三国志

孫松(そんしょう)は年を重ねるにつれて成長した様に感じる

2021年10月25日

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宮下悠史

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名前孫松(そんしょう) 字は子喬
生没年生年不明ー231年
時代後漢末期、三国志、三国時代
年表229年 陸遜に叱責される
 231年 死去
コメント人望はあった様ではあるが、若くして亡くなる。

孫松(そんしょう)は孫翊の子であり、呉の王族でもあります。

孫翊は父親が孫堅であり、兄に孫策孫権がいます。

孫松からしてみれば祖父は孫堅であり、孫策や孫権は叔父にあたる人物となるはずです。

孫松は陸遜に叱責された話もありますが、孫松の度量の深さもあり、お互いを信頼した様な話も存在します。

孫松は若くして亡くなってしまった様ではありますが、諸葛亮が諸葛瑾への手紙の中で孫松を悼む文章まであります。

今回は呉で射声校尉、都郷侯に任ぜられた孫松の解説をします。

陸遜と孫松

陸遜に叱責される

孫松は呉録に記録があり、人との交わりを大切にし、財貨を惜しみなく人々に与えたとする記述があります。

これを見ると、孫松は清貧を貫き、立派な人物だと思うかも知れません。

しかし、正史三国志の陸遜伝には下記の記述が存在します。

「射声校尉の孫松は、孫権に可愛がられていた事から、兵士達の訓練を怠っていた。」

孫松は孫権からの寵愛をいいことに、職務を怠っていた記述があるわけです。

陸遜は孫松の行為を問題視し、孫松配下の役人を髠刑にしたとあります。

髠刑は頭を坊主にする刑罰であり、孫松が兵士の訓練を真面目に行っていない事は明らかだったのでしょう。

呉録に孫松が巴丘の司令官になった時に、陸遜に何度も意見を求めた話があり、孫松が小さな失態を犯し、陸遜に面と向かって叱責された話があります。

これを考えると孫松は陸遜に何度か叱責されたり、兵士の訓練を怠ったのは、孫松が巴丘駐屯軍の司令官だった時の事を指すのかも知れません。

陸遜と信頼関係を築く

陸遜に叱責された孫松は、穏やかではなかったのか不満の様子が顔に出てしまいます。

陸遜も孫松に対して言い過ぎたと思ったのか、暫くしてから孫松に対して、次の様に述べます。

陸遜「あなたは、私の見識の狭さを意に介する事も無く、私に対し意見を何度も聞きに来てくださいました。

それ故に、私はあなたの事を思って、正直に意見を申したのです。

そうしましたら、貴方様は顔色を変えられてしまいました。

これは、どうした事でございましょうか。」

陸遜としては、孫松とのわだかまりを解消し、良好な関係を築きたいと考えての言葉だったのでしょう。

陸遜の言葉を受けた孫松は、笑いながら次の様に述べています。

孫松「私は失敗をしでかしてた、自分に腹を立てたのであり、貴方に対して恨みを持ったわけではありません。」

これを見る限りだと、孫松の性格のよさと陸遜の人に対して、気遣いが出来る事が分かります。

陸遜は夷陵の戦いの時に、孫桓の援軍要請を拒否した事があり、孫桓に恨まれましたが、後に和解した話があります。

この時の孫桓は度量が広い部分も見受けられると感じましたが、同じように孫松も度量の深い人物だった様に感じます。

惜しまれた死

正史三国志によれば、孫松は黄龍3年(西暦231年)に亡くなったとあります。

孫松の死因に関しては、記述が無く不明です。

蜀の丞相である諸葛亮は、兄である諸葛瑾に対しての手紙で次の様に述べています。

「東に朝廷において厚い持て成しを受けた事もあり、呉の若者たちには親しい感情を持っております。

呉の若者たちの中でも、子喬(孫松)殿は、立派な器量を持っていたと聞いていました。

その子喬様が亡くなった事で、私は心を痛めております。

子喬様が私にお贈り下さった品々を見ると涙が出て来てしまう程です。」

諸葛亮が孫松の事を知っていたのは、諸葛瑾の子で諸葛亮の養子となった、諸葛喬が孫松の事を諸葛亮に詳しく教えた為だという事が分かります。

諸葛喬から見ると、孫松はかなり評価が高く、素晴らしい人材だと諸葛亮に述べていた様に感じました。

孫松と諸葛喬

諸葛喬は諸葛亮の養子になった時に、仲慎から伯松に字を変えています。

なぜ諸葛喬が「伯松」に字を変更したのかは不明ですが、「伯松」の「松」は孫松の「松」から来ている様に思います。

孫松の字は子喬であり、諸葛喬の名が「喬」だった事から、孫松と諸葛喬は特別な感情を抱いていた様にも感じました。

記録は残っていませんが、諸葛喬は孫松よりも先に亡くなっている事から、諸葛喬の死を聞いた孫松は嘆き悲しんだ様にも思います。

孫松の評価

孫松ですが、陸遜には叱責されたり、真面目に兵士の訓練をしなかった逸話が残っています。

しかし、孫松の職務を怠ったなどの話は、若気の至りであり、成長過程において必須の失敗だったのかも知れません。

孫松は年を重ねる事に成長し、最終的には人を大切にして財貨を与えるなど、立派な人物になったようにも感じました。

孫松は若くして亡くなってしまった様ではありますが、度量が深く有能な人物だった様に感じます。

参考文献:ちくま学芸文庫 三国志6巻呉書

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三国志14統率48武力55知力41政治35魅力69

知力と政治が低いのは職務を怠けた事が影響している様に感じます。

孫松の魅力が高めなのは、諸葛亮の手紙で持ち上げられている事が原因だと思いました。

活躍している時期が短い関係もあり、能力値の高さは、そこそこの設定にしておいたのでしょう。

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