ朝と対立を避ける姿勢を取ったこともあり、比較的安定した時期が続きました。
しかし、すべてのシーア派がこの穏健路線に満足していたわけではありません。
アリーの曾孫にあたるザイドは、「ウマイヤ朝をカリフとして認める者はイマームではない」と考え、より積極的な反ウマイヤ政策を主張しました。
ザイドは甥にあたる第6代イマーム・ジャーファルに挙兵を促しましたが、ジャーファルはこれに応じませんでした。
そのため、ザイドは自らの支持者だけでウマイヤ朝に対して蜂起しましたが、反乱は短期間で鎮圧されてしまいます。
ザイドには多くの支持者が存在しており、彼らは第6代イマーム・ジャーファルがザイドを支援しなかったことに強い不満を抱きました。
この不満が独自の宗派形成につながり、後に「ザイド派」として知られる分派が誕生します。
ザイド派は現在もイエメン北部を中心に信者が存在しますが、シーア派全体の中では少数派です。
イスマーイール派の形成
一方、ジャーファルの嫡男イスマーイールは、伝承によれば酒を好むなど宗教的に問題があるとみなされ、ジャーファルによって廃嫡されました。
クルアーンには「酒は敵意と憎悪を生み、神への礼拝を妨げる」と記されており、イスラム法学的にも飲酒は重大な問題とされていました。
イスマーイールが廃嫡されたことで、彼の側近や支持者の間には強い不満が生まれました。
彼らはイスマーイールの息子を正統な後継者として推し、ここから「イスマーイール派(イスマイール派)」が形成されます。
イスマーイール派は後に大きな勢力となり、ファーティマ朝が国教として採用したことで、一時期はシーア派の中でも最大規模の宗派となりました。
しかし、現代ではイスマーイール派はシーア派の主流ではなく、シーア派の中心は十二イマーム派(ジャーファル派)が占めています。
イスマーイールの例を見ると、嫡男よりも弟が優秀とみなされる場合、後継問題が混乱を招きやすいことが分かります。
唐の李世民が兄の皇太子よりも優秀であった例や、徳川幕府8代将軍吉宗の家督問題など、歴史上さまざまな王朝で同様の現象が見られます。
イスマーイール派の支持者たちは、イスマーイールが廃嫡された後も彼を正統な後継者とみなし、彼が死亡したとは認めず「イスマーイールはお隠れになっただけだ」と主張しました。
これは、指導者の死を受け入れたくない心理や、自分たちの正統性を維持したいという願望が反映されたものと考えられます。
こうした「指導者は死んでいない」という信念は、古今東西で繰り返し見られる現象です。
日本でも「真田幸村は生き延びて秀頼を連れて落ち延びた」という伝承が生まれたように、
歴史上の英雄や象徴的な人物に対して、人々が「生きていてほしい」と願う心理が物語を生み出すことがあります。
しかし、願望によって形成された物語は、歴史的事実とは区別して扱う必要があります。
十二イマーム派と第6代カリフ・ワリード1世の統治
シーア派の主流である十二イマーム派では、第7代から第11代までイマームの継承が比較的安定して続きました。
しかし、第11代イマーム・ハサン・アル=アスカリーが亡くなった際、その子ムハンマド(ムハンマド・アル=マフディー)はまだ幼く、わずか5歳ほどだったと伝えられています。
ムハンマドは第12代イマームとして認められましたが、その後まもなく公の場から姿を消し、消息が分からなくなりました。
現代の感覚では「誘拐されたのではないか」などと推測されるかもしれませんが、当時の信徒たちは彼が「お隠れになった(ガイバ)」と解釈しました。
十二イマーム派の信仰では、第12代イマームは終末の時に再び姿を現し、正義をもたらす存在(マフディー)であるとされています。
ウマイヤ朝では、第5代カリフのアブド・アルマリクが内乱を収束させ、国家の再統合に成功しました。
彼の治世によってウマイヤ朝は再び安定を取り戻し、その後、705年にアブド・アルマリクが亡くなると、息子のワリード1世が第6代カリフとして即位します。
ワリード1世の時代は、国内が比較的安定していたと考えられています。
歴史的に、ユーラシア大陸の諸国家では、国内が安定すると対外遠征に積極的になる傾向が見られます。
一方、島国である日本では、国内統一が達成されると対外戦争を避ける傾向が強いとされます。
ただし、これは地政学的条件から導かれた一つの解釈であり、日本を含む多くの国家では時代や状況によって対外政策は大きく変化します。
ウマイヤ朝も「国内が安定した今こそ対外戦争の好機である」と判断し、ワリード1世は東西両方面での軍事行動を開始しました。
東方では、メッカのアブドゥッラー討伐で功績を挙げ、イラク総督となっていたハッジャージに指揮を任せました。
ハッジャージはオマーンやアフガニスタン方面を制圧し、部下のムハンマド・イブン・カースィムにインド方面の征服を命じます。
さらにハッジャージは、「最初に唐を征服した者に、その地を与える」と宣言したと伝えられています。
これは部下の士気を高めるための誇張的な表現で、秦末期に楚の懐王(義帝)が「最初に関中に入った者を王とする」と述べた故事を思わせるものです。
なお、この頃の唐では玄宗皇帝が即位した時期にあたります。
東方への進出
ウマイヤ朝の後に成立したアッバース朝の時代、751年には中央アジアでイスラム軍と唐軍が衝突し、いわゆる「タラス河畔の戦い」が起こりました。
イスラム勢力はインド方面にも進出しており、西インドのスードラ朝を破った一方で、
中央インドのヴァルダナ朝(ヴァルダーナ朝)やデカン高原のヴァビラ朝(バービラ朝)との戦いでは必ずしも優勢ではなく、撤退を余儀なくされた地域もありました。
当時のインドは複数の王朝が並立する時代であり、イスラム勢力の進出はその政治地図に一定の影響を与えました。
ウマイヤ朝の領土拡大が最も進んだのは第6代カリフ・ワリード1世の時代とされます。
彼の治世は内政が比較的安定しており、文化事業にも力が注がれました。
その象徴が、ダマスクスに建設された「ウマイヤド・モスク」です。
このモスクは現在もシリアの首都ダマスクスに残り、イスラム世界を代表する歴史的建造物の一つとなっています。
内部には、キリスト教の伝統を反映して洗礼者ヨハネの墓とされる場所も残されています。
ウマイヤ朝以前のダマスクスはキリスト教文化の中心地でしたが、ウマイヤ朝の成立以降はイスラム世界の重要都市として発展しました。
歴代カリフはシリア砂漠に離宮を築くなど、シリア地方を政治・文化の中心として統治を行いました。
一方で、イスラム教発祥の地であるアラビア半島は、政治的中心がダマスクスへ移ったことで相対的に周辺化していきました。
これはウマイヤ朝がシリアを基盤とする政権であったためで、政治的・経済的な重心が自然とシリア地方へ移動した結果と考えられます。
西方への進出
ワリード1世の時代、ウマイヤ朝は東方だけでなく西方への進出も進めました。
ただし、北アフリカ方面の征服は長期にわたり困難を伴い、ビザンツ帝国からエジプトを獲得した後も、北アフリカの広大な砂漠地帯を越えて進軍するには兵站上の課題が多くありました。
軍事史ではしばしば兵站の重要性が指摘され、官渡の戦い、諸葛亮の北伐、日露戦争などでも補給線が勝敗を左右したとされます。
ウマイヤ朝の西方遠征でも、伸びた補給線がビザンツ帝国の海軍によって脅かされることがあり、進軍が思うように進まない時期が続きました。
しかし、ワリード1世の治世には国家の財政基盤が強化され、北アフリカでの軍事行動が本格化します。
イスラム軍はチュニジアの重要拠点カイルワーンを確保し、そこを足がかりに西へ進んでジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島へと進出しました。
この遠征では、ターリク・イブン・ズィヤードとムーサ・イブン・ヌサイルの働きが大きかったとされ、西ゴート王国は短期間で崩壊しました。
その後、西ゴート王国の残存勢力は北部にアステュリアス王国を建て、ここから後世に「レコンキスタ(国土回復運動)」と呼ばれる長期的なキリスト教勢力の反攻が始まることになります。
トゥール=ポワティエ間の戦い
イベリア半島の大部分を制圧したウマイヤ朝軍は、ピレネー山脈を越えてフランク王国領へと進出しました。
当時のフランク王国ではメロヴィング朝の王権が弱体化していましたが、宮宰カール・マルテルが軍事的指導者として台頭していました。
この状況下で、732年にいわゆる「トゥール=ポワティエ間の戦い」が発生します。
この戦いは有名である一方、史料が限られており、実際の戦場の位置も「トゥールとポワティエの中間地域」としか分かっていません。
伝統的には、フランク軍がウマイヤ朝軍を撃退したことで「フランク側の大勝利」とされてきました。
しかし近年の研究では、より慎重な見方も提示されています。
当時のフランク軍は主に歩兵で構成されていたとされ、騎兵主体のウマイヤ軍に対して防御的な陣形を取っていた可能性が指摘されています。
戦闘の詳細は不明ですが、ウマイヤ軍が戦闘後に撤退した理由については複数の説があります。
- 指揮官アブドゥル=ラフマーンの戦死
- 森林地帯での戦闘に不慣れだった
- 双方に大きな損害が出た
- 補給線(兵站)の維持が困難になった
どの説も決定的ではなく、撤退の理由は現在も議論が続いています。
ウマイヤ軍の撤退後、フランク王国では騎兵の重要性が改めて認識されるようになりました。
これが後の重装騎兵の発展につながり、中世ヨーロッパの騎士制度の形成に影響を与えたと考えられています。
多民族的な帝国への移行
初期のイスラム帝国の軍隊はアラブ系戦士が中心でしたが、ウマイヤ朝の領土が拡大するにつれて、軍の構成は多様化していきました。
北アフリカやイベリア半島ではベルベル人が多く参加し、中央アジアではペルシア系住民がマワーリーとして軍務に従事するようになります。
広大な領域を統治するうえで、アラブ人のみで軍を維持することは困難であり、地域ごとの住民が軍事組織に組み込まれていったと考えられています。
「マワーリー」は本来、解放奴隷などを指す語でしたが、この時代には非アラブ系のイスラム教徒を広く指す言葉としても用いられました。
この変化を、アラブ人中心の征服期から多民族的な帝国へ移行する過程と捉える研究者もいます。
北アフリカの拠点カイルワーンでは、ビザンツ帝国が反攻を試みるなど、両勢力の対立が続いていました。
ウマイヤ朝は地中海東部でもビザンツ帝国と衝突し、717年にはコンスタンティノープル包囲戦を行います。
この包囲は最終的に成功せず、ウマイヤ軍は撤退しましたが、この戦いはビザンツ帝国にとって大きな転機となり、以後の中世ビザンツ国家の形成に影響を与えたとされています。
ウマイヤ朝の勢力が地中海世界に広がったことで、ヨーロッパの政治・軍事・経済にも変化が生じました。
地中海交易の構造が変わり、西ヨーロッパは独自の社会・経済体制を発展させていくことになります。
こうした環境変化の中で、ヨーロッパは中世的な社会構造へと移行していきました。
ウマル2世の政治方針
ウマイヤ朝の第6代カリフ・ワリード1世の時代には、西はイベリア半島、東は中央アジアにまで領域を広げました。
この時期がウマイヤ朝の最盛期とされています。
しかし、第7代スライマーン、第8代ウマル2世、第9代ヤズィード2世と短期間でカリフが交代し、政治的な不安定さが増していきました。
その中で、ウマル2世は税制や行政の改革を試みた人物として知られています。
初期イスラム帝国では主にアラブ系ムスリムが中心的役割を担っていましたが、ウマイヤ朝の領域が拡大するにつれて、
北アフリカのベルベル人や、旧ササン朝領のペルシア系住民など、多様な人々がイスラム教に改宗し、社会に参加するようになりました。
この状況を踏まえ、ウマル2世は非アラブ系ムスリム(マワーリー)に対する税制上の優遇や行政上の平等化を進めようとしたとされています。
彼の政策は一部のアラブ系有力者から反発を受けた一方、従来ウマイヤ朝に批判的だった層からは一定の支持を得たとも言われます。
しかし、ウマル2世の治世は約3年と短く、彼の死後、ウマイヤ朝は従来の政策に戻っていきました。
アブド・アッラフマーン1世と西ゴートのサラ
ヒシャームの治世には、西ゴート王家の血を引くとされるサラ(サラン)の領地をウマイヤ朝が回復したという伝承が残されています。
サラはイベリア半島で強い影響力を持っていました。
サラは後にアブド・アッラフマーン1世と関係を築き、イベリア半島に成立した後ウマイヤ朝を支える存在となりました。
ヒシャームがサラを助けなかったら、後ウマイヤ朝は誕生しなかったとも考えられています。
マルワーン2世と反乱
ヒシャームの死後、ウマイヤ朝ではワリード2世、ヤズィード3世、イブラーヒームと短期間でカリフが交代し、政権運営は不安定な時期に入りました。
イブラーヒームの在位は半年ほどで、その後マルワーン2世が軍事的・政治的優位を背景にカリフ位を継承します。
マルワーン2世は、政治的・軍事的状況を踏まえてダマスクスからハッラーンへと拠点を移しました。
この遷都の背景には、内外の対立や地方勢力の動向など、複数の要因が指摘されています。
しかし、遷都はシリア地方の一部勢力から反発を招き、大規模な反乱が発生しました。
同時期にビザンツ帝国もアナトリア方面で攻勢を強めており、ウマイヤ朝は複数の戦線に対応する必要に迫られました。
ルサーファが率いた反乱軍は大規模な勢力となり、マルワーン2世政権に対する大きな挑戦となりました。
マルワーン2世は、即位後に各地で発生した反乱の鎮圧に取り組み、その過程でウマイヤ家の拠点や軍事施設が戦闘の影響を受けることになりました。
マルワーン2世が拠点を徹底的に破壊したとも考えられています。
これにより、ウマイヤ朝の統治基盤は徐々に揺らいでいきます。
アッバース家
こうした状況の中で、新たに政治的影響力を強めていったのがアッバース家でした。
アッバース家の祖であるアッバース・イブン・アブドゥルムッタリブは、預言者ムハンマドの叔父の一人であり、クライシュ族ハーシム家に属していました。
アッバース家はメッカでの交易活動に関わり、巡礼者に水を供給する役割を担っていたことでも知られています。
ただし、アッバース家がイスラム教に改宗した時期は比較的後であったとされており、ムハンマドの死去時点では、後継者候補として名前が挙がる立場ではありませんでした。
その後、イスラム共同体の拡大とともに、アッバース家は徐々に政治的基盤を築いていくことになります。
アブー・ムスリムの台頭
ウマイヤ朝が内戦や地方反乱に直面する中、東方のメルヴではアブー・ムスリムという人物が政治的影響力を強めていきました。
アブー・ムスリムはウマイヤ朝に対する不満を背景に、ハーシム家の権威を掲げる運動を組織し、アッバース家の勢力拡大に大きく貢献した人物として知られています。
アブー・ムスリムの前半生については史料が限られており、出自や本名についても確定的な情報はありません。
「アブー・ムスリム」という名は、イスラム教徒としての立場を示すために用いられた可能性が指摘されています。
彼が活動していたメルヴは、現在のトルクメニスタンに位置し、ウマイヤ朝の領域の中でも東方の重要拠点でした。
アブー・ムスリムは、預言者ムハンマドの一族であるハーシム家の権威を支持する立場(ハーシム派)と後世に位置づけられています。
ハーシム派は、ムハンマドの家系がイスラム共同体の指導者となるべきだ
という思想を掲げていたとされます。
クライシュ族の中で、ウマイヤ家とハーシム家は共通の祖先を持ちながらも、早い段階で別の家系として発展していました。
ハーシム派の運動
ハーシム派は、預言者ムハンマドの一族がイスラム共同体の指導者となるべきだという思想を基盤としていました。
そのため、運動を進めるうえでは、ハーシム家の血統を持つ人物を支持の中心に据える必要がありました。
当初、ハーシム派の一部はアリー家(アリーの子孫)を支持する動きを見せましたが、
政治的・社会的状況の変化により、次第にアッバース家を推す方向へと傾いていったとされています。
アッバース家の指導者たちがアッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫であるかどうかについては、
見解が分かれており、確定的ではありません。
それでも、ハーシム派の運動を進めるうえで象徴的な指導者が必要だったことは確かで、アッバース家がその役割を担うようになりました。
アブー・ムスリムはこの時期、東方のホラーサーン地方で大きな影響力を持つようになり、ハーシム派の運動を組織化する中心人物となりました。
彼は軍事的な準備を進めるとともに、ハーシム家の権威を掲げる思想を広め、支持基盤を固めていったとされています。
ホラーサーン地方にはペルシア系住民をはじめとする
多くの非アラブ系ムスリムが居住しており、ウマイヤ朝の政策に対する不満が蓄積していました。
こうした社会状況が、アブー・ムスリムの運動が支持を得る重要な背景となりました。
アブー・アル=アッバースのカリフ宣言
ウマイヤ朝が白を象徴色として用いたのに対し、アッバース家を支持する勢力は黒を掲げました。
アブー・ムスリムの軍勢の中には、武器や装備まで黒く染めたと伝える史料もあります。
ウマイヤ朝では、マルワーン2世が内戦の中でウマイヤ家内部の対立に対処する必要に迫られ、その過程で一族の勢力が損なわれたとされています。
こうした状況の中、アブー・ムスリムは東方から西進し、イラクの中心都市クーファを掌握しました。
ホラーサーン地方での支持基盤を背景に、彼の進軍に対して大規模な抵抗は見られなかったと伝えられています。
アブー・ムスリムはクーファにアッバース家の指導者を招きましたが、長男イブラヒームは移動の途中でウマイヤ朝側に拘束され、その後死亡したとされています。
次男マンスールと三男アブー・アル=アッバースはクーファに到着し、アブー・アル=アッバースが黒旗を掲げてカリフ位を宣言しました。
アッバース家内部の継承については、母親が奴隷出身であったことが影響したとする伝承もありますが、史料によって説明が異なり、確定的ではありません。
アブー・アル=アッバースは後に「サッファーフ」の称号で知られるようになり、ここからアッバース朝の歴史が本格的に始まります。
ウマイヤ朝の滅亡
ウマイヤ朝は当然ながら、アッバース家のカリフ宣言を認めるわけにはいきませんでした。
イスラムの世界では二人のカリフを認める事が出来ず、当然ながらどちらかが倒れるまで戦うしかなくなったと言えるでしょう。
西暦750年にウマイヤ朝とアッバース朝はザーブ河畔の戦いで、決戦を行いました。
ザーブ河畔の戦いでは、マルワーン2世が素人同然の無謀な采配を行ったという記録が残されていますが、これはアッバース朝側の史料に基づく主張です。
しかし、マルワーン2世のこれまでの戦歴を考えると、必ずしも采配が稚拙だったとは言い切れません。
彼は首都をダマスクスからハッラーンへ遷した後も、大軍を破るなど軍事的能力を示していました。
むしろ実際には「マルワーン2世の軍事指揮そのものは悪くなかったが、人心掌握に失敗し、
内乱続きで兵士たちが厭戦気分に陥っていたため、軍が本来の力を発揮できなかった」という状況があったのではないかと考えられます。
士気が低いウマイヤ朝の軍に対し、アッバース朝の軍は新世界の誕生を夢見ており、士気が高くザーブ河畔の戦いの勝敗を決めたのが実情ではないでしょうか。
ザーブ河畔の戦いに敗れた事でウマイヤ朝の滅亡は決まり、マルワーン2世はエジプトに逃亡するも捕らえられ最後を迎えました。
ウマイヤ朝からアッバース朝に代わる過程をアッバース革命と呼んだりもします。
ウマイヤ朝滅亡後の世界
ウマイヤ朝は滅亡しましたが、アブド・アッラフマーン1世がイベリア半島で後ウマイヤ朝を建国する事になります。
ダマスクスを中心としたウマイヤ朝は約90年の歴史に幕を下ろしました。
一方、後継政権であるアッバース朝は、8世紀後半にバグダードを建設して政治・文化の中心地とし、その後は地方政権の自立が進みながらも、名目的には約500年にわたりカリフ位が継続しました。
このように比較すると、ウマイヤ朝は相対的に短い期間で終焉を迎えた王朝と見ることもできます。
しかし、その間にイスラム帝国の領域拡大や行政制度の整備が進み、後のイスラム世界に大きな影響を残したとも評価されています。
ウマイヤ朝の歴代君主
・ムアーウィア
・ヤズィード1世
・ムアーウィア2世
・マルワーン1世
・アブドゥルマリク
・ワリード1世
・スライマーン
・ウマル2世
・ヤズィード2世
・ヒシャーム
・ワリード2世
・ヤズィード3世
・イブラーヒーム
・マルワーン2世
ウマイヤ朝の動画
ウマイヤ朝を題材にしたゆっくり解説動画です。
この記事及び動画の参考文献はYouTubeの概要欄から確認してください。