張懌は張羨の子です。
張懌の父親である張羨は主君の劉表と折り合いが悪く、桓階の進言により曹操と結び乱を起こしました。
後の事を考えると、張懌も張羨の乱に参加し活躍したのでしょう。
張羨の死後に、張懌は指導者となり、反乱軍の大将になった話があります。
しかし、劉表は張懌を攻撃し、張懌は敗れました。
ただし、張懌の奮闘が歴史に与えた影響は少なからずある様にも感じています。
今回は張懌の解説をします。
反乱軍を率いる
張懌の父親である張羨は桓階の言葉で反乱を決意しました。
この時に曹操は官渡の戦いで、袁紹と対峙しており一人でも味方が欲しい状態だったのでしょう。
張羨が曹操陣営に味方する事を知った曹操は多いに喜びます。
記録はありませんが、張羨の子である張懌も父親と共に行動し、劉表軍を寄せ付けませんでした。
劉表は張羨の乱を鎮圧する事が出来ず、数年を費やしてしまう事態となります。
劉表は袁紹に味方すると宣言しながら、動けなかったのは長沙、桂陽、零陵の三郡が張羨に靡いた事で、軍を北に回せなかったのが大きかったとも言えるでしょう。
しかし、何年の事なのかは記載がありませんが、張懌の父親である張羨は病死してしまったわけです。
正史三国志には、次の記述があります。
「張羨が病死すると長沙では、張羨の子・張懌を立てた」
上記の記述から、張羨の後継者に張懌が選ばれた事が分かります。
張懌が長沙太守になったと言う事なのでしょう。
張懌が長沙太守になった理由ですが、今までの働きや血筋などから選ばれた様に感じました。
劉表が長沙、零陵、桂陽の反乱を抑える事が出来なかった理由の一つが、張懌の存在なのかも知れません。
劉表に敗れる
張羨や張懌が劉表に反旗を翻した理由の一つとして、中央にいる曹操の助けを得られると考えた事が大きい様に思います。
桓階の考えとしても、曹操が官渡の戦いで袁紹を破り、曹操が南下し劉表を挟撃する事にあった様に感じています。
確かに官渡の戦いで曹操は勝利し、その後に袁紹が病死するなど、張羨や張懌、桓階らの願った様に事が進んだとも言えるでしょう。
しかし、袁紹が亡くなると袁譚と袁尚が後継者争いを起こしますが、曹操が袁氏の領土に迫ると袁譚と袁尚は協力して曹操を迎え撃ちました。
曹操陣営としては、曹操が北方から去れば、袁譚と袁尚は再び仲違いを起こし、隙が出来ると読んだわけです。
曹操は袁譚と袁尚が争うまでの時間に、南方の劉表を攻撃する予定だったのでしょう。
曹操が劉表を討ち、張羨、張懌が呼応すれば、劉表を挟撃出来る事になります。
しかし、曹操が劉表のいる荊州を攻撃する前に、袁譚と袁尚が激しく争った事で、北方に好機が生まれ曹操は北方の平定に取り掛かります。
これにより、張懌は完全に孤立する事になったとも言えるでしょう。
劉表としても、北方の曹操の備えとしていた兵を張懌に回せる様になった様に感じました。
正史三国志には下記の記述があります。
「劉表は攻撃を続け張懌を平定した」
劉表は張懌に攻撃を続け、遂には反乱を平定する事になりました。
袁譚と袁尚の仲違いが遅ければ、曹操の荊州への遠征があり、歴史は変わっていた様に思います。
劉表の全盛期
張懌の乱は鎮圧されますが、劉表が張懌を斬ったとする記述もありません。
その為、劉表に敗れた張懌が、その後にどうなったのかは分からない状態です。
張懌が劉表に敗れた後ですが、劉表には下記の記述があります。
「劉表は南方では桂陽、零陵を手中に収め、北方は漢川にまで達した。
その領地は数千里あり、武装兵の数は10万を超えた」
この記述を見ある限りでは、張懌を平定した事で、劉表は大きな力を手に入れた事になったと読み取る事が出来ます。
さらに、英雄記には張懌を平定した後として、次の記述が存在します。
「州の境界の辺りにも反旗を翻す者がいなくなり、劉表は学校を解説し、広く儒者を探し求めた。
宋忠、綦毋闓らに『五経章句』を編集させ『後定』と称した」
劉表は大量の兵士を動員できる様になっただけではなく、高名な儒者である宋忠、綦毋闓らに文化面でも働き掛けた事が分かります。
長沙にいた張懌を破った事で、劉表は全盛期を迎えたとも言えそうです。