
ムーサはウマイヤ朝の北アフリカ総督であり、配下には名将のターリクがいました。
ターリクがグアダレーテ河畔の戦いで勝利すると自らイベリア半島に乗り込み、西ゴート王国の征討に取り掛かっています。
ムーサのイベリア半島支配のやり方は巧みであり、ウマイヤ朝に対して大きな功績を挙げますが、大きすぎる功績が故に失脚する事になります。
ムーサは不遇な最後を迎えますが、子のアブデルアジーズはイベリア半島で奮闘する事になります。
ムーサの統治政策とイベリア半島の安定化
北アフリカ総督のムーサはターリクに兵を与えて、イベリア半島に上陸させました。
ターリクはムーサの期待に応えグアダレーテ河畔の戦いで大勝しています。
グアダレーテ河畔の戦いで西ゴート王国に大勝した事で、ムーサもイベリア半島に上陸しました。
ムーサはセビージャに侵攻しますが、最終的にセビージャの人々は降服する事になります。
ムーサは住民の生命・財産の安全と信仰の自由を保障し、従来よりも軽い税負担を提示しました。
信仰に関しては、イスラム教に改宗するか、キリスト教のままでいるかは自由とされましたが、キリスト教徒には一定の税が課されました。
また、西ゴート貴族の多くは土地の所有を引き続き認められたとされ、このことがムーサの統治を受け入れる要因になったと伝えられています。
当時のイスラム軍には、アラブ人やベルベル人に加え、ユダヤ人など多様な背景を持つ人々が含まれていたとされています。
西ゴート王国はキリスト教国家であり、キリスト教以外の宗教を信仰する人は迫害を受けることがありました。
迫害を受けた人々が北アフリカへ移住し、彼らの子孫がムーサ軍に参加していたという説もあります。
彼らはイベリア半島に残る同宗教の住民に協力を呼びかけたとされます。
ムーサはこうした人々の協力を活用し、降伏後のセビージャの防衛や治安維持、行政運営を任せ、自身は主力軍を率いて北上しました。
セビージャで支持を得たことにより、その後の進軍でも各地で協力を受けることができたとされています。
ムーサが提示した軽い税負担や信仰の自由、安全の保障は、多くの住民に受け入れられた要因の一つと考えられています。
セビージャはその後、イベリア半島攻略の拠点となりました。
ムーサとターリクの帰還
ウマイヤ朝の勢力がイベリア半島に上陸してから、西ゴート王国は約8年で滅亡しました。
その要因の一つとして、ムーサの統治政策や軍事行動が効果的であったことが挙げられます。
ムーサは西ゴート王国の首都トレドに入城し、そこでターリクと合流しました。
その後、イスラム軍はさらに北上してサラゴサを攻略しました。
サラゴサはピレネー山脈に近い位置にあり、このことからイベリア半島北部までイスラム勢力の影響が及んだことが分かります。
この時期、ムーサとターリクが東西に分かれてイベリア半島の制圧を進めたとする説がありますが、詳細は明確ではありません。
中世アラブの歴史家イブン・ハルドゥーンは、「ムーサはカタルーニャからヨーロッパ南部を横断し、小アジアを経てウマイヤ朝の首都ダマスカスへ向かおうとした」と記しています。
ただし、これは史料によって見解が分かれる部分です。
最終的に、ムーサの南欧遠征は実現せず、ウマイヤ朝のカリフであるワリード1世から、ターリクとともにダマスカスへ帰還するよう勅命が下されました。
これにより、ムーサとターリクはジブラルタル海峡を渡り、北アフリカを経由してダマスカスへ戻ることになりました。
この際、ターリクが無念の思いで天を仰いだという伝承も残されています。
ムーサも同じ気持ちだったのかも知れません。
ムーサとターリクは王命に従い帰還しましたが、もしこの時に呼び戻されていなければ、ゴート貴族ペラヨがアストゥリアス王国を建国することは難しかったのではないか、という見方もあります。
アストゥリアス王国は後にイベリア半島でのキリスト教勢力の拠点となり、最終的にイスラム勢力を駆逐する流れにつながりました。
アストゥリアス王国がウマイヤ朝に征服されなかった理由としては、地域が比較的貧しく、さらに地形が険しかったことが挙げられています。
こうした条件から、ウマイヤ朝にとってアストゥリアスを攻めることは、労力に対して得られる利益が小さいと判断された可能性があります。
ムーサやターリクがイベリア半島に留まっていた場合、将来的な反乱の芽を摘むためにペラヨを討伐し、アストゥリアス王国が成立しなかった可能性も指摘されています。
その意味では、ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世がムーサとターリクに帰還を命じたことは、後の歴史に影響を与えた出来事と見ることもできます。
ムーサの帰還が無ければ、レコンキスタも存在しなかったのかも知れません。
ムーサの失脚
ムーサはダマスカスに帰還した際、膨大な戦利品や捕虜、奴隷に加え、西ゴート王族とされる人々を伴って凱旋しました。
この時期のムーサは、軍事的成功を収めた指揮官として高い評価を受けていたと考えられています。
ダマスカスでカリフに謁見したムーサは、戦利品を適切に献上していないという疑いをかけられ、拘束されました。
ムーサはそれまでの軍事的成功から一転し、罪を問われる立場となりました。
イスラム法では、戦利品の一定割合を国家に献上する決まりがあり、ムーサがその一部を着服したとされたため、処罰の対象となったと伝えられています。
ムーサは巨額の罰金を支払うことで死刑は免れましたが、追放処分となりました。
晩年については史料が乏しく、僻地で困窮のうちに亡くなったという伝承もあります。
一方、ターリクの帰還後の消息は明確ではありませんが、ムーサと同様に不遇な末路を辿ったとする説もあります。
ムーサやターリクは、軍事的成功によって大きな影響力を持っていたため、カリフにとって扱いが難しい存在になっていた可能性も指摘されています。
しかし、ムーサの政策を引き継いだ人物がいました。
ムーサの子であるアブデルアジーズです。
アブデルアジーズはイベリア半島で奮戦する事になります。