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構成・文/宮下悠史

その他 三国志

張羨(ちょうせん)は長沙で反旗を翻すも病死

2022年3月22日

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名前張羨(ちょうせん)
生没年不明
時代後漢末期
勢力劉表→曹操
一族子:張懌
コメント強情な性格ではあったが人望はあった
画像三国志14(能力値は最下部)

張羨は出身地に関しては、正史三国志の英雄記に記録があり、荊州南陽郡の出身だとあります。

張羨は有能な人であり、治世においては実績を挙げ民から慕われていました。

しかし、強情な性格が災いし、主君である劉表からは嫌われていたわけです。

こうした中で、桓階が劉表に反旗を翻し、曹操に味方する様にと進言しました。

桓階の考えに、張羨は長沙を中心とした三郡で反乱を起こしています。

張羨の乱に、劉表は数年を掛けても平定出来なかった話があり、張羨は粘り強く戦ったのでしょう。

ただし、桓階や張羨の考えにも誤算が生まれ、最後は劉表に討伐される中で、張羨は病死しました。

尚、官渡の戦いで劉表は袁紹に味方する事を約束し、劉備の進言があっても兵を出さないなど、優柔不断な性格だと指摘される事が多いです。

しかし、実際には張羨の反乱規模が大きく長引いた事で、官渡の戦いで袁紹に兵を送る事が出来なかったとも考えられます。

 

劉表に遺恨を抱く

張羨は零陵郡や桂陽郡などで県長になった事があり、民心を掴み評判の人物でした。

しかし、張羨の性格は強情であり、人に対して屈する事が無かったとあります。

張羨は有能な政治家ではありましたが、劉表や荊州の高官たちの命令であっても間違っていると思えば、従わない部分も多々あったのでしょう。

荊州牧の劉表も張羨を扱いにくいと感じたのか、劉表は張羨を軽んじる事となります。

しかし、張羨にしてみれば実績を上げているのに、礼遇してくれない劉表に対して、恨みを抱く様になります。

 

謀反を決断

不満を募らせる張羨でしたが、この時に曹操と袁紹の間で官渡の戦いが勃発しました。

この時に劉表は袁紹を支援する事を約束しています。

官渡の戦いが行われた時に、張羨は長沙太守をしており、桓階が次の様に進言しました。

桓階「道義に基づいて行動をしたのに、失敗しない者はいません。

それ故に、春秋時代の斉の桓公は諸侯を率いて周王朝を尊重しました。

同じく晋の文侯も叔帯を放逐し、周の襄王を洛陽に入れたのです。

現在の袁氏は斉の桓公や晋の文侯と正反対の態度を取っているのに、劉牧(劉表)が袁紹に呼応するのは、失敗を招くやり方です。

張羨殿は必ずや功業を打ち立て、道義を全うし、福を得て禍いを遠ざけたいと願うのであれば、袁氏と同調してはなりません」

桓階は春秋五覇の斉の桓公や晋の文公を例に出し、張羨に袁紹に味方してはならないと述べたわけです。

張羨は桓階に対し、次の様に述べ発言を求めます。

張羨「さすれば、誰に味方するのが最良であろうか」

張羨は誰に味方すればいいのか、決めあぐね桓階に意見を求めたわけです。

桓階「曹公(曹操)に味方するのが最善です。

今の曹公は弱いと感じるかも知れませんが、道義に従い朝廷の窮地を救い、王命に従わない者を討伐しております。

曹公に対し、服従しない者がいるはずもありませんし、四つの郡と三つの江を保持し、曹公が訪れるのを待つのです。

そして、曹公の為に内応すればよいではありませんか」

張羨は劉表と折り合いが悪かった事もあり、桓階の意見を採用し、長沙を中心とした三郡で劉表に反旗を翻したわけです。

劉表は張羨を軽んじていたわけですが、張羨は民から人気があり、支持する人も多かったのでしょう。

曹操は官渡の戦いでは、強力な軍隊を持つ袁紹に対し、劣勢だった事もあり、張羨が自分に呼応した事を大いに喜んだ話があります。

官渡の戦いの時に、賈詡の進言もあり、過去に敵対した張繡が劣勢の曹操に味方した話があります。

この時も曹操は多いの喜びました。

それを考えると、北方から遠い南方の長沙であっても、曹操にとってみれば張羨が味方してくれた事は頼もしく、劉表の後方をつく抑えになればとも考えたのでしょう。

実際に、劉表は官渡の戦いの時に、袁紹に味方する事を約束しましたが、兵を出せなかったのは優柔不断であったのではなく、張羨を鎮圧する事が出来なかったからだとも考えられます。

 

張羨の誤算と最後

正史三国志の劉表伝によれば、劉表は張羨を囲みますが、何年も降す事が出来なかったとあります。

張羨が長沙の近辺で民心を得ていた事で、予想以上に乱が長引いてしまったのでしょう。

張羨は奮戦しますが、事は桓階の言う様に上手くは行きませんでした。

曹操は最終的には官渡の戦いで勝利し、西暦202年に袁紹が亡くなり、袁紹の子である袁譚や袁尚が後継者争いを起こしますが、曹操は北方に張り付いており南征する事が出来なかったわけです。

曹操としては、劉表討伐を行いたい気持ちがあったようですが、袁譚と袁尚が予想以上に早く激しく争った事で、曹操は北方の平定を優先させました。

実際に、曹操が北方を平定し荊州に軍勢を勧めたのは、西暦207年の劉表死後からです。

つまり、張羨は曹操の軍勢をあてにしていましたが、曹操自体が北方の制圧を優先させた事で、張羨は孤立してしまったのでしょう。

張羨や桓階の計画に誤算が生じた事になります。

こうした中で、劉表が張羨を急襲し、張羨が病死する事態となりました。

張羨にとってみれば、曹操が駆けつけてくれないストレスもあったでしょうし、長い戦いで体が衰弱してしまったのかも知れません。

ただし、張羨が亡くなった後も、乱は終結せず、反乱軍は張羨の子である張懌を総大将として、乱を継続したわけです。

張懌も奮戦したとは感じますが、最後は劉表の軍に敗れて乱は鎮圧されました。

余談ですが、張羨に乱を進言した桓階は、後に曹操から多いに評価された話があります。

 

張羨の能力値

三国志14統率70武力45知力55政治66魅力58

 

 

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