
コバドンガの戦いはアストゥリアス王国のペラヨが寡兵で、ウマイヤ朝の大軍を破った戦いです。
ペラヨはアストゥリアス王国の王となりますが、既に西ゴート王国は壊滅しており、イベリア半島ではイスラム教徒が闊歩している状態でした。
イベリア半島ではアストゥリアス王国が北方に僅かな領地を持っているだけであり、絶望的な状態だったわけです。
ウマイヤ朝はアストゥリアス王国を滅ぼすべく大軍を組織しますが、ペラヨは山岳地帯を大いに利用し、コバドンガの戦いで勝利しました。
イベリア半島にキリスト教の国を残したという意味で、コバドンガの戦いは非常に意義ある勝利だったと言えるでしょう。
コバドンガの戦いからイベリア半島ではレコンキスタと呼ばれる700年にも及ぶ戦いが始まりました。
コバドンガの戦いが勃発
ペラヨがアストゥリアス王国を健康したのは718年とされています。
しかし、アストゥリアス王国に対してウマイヤ朝が無関心であったわけではなく、722年にはアストゥリアス王国とウマイヤ朝の間でコバドンガの戦いが発生しました。
イスラム軍は物資面で優位にあり、アストゥリアス王国側は兵力・装備の面で劣勢にあったとされています。
そのため、アストゥリアス王国の軍は防御に適した地形を求め、コバドンガへ退いたと考えられています。
コバドンガは標高約257メートルの地点にあり、天然の要害とされる場所です。
この地域へ至るには狭い道を通る必要があり、少数の兵でも防御しやすい地形でした。
イスラム軍の兵力については、18万人とする伝承がある一方で、実際には数千人規模、あるいは千人程度であったとする説もあります。
ウマイヤ朝側は800から1400程度の兵数だったとする見方も強いです。
こうした地形的条件から、アストゥリアス側は防衛が可能と判断したとみられます。
また、ウマイヤ朝の指揮官であったターリクやムーサがすでにイベリア半島を離れていたことも、状況に影響した可能性があります。
アストゥリアス王国の勝利
コバドンガの戦いでは、ペラヨ率いる勢力がイスラム軍を撤退させたと伝えられています。
この地域がアストゥリアス王国の支配下に入ったとする記述もあります。
伝承によれば、ペラヨ側は地形を利用し、高所から石や岩を落として攻撃したとされています。
ただし、コバドンガの戦いでのアストゥリアス王国の損害も大きく、300人中289人が亡くなったという話も存在している状態です。
イスラム側の史料には、ペラヨの軍勢を「野生のロバ」と呼んだという記述もありますが、これは後世の伝承的要素を含む可能性があります。
一方で、アストゥリアス地方は農業生産力が低く、征服しても得られる利益が限られていたため、ウマイヤ朝にとって戦略的価値が高くなかったとする見解もあります。
さらに、山岳地帯での抵抗は長期化しやすく、ウマイヤ朝にとっては負担が大きいと判断された可能性があります。
コバドンガの戦いは、後世のキリスト教史観において重要視され、ペラヨは「コバドンガでは大岩を破城槌として使い、オークの丸太を槍として使い、イスラム勢をくい止めた。
ペラヨは戦いに勝利し、大国の勢いを止めた後に、指導者として慎重な王として、この小さな国家を守り抜く方法を知っていた」として称えられました。
ただし、ペラヨ側の損害が大きかったとする記録もあり、戦闘の実態については複数の説があります。
それでも、コバドンガの戦いによってアストゥリアス王国が独立勢力として存続したことは確かであり、一部の研究者はこの戦いをレコンキスタ(再征服運動)の象徴的な起点と位置づけています。
この後、アストゥリアス王国は徐々に勢力を拡大していくことになります。