徐宗は呉の孫権に仕えた人物です。
徐宗は文人気質で評判が高かったとする記述があります。
しかし、芸術的で大まかな人物であった為か、部下に対しても放任主義を行いました。
徐宗が部下を緩く扱った事で、徐宗の部下達はやりたい放題となり、徐宗は責任を取らされ最後は、潘濬に斬られました。
今回は正史三国志の潘濬伝の注釈・呉書に記録がある徐宗を解説します。
尚、徐宗は文化人ではあったようですが、自分の書や賦などの作品は残しておらず、そこが残念に感じました。
孔融と交わりを結ぶ
潘濬伝の注釈・呉書によれば徐宗は豫章出身で、中郎将となり評判の高い人物だったとあります。
徐宗は都に赴いた事があり、孔融と交わりを結んだとあります。
孔融は変わり者の部分があり奇人とも言える禰衡や、ペテンを行った太史慈など、変わった人物を評価する傾向にあったわけです。
孔融と徐宗が交わりを結んだという事は、徐宗も変わり者としての部分が強かった様に感じました。
孔融は陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨などの建安七子にも名が連なり、徐宗も高い文学の教養があった事でしょう。
しかし、徐宗の文人気質な性格が仇となります。
放任主義を行う
徐宗は文人気質であり部下に対しては、放任主義の姿勢を取り自由にやらせていました。
曹植が邯鄲淳と意気投合した時の自由な発想や、禰衡の様な奇人とも取れる部分を徐宗も持っていた様に思います。
劉表が王粲に会った時に「王粲のおおまかな性格を嫌った」とする話があり、芸術肌の人間は独創性はありますが、自由に生き他人に束縛されるのは嫌がる傾向にあるのでしょう。
徐宗には部下がいましたが、放任主義を貫いた事で、徐宗の手下たちはやりたい放題だったわけです。
徐宗にしてみれば芸術面ばかりに目が行っており、部下の事など気にしなかったのかも知れません。
徐宗が部下の統率をしなかった事で、徐宗の部下は法律も守らず、人々の悩みの種となっていました。
関羽討伐後に配下となり、孫権から信任を得た潘濬は、徐宗の部下達の行動を問題視したわけです。
徐宗の最後
潘濬は徐宗の部下を放置しておけば、治安が乱れると感じたのでしょう。
潘濬伝の注釈・呉書に次の記述があります。
「徐宗の手下たちは決まりを守ろうとせず、人々の嘆きの種となっていた。
潘濬は徐宗を斬刑に処した」
これを見ると分かる様に、潘濬は部下がやりたい放題なのは徐宗の責任だとし、徐宗を処刑してしまったのでしょう。
潘濬としても部下全員を処刑する訳にも行かず、徐宗に責任を取らせ解決しようとした様に思いました。
徐宗は部下に対しては放任主義で人々の悩みの種でしたが、文人気質で評判はよかったわけです。
それを考えると潘濬は徐宗を処刑すれば、非難が集まる事は分かっていた事でしょう。
徐宗もそれが分かっており、部下を統率しなかったり好きな様に振る舞っていた様に思います。
しかし、潘濬は法を重んじ、人々の評判など気にしなかった話があり、徐宗にしてみれば相手が悪かったとしか言いようがありません。
因みに、潘濬は呂壱事件の時には、刺し違えようとした話があり、後世では呉の名臣として語り継がれる事となります。