その他 三国志

宋忠(そうちゅう)は高名な学者にして、劉備に剣を突き付けられていた。

2022年4月9日

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宮下悠史

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名前宋忠(そうちゅう) 字:仲子 別名:宋衷
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力劉表劉琮曹操
コメント高名な学者で門下生も多い
画像三国志(コーエーテクモゲームス

宋忠は後漢末期や三国志の時代に、活躍した学者です。

名士層である許靖と交流を持ち王商や尹黙、李譔、潘濬などに学問を教えるなど、名が通っていた学者であった事は間違いないでしょう。

しかし、宋忠は劉備に剣を突き付けられた事があり、そちらのインパクトが強く、評価は余り高くない様に感じます。

三國志演義でも学者としての姿は鳴りを潜め、正史同様に劉備に叱責されています。

それでも宋忠は学者としては、虞翻に批判された部分はありつつも、功績を残しました。

尚、宋忠の子が219年に起きた魏諷による反乱未遂に参加した話が伝わっています。

宋忠の子が魏諷に加担した理由は、宋忠への劣等感だったとする説もあり、合わせて解説します。

高名な学者

西暦200年頃に曹操と袁紹の間で対立が頂点に達し、官渡の戦いが勃発しました。

この時に荊州の劉表は袁紹に味方しようとしますが、張羨が長沙で反乱を起こし数年が経っても平定する事が出来なかったわけです。

しかし、張羨死後に反乱を引き継いだ張懌を討伐し、荊州が平和となり劉表は学校を開設しました。

劉表は広く儒者を集め宋忠や綦毋闓に五経章句を編集させ、これを「後定」と称したとあります。

この記述を見る限り、宋忠が高名な学者であった事は間違いないでしょう。

王粛は宋忠の元で「大玄経」を読んだ話がありますし、王粛は大玄経の解釈を作った話もあります。

他にも、蜀の劉備の荊州方面の事務方トップとなったり、後に呉で仕えた潘濬も宋忠に学問を習った話があります。

王粛は曹真の子午の役と呼ばれる蜀討伐において、殷の紂王や周の武王を例に出し、撤退する様に上奏した話があり、潘濬は呉の呂壱事件を陸遜や歩隲らの支持を受けて終わらせた実績があります。

曹真や呂壱の話を見ると宋忠の弟子も活躍しており、宋忠の指導がよかったと解釈する事も出来るはずです。

尚、後に蜀で劉備や劉禅に仕えた尹黙や李譔は、荊州に遊学した時に、宋忠や司馬徽とも交流があったと記録されています。

それを考えると司馬徽と宋忠にも交流があり、宋忠は諸葛亮龐統徐庶などとも顔馴染だったのかも知れません。

王商への手紙

許靖伝に益州にいた劉璋が使者を派遣し、許靖を招請した話があります。

許靖は蜀に入り、劉璋は許靖を巴郡・広漢太守に任命しました。

この時に宋忠は荊州の南陽におり、蜀郡太守の王商に次の手紙を送っています。

宋忠「文休(許靖)は独立した精神を持つ優秀な人物です。

文休は今の時代にとって必要な能力を保持しており、貴方は彼(許靖)を指南役にすべきです」

宋忠は許靖を褒め称え、王商には許靖に支持する様に伝えたわけです。

許靖は名士であり、宋忠も名士として許靖と交流があったとも考えられます。

尚、王商も高い名声を持っており、宋忠だけではなく、主君の劉表も名声を聞き及び、手紙を出し交流した話がある程です。

劉備に剣を突き付けられる

劉表が亡くなり劉琮が後継者になると、劉琮は劉備に知らせずに曹操に降伏しようと考えます。

劉琮は曹操と戦ってみたい気持ちはあった様ではありますが、劉表の後妻・蔡氏の一族の蔡瑁が曹操と旧知の仲だったり王粲傅巽蒯越らが劉琮に降伏を勧めました。

降伏派は劉備の耳に入れば、面倒な事になると考えたのか、劉備に知らせずに内密に降伏の準備を進めています。

孔衍の漢魏春秋によれば、劉備は劉琮が降伏の準備を進めている事を知り、使者を派遣すると劉琮は劉備に、宋忠を派遣し説明させたとあります。

劉備は曹操が既に宛にいる事を知り、多いに驚き宋忠に向かって次の様に述べました。

劉備「其方らがやる事は、この程度の事なのか。早くから相談する事もせず、禍が目前に迫った頃に、漸く儂に知らせるとは。余りにも酷いではないか」

さらに劉備は刀を宋忠に突きつけると、次の様に述べます。

劉備「今、其方の首を斬り落とした所で、この怒りは収まらない。

それに大丈夫たるものが、困難にあったからと、其方らを殺害するのは恥だからな」

劉備は啖呵を切ると、宋忠を去らせました。

宋忠は襄陽の城に戻りますが、曹操が目前に迫っており、劉備は配下の諸将らと対策を練ります。

劉備配下の者で江陵に向かう様に勧めた者がいましたが、劉備は次の様の述べています。

「劉荊州殿(劉表)は臨終の際にみなしご(劉琮)を私に託された。

その信義に背き我が身の安全を計る事など出来ない。その様な事をしたら、死後に劉荊州殿に合わせる顔がない」

漢魏春秋では劉備は南下を拒否したかの様な記述がありますが、実際の劉備は宋忠を去らせた後に、江陵に向かい南下しました。

劉備が襄陽城の前を通った時に、諸葛亮が「今、襄陽城を攻撃すれば荊州が取れる」と進言しますが、却下した話があります。

劉備が諸葛亮の進言に従わなかったのは、宋忠の言葉に苛立ちながらも、一定の誠意を感じた可能性もある様に思います。

ただし、襄陽城を怒って攻撃しないのは、劉備の性格による所も大きいと考えられるでしょう。

劉備の入蜀の時も劉備は、龐統の劉璋暗殺策も却下しています。

劉備は一撃で事が終わる様な、解決方法を望まない様にも感じます。

尚、三国志演義だと劉琮は曹操への降伏の使者として、宋忠を北方に向かわせますが、宋忠は関羽に捕らえられてしまいました。

張飛は宋忠を殺害する様に進言しますが、劉備は正史同様の言葉を宋忠に放ち、宋忠は殺害されずに済んでいます。

このシーンを見ると宋忠は情けなく思うかも知れませんが、実際には怒っている劉備を説得するなど、かなり難しい役回りであり、誰もやりたくない様な交渉を引き受けたとも言えます。

虞翻の評価

孫策孫権に仕えた虞翻は、宋忠に関して、次の様に述べています。

虞翻「北海の鄭玄や南陽の宋忠などは、それぞれの注釈で一家言を成してはおりますが、宋忠は鄭玄にいささか劣っております。

さらに、宋忠も鄭玄もちゃんとした取り次ぎ口すらも、発見出来ておりません。

宋忠も鄭玄も世間で発表するには、問題があると考えます」

虞翻は宋忠や鄭玄の事を批判していますが、虞翻自身がかなり癖が強い人物だった事も考慮する必要があると感じました。

虞翻は性格の問題からか、孫権とも折り合いが合わず、功績はありましたが後に放逐されています。

虞翻は大玄経には少なからず誤りがあり、別の解釈を作成し「明楊」と「釈宗」との二篇を著しました。

宋忠に関しても、賛否両論の部分もあったのでしょう。

さらに、学問は雲を掴む部分もありますし、批判されても仕方ない部分もある様に感じています。

尚、正史三国志だと虞翻が宋忠を語る場合に、宋衷と記載されています。

宋忠の子が魏諷に加担

宋忠の子が魏諷の乱に加わり、鄴で謀反を起こそうとした事が分かっています。

尚、宋忠の子は名前が伝わっておりません。

宋忠の子は、父親の宋忠に比べて実績を残せていない事への焦りから、魏諷に加担したとも考えられています。

魏諷の反乱計画には宋忠の子以外にも、王粲の子なども含まれており、父の知名度に比べて実績がない人物が多く含まれています。

さらに、武勇に優れた張繍の子でありながら実績が見当たらない張泉や、曹植派の楊俊、劉廙の弟の劉偉など、近親者に実績がありながら本人に実績がない人物が魏諷の乱に加担したとも言えるでしょう。

宋忠の子も父親に対する劣等感などを魏諷に刺激され、反乱に加担したのかも知れません。

魏諷もくすぶっている感情を上手く引き出した様にも感じました。

尚、宋忠の子が加担した魏諷の乱ですが、陳禕が曹丕に密告した事で未然に防がれています。

宋忠の子も処刑されています。

宋忠の能力値

三国志14統率29武力30知力64政治53魅力52

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