
| 名前 | スメンクカーラー |
| 時代 | エジプト新王国 |
| 在位 | 前1338年頃ー紀元前1336年頃 |
| 配偶者 | メリトアテン |
| コメント | 出自不明の共同統治王 |
スメンクカーラーはエジプト第18王朝において、アクエンアテンの共同統治王となりました。
エジプト第18王朝の共同王になったパターンを見ると、次期後継者を育成する為に行うのが普通でした。
しかし、当時のアクエンアテンによるアマルナ革命は行き詰まりを見せており、スメンクカーラーを共同統治王としテーベに派遣し、アメン神官団を懐柔しようとしたのでしょう。
尚、スメンクカーラーの存在を示す遺物は、治世第一年目のワイン壺しかなく、治世2年目には亡くなっていたと考えられています。
スメンクカーラーはアクエンアテンの弟とも考えられていますが、ネフェルティティや次のファラオであるネフェルネフェルウアテンと同一人物説もあり、出自からいってはっきりとしない謎多きファラオだと言えます。
アクエンアテンの側室の子とする説もあり、次期後継者と目されていた説もあります。
共同統治王となる
スメンクカーラーは晩年にアクエンアテンの共同統治王に選ばれました。
この時に、アクエンアテンはネフェルティティとの間に出来た娘のメリトアテンを嫁がせています。
この頃のメリトアテンは、まだ10代の前半であった事でしょう。
アクエンアテンはアテン神を信仰する一神教であるアマルナ革命を推し進めていましたが、民衆に指示されないなど問題も多くありました。
この問題を解消する為に、スメンクカーラーに自分の娘のメリトアテンを嫁がせ、共同統治王にしたと考えらています。
ただし、別説としてはアクエンアテンの側室の子で、正室のネフェルティティとの娘であるメリトアテンを嫁がせ後継者にしようとしたとする説もあります。
それでも、アクエンアテンとスメンクカーラーは、近しい血縁の者だったのではないかと考えられています。
尚、スメンクカーラーが公式に王として表現される描写は、アマルナのハレムの長メリラー2世の墓で、妻のメリトアテンと共にメリラー2世に捧げものをしているシーンだけです。
出土史料の少なさからも、正体不明の王だという事が分かるはずです。
テーベに派遣される
スメンクカーラーはエジプト第18王朝の旧都であるテーベに派遣された事が分かっています。
アクエンアテンはアメン神を迫害しましたが、改革は頓挫しており、晩年は迫害をやめた事が分かっています。
こうした中でスメンクカーラーをテーベに派遣しており、スメンクカーラーを使ってアメン神官団との和解の道も模索したのでしょう。
アクエンアテンも普通の使者では立場が弱いと考えたのか、スメンクカーラーを共同統治王に任命し、箔をつけた上で送り出したと考えられています。
ただし、スメンクカーラーが共同統治王になった期間は、2年ほどしかなく激務の為か早い時期に亡くなっています。
尚、王家の谷第55号墓の被葬者がスメンクカーラーではないかとする説が存在しています。
スメンクカーラーとネフェルネフェルウアテン
スメンクカーラーとネフェルネフェルウアテンが同一人物とする説があります。
ネフェルネフェルウアテンがネフェルティティと同一人物説があり、スメンクカーラーの正体はアクエンアテンの妻であるネフェルティティとする説もあるわけです。
スメンクカーラーの即位名は、アンクケペルウラーであり、次のアクエンアテンの共同統治王となるネフェルネフェルウアテンも即位名もアンクケペルウラーです。
こうした事情もあり、スメンクカーラーは途中でネフェルネフェルウアテンに改名し同一人物ではないかとする説があります。
ややこしい話ではありますが、ネフェルネフェルウアテンはネフェルティティの別名であり、スメンクカーラーの正体はネフェルティティだとする説があるという事です。